一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『反貧困』

2009-01-06 | 乱読日記

僕自身は「困ったら助けてもらう」のではなく「困らないように備えをし、努力する」ことがまず大事で、それが不可能になった状態でセーフティネットを働かせるべきだと思うのですが、日本の現状はそれをはるかに通り越している、という話です。

著者は「反貧困」を掲げるNPOの代表で、年末年始の「派遣村」を企画した一人でもあります(下の動画で最初に演説をしている人です)。

前半は統計データから日本の貧困率が好景気にも関わらず増えていること、税と社会保障による貧困の削減率がOECD国中最低であり、若年層の貧困率がアメリカに次いで高いことを指摘し、社会構造やセーフティネットの歪みを指摘します。

そして、貧困状態に至るには「五重の排除」があるといいます。

1.教育課程からの排除
その背後には既に親世帯の貧困がある。
2.企業福祉からの排除
雇用されないだけでなく、非正規雇用の雇用保険・社会保険、福利厚生、労働組合などからの排除。
3.家族福祉からの排除
親や子供に頼れない、またはそもそも頼れる親や子がいない。
4.公共の福祉からの排除
窓口で追い返して(不正受給以上に)支給を絞ろうとする生活保護行政
5.自分自身からの排除
ついには生きる目的を失う心理状態に至る

そして、いちど貧困にはいるとセーフティネットにかからず「すべり台」のように貧困が加速する現状を指摘します。

著者のNPOの活動は、貧困に陥った人に生活保護需給申請の手伝いをしたり住居をあっせんしたりするとともに、人と人との連帯を通じて世の中から見捨てられていないんだという気持ちを与える(著者は「溜め」といいます。経済的・精神的ゆとりですね。)活動をしています。

生活保護申請窓口の実態を読むと「いかに支給しないか」に洗練された行政の実態に驚かされます(もっとも窓口担当者の立場を考えれば、暴力団関係者などの不正受給を排除したり、そもそも予算の制約が大きい、という事情もあるのかもしれません)そして生活保護世帯(15%)のほかに生活保護水準より貧しい暮らしをしている世帯が6~8%存在する(=生活保護の捕捉漏れが約1/3ある)そうです。

そして著者は貧困問題は制度のわかりにくさや自己責任論、統計データの不足(厚生労働省が貧困の存在を認めたがらない)から「見えにくい」問題になっていることが事態の深刻さを招いていると指摘します。
専門家の研究成果でなくマスコミや政治かも「庶民の井戸端会議での感情的な議論そのままで貧困対策を議論しあっている傾向がある」と言います。

確かに「セーフティネット」といいながら僕自身その内容を十分に理解しているわけではなかったので、本書の指摘は説得力があります。

先駆けて警告を発する者たちを自己責任論で切り捨てているうちに、日本社会には貧困が蔓延してしまった。最近になってようやく、切りつけていたのが、他人ではなく自分の手足だったことが明らかになってきた。野宿者が次々に生み出されるような社会状況を放置しておくと、自分たち自身の生活も苦しくなっていく。労働者の非正規化を放置し続ければ世紀労働者自身の立場が危くなる、と気づき始めた。しかし同時に、今度は「生活保護受給者がもらいすぎている」「給食費を払わない親がいる」と、依然として新たな悪人探し、犯人探しに奔走してもいる。

この視点は十分に意識すべきだと思います。

ただ、「企業が社会的責任を果たせ」=正規雇用をしろというだけでは解決しないと思います。

正規雇用だけにするとするなら、景気変動・業績変動の際に雇用を切らないとするなら業績連動型の給与体系にしていく必要があります。
そして、「ただ乗り」を防ぐために雇用条件の不利益変更や解雇についての判例なども一定程度柔軟にする必要があると思います(そうしないとそもそも上記の制度変更自体を既存の正社員に及ぼすことが出来なくなる)。
そして最悪なのは「正社員を雇うことが大きなリスク」と企業が判断してしまうと、逆に大企業は自らの雇用を絞って製造自体をより経営基盤の弱い下請けにアウトソーシングする、という連鎖になることだと思います。

つまり「正規雇用に!」ということを実現するには制度全体を見直す必要が出るわけです。

逆に今ある制度を前提として制度のもれをふさいでいく方向の議論も冷静に考えたほうがいいのではないかと思います。
たとえば派遣社員にも雇用保険や社会保険の加入を可能にし、その費用を派遣先企業と派遣会社に負担させるなどの形で「受益者負担」(=昨年までの「史上最高の好業績」を実現したコストの負担)を求めるという方法もあると思います。

非正規労働者を雇用する費用(血も涙もない言い方かもしれませんが比較的容易に雇用を終了できるという「プットオプション料」)が一定程度以上に高くなれば、企業は正社員として雇用すること(それは単にコストの問題だけでなく優秀な労働者を育成しノウハウを内部化することにもなります)との比較を常に考えることになるのではないでしょうか。

また、生活保護や教育への支援などは予算措置(=政治の問題)で解決できるはずです。そこでの財源の問題は、だれがその費用を負担するのかを十分に議論すべきだと思います。


深刻な問題であるだけに、冷静な議論が必要な問題だと思います。



「年越し派遣村」開村式

 


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『この世でいちばん大事な「カネ」の話 』

2009-01-05 | 乱読日記
僕などより数十倍出入りの激しい人生を送ってきた人の話です。

最近は『毎日かあさん』毎日新聞を背負って立っている感もある西原理恵子ですが、無頼と叙情と常識がないまぜになった確信犯的な開き直りと気持ちのゆれが伝わってくる作品は、大笑いしながらも最後の一瞬ちょっと考えさせられるところが魅力です。

本書は西原理恵子が「よりみちパンセ」という中学生以上向けのシリーズに書いた本。

自分の体験を基にして人生とお金について、自分の子供たちに読ませるためかのように、他の作品漫画と比べて行外の含意(作品を外から見ている作者の意識)を感じさせずにストレートに書かれています。

貧乏という負のループから脱すること、借金・ギャンブルのこと、希望を実現するためにはあきらめないことが大事なこと、希望・夢がないときに考えてみるべきこと、底まで落ちたところから切り返すために大事なこと、そして「人の気持ちとお金を当てにして生きる」ことのリスク。
それらについてすべてお金が関わってくる、お金との付き合い方に自覚的にならないといけない、ということが、今までの人生経験と、確信犯的ともいえる無頼の仕事(注)の経験を通じて実感えをこめて語られます。


自分にも共感できる部分や目からウロコの部分がたくさんあります。
「格差社会」や若者の閉塞感を語る前提としても必読書だと思います。




(注)
いしかわじゅんが西原理恵子を評して「女の無頼は西原理恵子一人で充分」と言ったという逸話がありますが、あまりご存じない方にネットで読めるものをご紹介します。

「西原理恵子の太腕繁盛記FX」

FXキングという業者のサイトにあるキャンペーン用の、自腹を切って投資したドキュメンタリー漫画です。
一喜一憂しながら損を出し続けるあたり、ある意味とても教育的かもしれません。





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100年に一度の経済危機

2009-01-04 | 自分のこと
年末年始のテレビ番組でも「100年に一度の経済危機」というフレーズが乱発されていましたが、それで何かが解決するわけでも言い訳になるわけでもないんじゃないかと思いながらふと考えたのが、

我々の先祖が100年前の経済危機を生き延びることができたからこそ我々が存在している

ということ。


そこで、正月に実家に帰って昔話を聞いたりしながら、この100年間私の先祖はどういう目にあってきたきたんだろうということを振り返ってみました



父親は新潟の漁村の漁師の分家の生まれで、多分100年前も先祖は細々と漁師をやっていたに違いなかろう、ということで明治・大正の頃のことはよくわかりません。

一方、母方の曽祖父という人は明治時代に北関東で手広く運送業を営んでいて羽振りがよかったのだそうです。
ただ、案の定一山当てた人の例にもれず、妾は囲うわ競馬の馬主業に金を突っ込むわで身上を食いつぶしてしまったとか。
明治30年代生まれの祖母が嫁に入った頃はもうそれほどの勢いはなく、鉄道馬車の権利は借金の抵当に某私鉄に取られるなどして商売は左前だったそうです。ただ、お妾さんは健在で、祖母は舅である曽祖父からお妾さんのところへの用足しを言いつかり、姑との板ばさみにあって困ったとか。
このあたりは伝聞の伝聞なので、実際は商売が左前になったのは不況の影響を受けたのかもしれません。

父親が出入りの激しい人生を送ると息子はそれを見て堅気になるという典型のように、祖父は大学を出て(明治生まれで大学を出たということは実家も完全に傾いてはいなかったようです)今で言う国土交通省の技官になりました。
母親が秩父の方に遠足に行ったときに、父親が設計したトンネルがあったとか。
祖父は僕が生まれたときには既に他界していたのですが、とても生真面目な人だったらしく、関東大震災のときには祖母の実家(神田の万世橋の近く)を見舞いに自転車で熊谷からかけつけたそうです(仏壇の遺影を見るだけでもそんな感じの人でした)。

ということで祖父母の時代は公務員という安定した職業だったので、昭和恐慌の影響などもあまり受けずに生活苦、というのは感じなかったそうです。
また、第二次世界大戦のときも徴兵年齢にあたる人がいなかったので、母親の兄弟は軍需工場に借り出されたそうですが、兵隊にとられる人もいませんでした。

しかし好事魔多しではないのですが、昭和20年8月14日の夜に熊谷市が空襲にあい、母親の実家は全焼してしまいました。焼け跡で呆然とする中で玉音放送を聞いたそうです。
ただ市の中心部の住宅密集地では大勢の死者が出て、街中を流れる川には死体が積み重なっていたそうで、それに比べれば生きているだけで十分とも思ったとか(参照)。


一方父親は漁師の分家の息子として本家を手伝ったりしながら育ったそうです。
小学校に上がった頃は昭和恐慌の影響があり、米価下落の影響をもろに受けた小作農の子は弁当に生姜が一枚乗っているだけというのがほとんどで、商品にならない魚とはいえ現物の食べ物が手に入る漁師の家でよかったと子供心に思ったとか。

父親はその後海軍航海学校に進み(中学のときに軍事教練で教官から鉄製の模擬手榴弾で頭を殴られ脳震盪を起こして以来兵隊は嫌いだったそうですが田舎での進路は限られていたようです。陸軍を選ばなかったのは意地というよりは船がのほうがなじみがあったからだとか)、舞鶴の鎮守府(参照=海軍の司令部)で下士官見習いとして終戦を迎えます。
あと数ヶ月戦争が長引いていたら出撃する順番だったそうでその意味では幸運でした。
ただ下っ端は敵機の見張りの当番があり、見張り棟にいると、既に制空権を握っていた米軍の艦載機がたまにきて面白半分にする機銃掃射の恰好の標的になっていたそうです。

終戦後はまだ下っ端だったの父は舞鶴港が中国からの引揚船の受け入れ港になったためその作業のために2年ほど従事しました。
上級将校たちは終戦と同時に散り散りになり、それと同時に基地の隅においてあった古タイヤなども忽然と消えていたとか。父親も佐官に呼ばれ、司令官室にあった横山大観の画をはずして荷造りするのを手伝わされたそうですが、その画が誰の手に渡ったかは知らないそうです。

そういう父親も終戦直後は仕事があてがわれたために生活や食事の心配をせずにすみ、また引き揚げ物資のなかから毛布などを実家に「仕送り」していたそうです。


その後父親は親戚のつてをたどって東京に出てきて、(
当時はつぶれそうだったが)
今や大企業になった某社(参照)のお世話になったあと独立して町工場を始めました。


その後は戦後の経済成長に乗って一応順調にきたのですが、二十数年前、僕が大学生の頃に父親が原因不明のめまいを訴えて最後には1ヶ月ほど入院したことがありました。今思えば最近話題の男の更年期障害のようなものだったのではないかと思います。

しかし、一人親方でやっていた零細企業にとっては「親方」が仕事が出来ないのは即存続の危機につながります。
工場は借り物だし、家は抵当に入っている。親父が死んだり仕事に復帰できなかったら、などという前提での話は親にもしづにくいのですが、万が一のときは職人さんに退職金を払って会社をたたんで家を売って借金を返してチャラになれば御の字、貯金が残っていれば僕が就職した給料とあわせてどうにかなるか、などという計算を頭の中でしていたものです。

幸い父親はけろっと元気になり、数年前に会社も人に譲り、今では元気な隠居をしています。

今となってはホント、あれは何だったんだ、という話ですが、自営業者の脆弱性が骨身に沁みた経験でもありますし、サラリーマンになるとそのぬるま湯度合いがよくわかります(といってもそれにどっぷりつかって長いのですが(汗))。
セーフティネットは自助努力の及ばない状況の人に限定すべき、とか、企業の組織や意思決定は往々にして不合理だというような僕の発想はこんなあたりに根っこがあるのかもしれません。



ざっと我が家の100年を振り返ってみたのですが、1年間での日経平均株価の下げ幅が過去最大といってもたかだか△40%なわけで、家業丸ごと人に取られるとか焼夷弾で家が焼かれるとか機銃掃射にあうとかに比べれば屁みたいなものですね。

給料が下がるとかリストラされるとかいっても命までとられるわけではないですから。

「生きているだけで丸儲け」とはよく言ったものです。



「100年に一度の経済危機」というフレーズも「100年間みんなしっかり生き残ってきた」と前向きにとらえるのが大事ですね。



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新年のご挨拶

2009-01-01 | Weblog



新年あけましておめでとうございます

 



 


丑年の今年はBullとなるでしょうか、それともBearが続くのでしょうか。

ますます混沌とする世の中になりそうですが
このブログは「いい加減」で続けていければと思います。


今年もよろしくお願い申しあげます。





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