幕末維新期を代表する土佐の絵師 河田小龍(かわだ しょうりょう)は
『龍馬に世界を教えた男』といわれており 生誕200年の今年 作品や
使った道具類が 県立美術館に展示されました。
個人所蔵のものや散らばった作品を集める中で 京都の小龍子孫宅で
家人も知らない小龍夫妻の写真が見つかり 新聞にも載りました。
今回の展示は 落とした照明の中にたくさんの絵・屏風・絵馬らが並び
撮影禁止でしたので 図録から撮りましたが 不鮮明なものが多いです。
小龍は鶴を何枚も描いています (アートミュージアム所蔵)
松に親子鶴図(個人所蔵)
これが↓歯科医先生宅の鶴 傷みの激しい屏風から抜き取ったもの
幕末~明治にかけて活躍した 土佐の浮世絵師 弘瀬金蔵 (絵金)
の門人であった小龍は 絵金ほど血みどろの芝居絵ではないものの
影響を受けていると思われる 長さ9㍍の横幕 (県立美術館所蔵)
秋草に鹿図 六曲一双 153.2☓370.0 個人所蔵
ひな人形図 (県立坂本龍馬記念館所蔵)
絵馬 川中島合戦図 (南国市 金刀比羅神社所蔵)
11年間の漂流をへて故郷にもどった中浜万次郎 (ジョン万次郎) を 小龍は自宅に
住まわせ異国で見聞きした事を綴り 小龍の挿絵をいれて上梓した『漂巽紀畧』は
坂本龍馬・中岡慎太郎・岩崎彌太郎・後藤象二郎らに大きな影響を与えたそうです。
他にもたくさん作品が展示されており 学芸員さまは よくぞこれだけ集めました。
残念ながら色落ちや劣化が激しいため 図録からはこれらしか紹介できません。
この絵は ↓『漂巽紀畧』のなかで小龍が描いた 挿絵のジョン万になります。
さすが画家で 特徴をよくつかんでいますが 本物はもっとずっと男前になります。
※ 河田小龍の名前は (しょうりょう ・ しょうりゅう) どちらも正しいようです。
文化度の高いところだと思いますね
そういう写真などを目にされる機会が多いのでっしょうねうらやましい話です
そして、「坂本龍馬・中岡慎太郎・岩崎彌太郎・後藤象二郎らに大きな影響を与えた」わけですね。
そのようなことで、河田小龍と坂本龍馬がつながるのですね(^_^)
くりまんじゅうさんの紹介された写真からでも、河田小龍は相当な画の力量の持ち主であったことが伺えますね(^-^*)
あのドラマで 河田小龍をリリー・フランキーさんが演じていました。
生誕から200年経っても小龍の絵や屏風は残っており
県内の神社からも 絵馬を何点か借りて展示してありました。
今回の展示品の中で歯科医の先生宅から 屏風を運び出したと
事前に聞いていましたので いくつか展示されている屏風の
これかな?と思うものを載せてみました。
今回の河田小龍展示は県立美術館だけでなく 桂浜の坂本龍馬記念館にも
展示があるそうで 後日行ってみようと思っています。
小龍は土佐藩の許可を得て万次郎を自宅に住まわせ 読み書きを教えました。
小龍自身も英語を学びつつ書きあげた『漂巽紀畧』が反響を呼び
島国の日本が 世界に目を向けるきっかけになったそうです。
ちょうどそのころ黒船のペリー来航で 当時日本で英語が話せるただ一人の
万次郎は 通訳として活躍しました。
それら功労からか万次郎は 幕府直参に取り立てられ大出世しました。
ジョン万から聞いた世界観に 土佐の藩士たちは大いに影響されたらしいです。
龍馬と慎太郎は若くして暗殺され 武市半平太は山内容堂の命令により切腹。
龍馬にあと10年の命があればねぇ と惜しまれます。
河田小龍ははりまや橋近くの自宅で 絵画塾を開いており
小龍の人柄からでしょう 龍馬たち若者が集い熱い議論を交わしていたようで
今はその場所に 河田小龍の像があります。
それにしても挿絵の似顔絵は、ちょっとかわいそう😅
岩合さんの ネコ歩き『四万十・土佐清水編』でジョン万の生家が紹介されました。
貧しい漁師のせがれが数奇な運命をたどり 歴史に名を残す人物になり
最後は東大の教授になったそうです。人の運命は分からんものですね。
小龍のジョン万の絵は 鼻・唇の特徴はよくつかんでいますが
せめてもうちょい 男前に描いてほしかったです。