枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

本日は晴天なり

2009年07月18日 | Weblog
 昨日とは打って変わってのお天気。しかしぱっとしない。いや湿気が多いんでしょうね。頭が痛いというか突然キリリとして、こめかみの辺りが割れそうになる。まあ西瓜ではなし、心配には及ばないとは思うのですが。

 何だかなぁ、気になるよ・・・。胸騒ぎと言うか、言葉にならない不安が過る。人間は神の領域を、平気で侵しているのではないのでしょうか?人間と神さまとの境界線を、理不尽にも越えたり得意満面になっているような気がしてなりません。

 古の人達は科学的な解明ができないことを、占いや陰陽師の力に頼ってきました。でも決していいかげんな、信心ではなかったように思えます。月の満ち欠け、空気の湿り方、木々の勢いや自然界の異変には、とても敏感であったのだと思います。

 津波の来ることを村人に知らせるために、稲村に火をつけて救った話もそうでしょう。初めに鳥は空に飛ばず、蜂は折角の巣から大慌てで引っ越す騒ぎ。猫も犬も蟻1匹として、突如村から消えたのを不信に思い、気づいた人はすごいと思う。

 津波がくるぞ~!!でもそれを村人は信じない。そこで大切な稲村に火を放ち、村人の命を救った話だけれど、今の人には通じたとしても避難先がない。山があった所には家が、マンションが建っている。山はあっても形だけで、手入れがなされていないから荒れたまま。

 即ち、避難しても生きていく術がないのです。アウトドアの真似事では済まないの。一気に大勢の人間が押しかけたら、山には廃棄物の山ができてしまうだけ。マナーもエチケットも合った試しなしでしょう。

 即席の一夜漬けでは生活できないのです。お百姓を嘗めてはいけません。自然を侮ってはなりません。知識がどんなに豊かでも、そこに住んで生きている先輩達には、教えを被らなくてはならないのです。

 またそれらは、人間達だけとは限りませんね。エコ、エコって言うけど、田舎という意味ですよ。快適な生活に頼らないで、自分たちでできることや創っていける未来でありたいものです。

 春先になると、必ず現れて毎晩出てくる愛嬌者。孫のお気に入りです。そうしてみれば我が家には食べ物があるのですね。って感心してます。勤務先の庭木をふと見れば蝉の抜け殻が、居合わせた子どもに葉にくっつけたまま持って行ったがつれない態度。

 その子が、昆虫に興味がなかったのか、今時のガキは関心がないのか。反応のずれにがっかりしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする