昭和生まれにしては、季節の行事や、当時のことをはっきりと覚えており、映像さえ視える。友人の曰く、環境も左右する、ということに頷く。祖母の生きた暦には、間違いがなかったとも言えるが。それにしても、眼前に写る情景は、幼い頃に還っている。
祖母は、器用貧乏であったが、同じ事をしても、丁寧であり、時間もかけない。感もあったようにも思えるが、失敗は一度で済むように、2回目には更なる工夫を施して、努力を怠らない人でもあった。四季折々の行事にも、理があることを説いてもいた。
暦を活用し、心に標をつけ、忘れないように記していた。稲作だけでは食べていかれない。麦を植えての二毛作である。捨てることをせず、生かして使い切ることを心掛けてもいた。経験を生かし、症状に合わせての薬草も、取ってきて保存していた。
祖母が、してきたことを思い出せることが誇らしい。何故、という眼で見ていたことも、今更ながら役に立つ。縄綯いも、他の誰よりも上手く、賃金の上乗せの出来栄えだった。まるで祖母の手にかかると魔法のようだった。子どもの眼にも鮮やかだった。
天地のことにも熟知していた。土の温度や、水の温かさ、風向きや旬の物等、絶対に教えない場所を持っていた。山神さまの声も聴いていたかも。とこの頃想える。朝陽に祈り、星を見上げ、鳥の声にも耳を澄ます。今、そういった祖母が浮かんでくる。
自然からの恩恵にも、伝わってくる方法は様々だろう。小さなことに歓び、僅かなことを幸せに感じる。神の声には澄んだ響きがある。自然の織り成す警告も、既に見えている。何をして、殺し合いは止めれないのか?核兵器の製造も、再稼動も否だ。
人命を戦争の取引には使わないで!価値ある命は、掛替えのないもの。どういった理由にせよ、人の命を楯にする行為は、絶対にしてはならない。政治の世界に、持ち込むことこそ非人道だ。愚かなり人類。アウシュビッシュの悲劇を繰り返すな!!
夏の庭の様子。咲き乱れるベゴニア。赤、桃、白と、照りかえる太陽に、眩しく咲いている。挿し芽をして増やす。