年賀状の、当選番号が発表されたようだが、最近は楽しみが減った。切手シートの図案にも、其々の等にも、もらってうれしい、当ってよかった感があった。この頃では、だからどうなの?と言う商品が多い。従って、当らなくても困らない。
期限無しの旅行券、商品券はありきたりだし、全国の特産品も、実際に送られてくるまでは疑わしい。1年間、税金納入が無料(低所得者)とか、各施設への入場が待たなくても好いとか。ふなっしーとの共演ができるってな企画が・・・。
中村玉緒さんとさんまの企画に、何でも叶えたろ、というのがあったが、ああいうのって、その日だけのことなのか?テレビ局の陰謀で、謂わば視聴者への宣伝もあろう。薪ストーブの家に住み、自家発電で、自然との暮らしができれば。
こういう暮らしを持続するためには、資金が必要だし土地も要る。我が家では、薪ストーブを焚こうにも、山もなければ場所もない。木は植えて育てなければならず、手入れをちゃんとしていかなければ意味が無い。家族の協力も必要だ。
新しい物、きれいで簡単な物には、便利なことの他に、修理が利かない。働けば収入を得られるが、賃金は安価である。忙しいとは、心を亡くすと書き、殺伐とした世の中を創っていく。子どもの躾はおろか、思考することも放棄していく。
蒔いていた大豆の収穫をしていたが、中々片付ができなかった。ようやく処理する。一握りの大豆だが、枝豆で口にしてもいるので納得。祖母や母が、あくせく働いて得ていたことを思い出す。農業も様変わりしたが、現状は厳しいのだ。
枇杷葉茶を飲んでいるから、健康を保てているが、つい年齢を忘れてしまう。尤も介護の仕事は、最終的には看取りであり、認知症も進む相手とどう向き合っていくかだが、排泄や入浴介助は外せない。自分の想いとは裏腹に激務増す。
寄る年波には勝てない。と言うがその通りだ。技術があっても、体力がなければ倒れてしまう。次から次へと迫ってくる業務に抹殺され、頭脳編での勝負が必要と思い知る。認知症とは言え、人間であることも難しくさせる。倫理論である。
ねじ花。買って植えているのが、やっと咲いた。昔は、何処にでもねじ花の群生があった。可憐な姿に、古里への想いがつのる。