枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

この広い世界中の・・・

2019年09月05日 | Weblog

 森山良子さんの歌う、この歌詞の全部が好きで、密かに誰かが手紙を書いてくれぬものか、と想っていたことがある。でも、よくよく考えてみたら、想いは一方通行だし、平安時代のようには、ことは運ばないのだと気づく。朝夕の冷え込みに繁る、テイカカズラが白く可憐。気持ちも清々しい。

 白い花は、意外と多くあって、加えて香りも強い。夕顔も、梔子も、柊も、枇杷も、夜行性のためか芳香が素晴らしい。テイカカズラも同じで、初夏の卯の花にも、心を惹かれる。野外の闇に佇むと、噎せ返る香りに包まれる。月のセレネのように、芳しく清らかで美しく、凛としている花々だ。

 介護の業務は、身体が動かないとお手上げで、事務仕事のようにはいかない。立っていても辛く、座れば立てないもどかしさだ。一日がとても長く感じられ、拷問のように思える。そうは言っても、じっとしている訳にもいかず、比較的温かな台所に居ると、身体もどうにか凌げる。寒い夏は否。

 早出勤務の連勤に延びるが、時間帯としては文句も言えない。夕方の黄昏時が、皆の精神的な動揺を伴うので、突然興奮したり、落ち着きがなくなったりする。その時間帯は、家庭での夕食の支度時なので、本能にスイッチが入るのだろう。人間の生活のサイクルが、狂わなければ繰り返すのだ。

 年金が減る一方で、収入の方法がないとすれば、情況は困難となるのは定義で、支出を防ぐことを考えねばならない。リエさんに逢いに行くのも難しい。末吉暁子さんも、佐藤さとるさんも既に亡く、目的の半分は史跡巡りだが、足が痛いとなると、願いは適わなくなる。諦めも肝要なのである。

 退職したら、枇杷葉の季節と共に過ごし、一喜一憂の暮しになろう。手当ての必要な若い娘は、気の向いた時に来るらしい。出向いて迄はしないが拒まない。悠々自適とまではいかないでも、原稿を書いたりはできる。無論、ブログの更新は続行し、パソコンでの検索はそのままに。気分任せで。

 生食用の黄桃が来たので、おすそ分けする。一様に食べたことがないらしく、びっくりしている。缶詰ようとは異なり、甘くて美味しい。桃は、やはり生で口にするのが最高。最近は、甘みがきつくて加工品には気が向かない。腐っても鯛と言うが、腐らない内に食べよう。剥くのが面倒で齧る。

 スターウォーズの順番待ちに、携帯で撮る。エピソード1から6までは好かったが残りは…

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