朝夕の気温の変化に、年齢を重ねて来るとついていけない。便利で快適な生活に頼るからだが、個人的な想いは別として、せざるを得ない状況に置かれてしまう。日本の風土にあった暮らしにも、何をするにも金が必要だ。テレビを観なくなって久しい。新聞があれば充分で、丹念に読み情勢は分る。それにしても忖度の多い事。
曼殊沙華が田の畔に咲いている。あの花を見ると、ごんのことを思いだす。人間と仲良くなろうとしたごんが、喋ったら驚くが、兵十の野生の生き物への気持ちが、今の人間以上に残酷だ。時代に措いては当たり前のことだが、狐に対する作者の感情が隠れているような気も。百姓にとっては、野生の生き物は死活問題となるよ。
人間が山や海を荒らし、引いては宇宙にまで進出して、自分達の息を止める。星を眺めているだけではいけないのかしら?自然への祈りと感謝の気持ちだけでは、駄目なのだろうか。科学は遥かに発達したと言うが、人間の心の変化には乏しい。便利で豊かで綺麗な生活が、何よりも妨げていることに愕然とする。地球が哀れだ。
枇杷葉の生育を観察していると、虫の付き方で驚く。我が家のは、確かに虫も居るが、野鳥が餌にしているし、蛙や蜘蛛も棲んでいる。人間が居ることにはお構いなく、獲物をじっと待ち狙う。爬虫類も昆虫も飛び交う。人間の好みにまで介入しない。未知との遭遇には、こちらが気をつけねばならない。共存とはこうもあろう。
雨が降れば草も育つ。枯れて堆肥となり、春が来れば芽吹く。その繰り返しをするのを、人間は待てなくて手を出す。繁殖する種は残り、そうでないのは消える。丁寧に世話をしたからと言って、続けていくものでもない。新しい品種は、育たないのが定番。人間は、それに気づかないから、勢いに任せて買い、枯れてしまう。
人間のエゴであり、エコではない。そこにある環境で育つ物を口にして、無い物は買う程のことでもない。空気と水と塩とがあれば、生きて行けれること。贅沢を望めば切りがないのだ。自分で出来ることを守り、晴耕雨読を実践していければいいのだ。冬の寒さも、夏の暑さも、人類を鍛えてくれるのかもしれない。自然に。
枇杷葉の生葉は、焼酎に漬けておき、腰痛予防に用いる。生葉の儘だと、たくさん枚数が採れない。