二十四節気 清明 春の日差し強く、天空清く、晴れ渡ると言う意で、清明と呼ばれる。毎年四月五日頃である。今朝は曇りであるが雨を含んだ気配で、本日の花見に影響があるのは確かだ。まあ断れば好いようなものだが、雨天でも行こうとの誘いを無下にも出来ない。晴れていればという気持ちでなく、その日の花を愉しめばいいのだから。自然の成り行きには必ず意味もあるもの。
独り暮らしを心配して、実の娘よりも来てくれるので有難い。何をするでもなく有るでもないこの場所を、歓んでくれているのもうれしいもの。お互いに干渉し過ぎにはならないように、出来ることでのおもてなしにしている。スマホを自由に操っているので、退屈もしていないようだし頃合いも知っている。独身であるとか性別でのことも無くて援けられる。おんぼろ家が良いとか…。
一理あるのだ。大きな家で掃除も完璧装飾品もブランドで、というなら窮屈極まりないとのたまう。それは褒めているのかどうかだが、居心地が好いのならそれで充分かな。何よりも、此処に来れば気持ちが落ち着きゆったりできるそうだ。思わず笑ってしまうものの、我儘を言うのでもなく身体を伸ばせている。従ってこちらも気を使わずで済み、何時も通りのことが出来る有り難さ。
小さな親切にも大きなお世話となれば、却って気持ちも塞ぐもので一声掛けるのも難しい。わたくしの趣旨に反することには違和感を感じるので、病の感知はしていても見守る以外にはないと心得ている。慰めも励ましもしないでそっとしておきたい。然しながら枇杷葉茶での援けは惜しまない。何人か枇杷葉茶や焼酎に漬けてくれた方の体調が気にはなるが、自分での判断に任せたい。
そうしてでないと、他力本願となって何時も自分では決められなくなる。結果的に良ければ言葉で有難うで、悪く出れば非難してくるからだ。そういう心の貧しさが病を招き、悪化するということに気づけない。自然に任せると言うのは、己の努力が大きいものだし誹謗中傷には至らず及ばないもの。人間は産まれたら死ぬ生き物で、それが何時かはわからないから歩んでいるのだもの。
自分で決めたことであれば許容範囲と認めざるを得ない。何かを相談するにも略こうであると決め兼ねてのことで、話した時点で決心もする。でも聖人君子でも悟っているのでもないから、悩むことにも苦しみにも遭遇する。心の中で泪しても、人前に出る時にはそれを見せたくない。弱さも気づけぬようにしているが、稀にそれが判ってしまう方に飛び込んでしまうこともあるのです。
何もないと云うことには与えて貰える歓びが多いし、祈り感謝を怠らねば努力し続けられて進め、逝ける路があるということかもしれない。それが判らぬから生きているのだとも思う。小難しい屁理屈を垂れなくても、死ぬ時には何も持ってはいけない。子ども等はわたくしが死ねば、何もかも塵で出すことは予測できる。それまでに欲しい方に譲れる物は差し上げれば好いことも有。
独り暮らしを心配して、実の娘よりも来てくれるので有難い。何をするでもなく有るでもないこの場所を、歓んでくれているのもうれしいもの。お互いに干渉し過ぎにはならないように、出来ることでのおもてなしにしている。スマホを自由に操っているので、退屈もしていないようだし頃合いも知っている。独身であるとか性別でのことも無くて援けられる。おんぼろ家が良いとか…。
一理あるのだ。大きな家で掃除も完璧装飾品もブランドで、というなら窮屈極まりないとのたまう。それは褒めているのかどうかだが、居心地が好いのならそれで充分かな。何よりも、此処に来れば気持ちが落ち着きゆったりできるそうだ。思わず笑ってしまうものの、我儘を言うのでもなく身体を伸ばせている。従ってこちらも気を使わずで済み、何時も通りのことが出来る有り難さ。
小さな親切にも大きなお世話となれば、却って気持ちも塞ぐもので一声掛けるのも難しい。わたくしの趣旨に反することには違和感を感じるので、病の感知はしていても見守る以外にはないと心得ている。慰めも励ましもしないでそっとしておきたい。然しながら枇杷葉茶での援けは惜しまない。何人か枇杷葉茶や焼酎に漬けてくれた方の体調が気にはなるが、自分での判断に任せたい。
そうしてでないと、他力本願となって何時も自分では決められなくなる。結果的に良ければ言葉で有難うで、悪く出れば非難してくるからだ。そういう心の貧しさが病を招き、悪化するということに気づけない。自然に任せると言うのは、己の努力が大きいものだし誹謗中傷には至らず及ばないもの。人間は産まれたら死ぬ生き物で、それが何時かはわからないから歩んでいるのだもの。
自分で決めたことであれば許容範囲と認めざるを得ない。何かを相談するにも略こうであると決め兼ねてのことで、話した時点で決心もする。でも聖人君子でも悟っているのでもないから、悩むことにも苦しみにも遭遇する。心の中で泪しても、人前に出る時にはそれを見せたくない。弱さも気づけぬようにしているが、稀にそれが判ってしまう方に飛び込んでしまうこともあるのです。
何もないと云うことには与えて貰える歓びが多いし、祈り感謝を怠らねば努力し続けられて進め、逝ける路があるということかもしれない。それが判らぬから生きているのだとも思う。小難しい屁理屈を垂れなくても、死ぬ時には何も持ってはいけない。子ども等はわたくしが死ねば、何もかも塵で出すことは予測できる。それまでに欲しい方に譲れる物は差し上げれば好いことも有。