勤務先に着いた途端に、雨脚が激しくなった。昼からの仕事だったが、気温がグンと冷え込んで寒い一日でした。暖房はつかませんでしたが、体にはしっかり着込んでいました。なかなか枇杷葉の湿布が離せません。帰宅して、セーターに着替えました。この気温の変化についていけない。日本の四季が危ういです。人工的なことにばかり慣れて、自然の中での生活が出来にくい体になっていっている。ある意味怖いなぁ・・・。
先日、亡くなられた家族の方がお見えになりました。ふと視ると、傍にちゃんと居る。でも何という幸せな笑顔だろう。生きている時には、苦しかったり、辛かったりしたことも、今は何も思い煩わなくていいのだ。心置きなく傍に居る。よかったね♪家族の方には、私の言うことが通じたらしく、信用されたらしい。真実を語れてほっとしました。
見えないものが視えたり、聞こえない声が聴こえるというのは、話す内容にも依るが、先ずは信じてもらえない。次が半信半疑の状態。そうしてやっと信用してもらえる。わかることが凄いのではなく、言っていることの真実を見抜けなければ、全てが水泡に帰す。Aさんに言ったことの殆どが当たり、事実となった経緯は、計り知れない。
私に、何故解るのかはわからない。お告げのように、頭に閃く。私でさえ、不思議なのだから、他の人は然も有らん。なんだってこんな能力があるのだろうか。こういった能力が意味を持つのは、自白の信用性。私の前に来ると、喋らざるを得ないのだ。手など触ろうものなら、恐怖にあらぬことを口走る。心が読めてしまう。って、とても厭な時だ。
私が今日あるのも、前世で何がしかの行いができなかったから。現世でそれだけを果たさなければ、来世に逝くことができない。そういった一連の修行もここまで来て、やっと納得した。神さまは、遅ればせながらも、気がつくように視ておられる。我慢強い諭しと、忍耐の限度を越えたものを感じる。最近は、以前ほど激怒することが少なくなった。
何よりも、腹が立つようにしない。我が身を反省しても、他人の世話までやかない。やっとこ頭の蝿がおえている。というのに、人のことどころではない。Bさんに話しながらも、気弱になっている自分を発見。もしかして・・・、ひょっとして・・・。とあれやこれや迷うことばかり。ため息をつきつつ、模索しつつの仕事である。難儀なことに、心底厭になるよ。でも、これが人間なのだ。面白さでもある。
旧暦と暮す。というのには、祖母の言っていたことが、様々に書かれてある。祖母は、学校に通って学んだ訳でも、誰かに教えを乞うたのでもない。月を観察し風の音を聴き、雲の様を観て、日々の生活に生かしてきた。身近な薬草を活用し、自分なりの工夫を凝らし、失敗の中から、うまくいったことを覚えていった。それらは自分の体が経験したから、わかったことであろう。
私が、一番に悔やんでいるのは、もっともっと、祖母と話をしておけば。小学校の低学年では、然程覚えていることも、限定される。私が二十歳の時に、祖母は83歳で亡くなった。昨日の、母に日に、孫が手紙をくれた。大大大ーすき。とあって、私が一番大きく書かれ、傍にあや、ふみな。とうちゃん、かあちゃんの人文字がある。
極めつけの手紙には、おばあちゃんは1回、<おばあちゃんにはだれもありがとうをゆうてくれん。>てっ言ったよね。この手紙にはありがとうのきもちをこめてかくよ。いつも本当に本当にありがとう♥ふみなより。とあった。下書きをしないで、そのまま書いたらしく間違った字の上には、鉛筆で黒丸がしてある。ありがとう♥、は赤字で書いてあった。
幼稚園の妹と、しょっちゅう喧嘩をしているが、1年毎に成長の兆しがみえる。微笑ましいし、楽しみでもある。先日久しぶりに負んぶをしたが、重くなっていた。ずしりとした重みに支える手が痺れてしまった。伯母さんや伯父さんに囲まれて、うれしそうな孫の顔を見ながら、これほどの幸せは無いと感謝した。
昨年生った、猿梨です。甘くて美味しかった。最初に買った時点では生らなくて、もう1本買ったら生った。
先日、亡くなられた家族の方がお見えになりました。ふと視ると、傍にちゃんと居る。でも何という幸せな笑顔だろう。生きている時には、苦しかったり、辛かったりしたことも、今は何も思い煩わなくていいのだ。心置きなく傍に居る。よかったね♪家族の方には、私の言うことが通じたらしく、信用されたらしい。真実を語れてほっとしました。
見えないものが視えたり、聞こえない声が聴こえるというのは、話す内容にも依るが、先ずは信じてもらえない。次が半信半疑の状態。そうしてやっと信用してもらえる。わかることが凄いのではなく、言っていることの真実を見抜けなければ、全てが水泡に帰す。Aさんに言ったことの殆どが当たり、事実となった経緯は、計り知れない。
私に、何故解るのかはわからない。お告げのように、頭に閃く。私でさえ、不思議なのだから、他の人は然も有らん。なんだってこんな能力があるのだろうか。こういった能力が意味を持つのは、自白の信用性。私の前に来ると、喋らざるを得ないのだ。手など触ろうものなら、恐怖にあらぬことを口走る。心が読めてしまう。って、とても厭な時だ。
私が今日あるのも、前世で何がしかの行いができなかったから。現世でそれだけを果たさなければ、来世に逝くことができない。そういった一連の修行もここまで来て、やっと納得した。神さまは、遅ればせながらも、気がつくように視ておられる。我慢強い諭しと、忍耐の限度を越えたものを感じる。最近は、以前ほど激怒することが少なくなった。
何よりも、腹が立つようにしない。我が身を反省しても、他人の世話までやかない。やっとこ頭の蝿がおえている。というのに、人のことどころではない。Bさんに話しながらも、気弱になっている自分を発見。もしかして・・・、ひょっとして・・・。とあれやこれや迷うことばかり。ため息をつきつつ、模索しつつの仕事である。難儀なことに、心底厭になるよ。でも、これが人間なのだ。面白さでもある。
旧暦と暮す。というのには、祖母の言っていたことが、様々に書かれてある。祖母は、学校に通って学んだ訳でも、誰かに教えを乞うたのでもない。月を観察し風の音を聴き、雲の様を観て、日々の生活に生かしてきた。身近な薬草を活用し、自分なりの工夫を凝らし、失敗の中から、うまくいったことを覚えていった。それらは自分の体が経験したから、わかったことであろう。
私が、一番に悔やんでいるのは、もっともっと、祖母と話をしておけば。小学校の低学年では、然程覚えていることも、限定される。私が二十歳の時に、祖母は83歳で亡くなった。昨日の、母に日に、孫が手紙をくれた。大大大ーすき。とあって、私が一番大きく書かれ、傍にあや、ふみな。とうちゃん、かあちゃんの人文字がある。
極めつけの手紙には、おばあちゃんは1回、<おばあちゃんにはだれもありがとうをゆうてくれん。>てっ言ったよね。この手紙にはありがとうのきもちをこめてかくよ。いつも本当に本当にありがとう♥ふみなより。とあった。下書きをしないで、そのまま書いたらしく間違った字の上には、鉛筆で黒丸がしてある。ありがとう♥、は赤字で書いてあった。
幼稚園の妹と、しょっちゅう喧嘩をしているが、1年毎に成長の兆しがみえる。微笑ましいし、楽しみでもある。先日久しぶりに負んぶをしたが、重くなっていた。ずしりとした重みに支える手が痺れてしまった。伯母さんや伯父さんに囲まれて、うれしそうな孫の顔を見ながら、これほどの幸せは無いと感謝した。
昨年生った、猿梨です。甘くて美味しかった。最初に買った時点では生らなくて、もう1本買ったら生った。