枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

師走、望・大潮

2019年01月21日 | Weblog

 三隣亡。冬の山へは、枯れ木を取りに行ったり、焚物の樹を伐ったのを下ろして、割り木にするのに入る。然し祖母は、三隣亡には決して入らせなかった。何故か、事故があり、要らぬ徒労に終わったり、却って費用が嵩むのだ。そのためには、前日に多めに集めておく。忘れたら、焚火はなく寒さに震える。

 正月に、初春や新春と書く字にも、立春を迎えた後に、お正月が来るので、そういった文面になる。昨今のように、師走は愚か霜月では、風情も失せてしまう。旧暦での暮らしになってからは、そのつもりで書くので、空しさだけが残る。世間一般ようの言葉やしきたりでは、心非ずになるが、歴史も長いよ。

 昨夜は、何だか疲れが取れなくて、グズグズしていたら就寝が深夜になった。朝は、早くに目覚めたが、休みと言うと蒲団から出たくない。偶には好いかと、10時過ぎて起きる。今朝は望になるので、花芽茶を換えて沸かす。風味が堪らなく、佳い匂いをさせているのもうれしい。すばるもお茶をねだってくる。

 職場では、何が暑いのか半袖で勤務している者が居るが、室内の温度が高く、それも全部の暖房がフル回転である。冬にはそのための衣類があり、夏の温度にすると、菌が増殖されて、風邪の素になるのに、自分の事しか考えていないのに厭きれる。節電を心掛け、それなりの服装をしなくちゃ。仕事をしろよな。

 ゲーム・プラン ディズニーのDVDで、中々買えなかった作品。いえ、運動オンチであるので、ルールも何も知らない。ヤング・スーパーマンに出て来るので、何とか知っての購入だ。スターってこういうものかと、驚くやらたまげるが、最後の件で心がざわついた。ベイトンの役も素敵だった。バレエにも。

 魔法にかけられて にも、どんでん返しが利いていたが、素直さや従順さは、王子の方が強かったようで、諦めも早かった。ナンシーの優しさにも感激。人間の根本的な愛にも、物語から抜け出たヒロインを充て、真実の形のない愛に触れる。幸せという言葉に含まれるのは、謙虚さと他人を思いやる気持ちが。

 それにしても、ナルニア国物語の続編が出ない。これから謎が解かれていき、最終章に向かうが、役者が居ないのだろうな。原作を読んだ者として、壊せてほしくない部分が多くあり過ぎ、大作になる予測が伺える。何もないところからの、スターウォーズの方が遣り易いが、後半の部分は詰まらないです。

 樹木希林さんの出演している作品を、少しづつ買っている。色んな役をされているが、監督さんの遣り方でも違うんですねぇ。人間の寿命には限りがあるが、惜しい方だった。亡くなった今も、瞼に残っている姿がある。わたくしはお会いしたことはありませんが、演技に終始された人生に唯々感服するばかり。

 郵便局に出向き、木村秋則さん指導の元に、栽培している米代を支払う。ネットで会員になれば、価格も違うしと知ってはいるが、情報の隠匿も漏れることがあるのでしていない。それにしても、糠がないとは抜けている。無農薬の糠には、養分もたくさん含まれていて、寒肥にしたいのだ。売り物ではないと。

 昔には、女性の洗顔に使われてもいたし、糠漬けには欠かせない。あの甘さは、無農薬ならではのこと。処分しているとは、ああもったいない。それを商品化できないから売れないとは。無駄なことばかりじゃない。自然に還すためには、最後まで使い切ってしまおう。自然からの恩恵には、自然に還すのが筋。

 帰路役場に寄り、Aさんちに水を分けて貰いに行き、その序でに燃料を入れて帰宅する。すばるはすっかりお冠で、新しい毛布が気にいらずだ。お好み焼きは食べないが、チョコレートケーキは、よこせと煩い。加えて生クリームが好きだ。スプーンで少し取ってやると満足している。喉が渇いたのか枇杷葉茶を。

 パソコンの部屋には、書籍とDVD・CDが置いてあり、観葉植物の鉢物が並ぶ。どんどん増える。

 

 

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大寒・大潮

2019年01月20日 | Weblog

 二十四節気 大寒 万物を凍らせる、と言われるほど、厳しい寒さを迎えるので、大寒と言う。毎年、一月二十日頃である。昨夜からの雨で、温かな朝である。以前には、雪が降って居たり、樹氷も見られ、つららがぶら下がっていた。子どもの頃には、そういう自然の様が面白くて、野山を駆け回っていた。無論のこと、靴は濡れ、手足は霜焼、親からの小言。

 現代では、冬の一番条件の良い時期に、寒いからと天体観測を中止にし、家でゲームをぬくぬくとする。物は溢れ、金さえあれば何でも手に入る時代。でも、やさしさも愛も、お金では買えない。物体としては見えるが、その実は、空虚な抜け殻のような気がする。蓄えられる者にとっては、頭を使えばいいこと。嘘八百を並べても、何等証拠が見当たらないの。

 人間として、生かされていることへの感謝や、自然への畏怖は、一体何処に置き去ったのか知れない。そのこと自体にも気づかない。なんだろうなぁ・・・考えたり、悩んだりしてこそ、答えが見つかることも、前に進んで行くことにもなる。楽しく可笑しく、一日が過ぎればいいのかもしれない。人は支え合っているが、基本は一人で産まれ、死んでいくよ。

 リエさんから、出来上がった絵本が届き、kazu君の留学先に行った、お土産が届いた。丁度、寒中の花芽を採っていたのを送っていたが、帰国した直後だったらしい。個人的には、時差や言葉、食べ物に馴染めないので、日本国内で好いとは思っている。自然の物を、シンプルに調理してこそ、素材を活かせるもの。大根や人参の皮を剥くのは、粕を摂取してる。

 本日の昼食メニューは、野菜の餡かけ・ほうれん草と豚肉のスープ・果物であったが、急遽足らないと言うことで、大根のフレーク煮を作る。大量な分量であり、食べ切れないかと心配したが、何と言うことなく無くなった。豚肉は肩ロースを2枚づつで、ほうれん草とよく合うの。

 味付けと言うか、調味料は塩だけで、ほうれん草の甘みと、肉の汁が絡まる。旬の物を使うので、素材を大切にして、シンプルなのが一番美味しい。これを、サラダ油で炒めるとは・・・断固阻止し味見をさせたら感心している。ちょっとした思い付きではあるが、美味しければ好い。

 激務を終えて帰宅。すばるの安心しきった姿に、ほっとしながら夕食を戴く。誰かのために作るのは、そろそろ止めにしたいが、あの笑顔や態度に、作ってよかったと思ってしまう。単純な性格なので。珈琲も、季節限定ので淹れたりで、味に気づいてくれるのがうれしい。内心微笑む。

 我が家に来て、やっと半年経った。馴れてきたのもあって、写真で撮っても隠れなくなった。

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一年で寒さも厳しい季節

2019年01月19日 | Weblog

 今朝は、すんでのところで寝過ごすところだった。何とか5:40分には起きたが、寒いのと眠いので、身体が動かない。それでも、洗濯もし弁当を作って、職場に向かう。雪がちらつかないだけいいかと、雪女には気の毒な想いも、半分はある。温暖化で、雪の少ない季節に戸惑う。局地的な差が激しい。

 テレビ番組の、初めてのお使いに、少々違和感を持つ。あんなにまでして、撮るかなと疑問が湧く。有名人の子どもの顔を曝すのにも、不安が増してくる。誘拐されたら、どうするのだろう?そんなことはないと、思っての事か。以前、大魔神の子どもがテレビに出ていたが、父親の不徳で可哀相だった。

 長い人生では、何があるかが分からないのを、そこまでしてマスコミに出たいのか?有名になれば成る程、子どもの安全には注意して、自分で判断できるまでは避けたい。と個人的には考えるけど。親の義務として、成人するまでは責任があるでしょう。何が原因になるかがはっきりしない。安心も安全も。

 普通の庶民で好い。アイドルは氾濫している時代、誰でもが何時でもなれることに、恐怖を感じる。殺されるために、生きているようで嫌だ。怪我や事故では済まされない、そういったされ事には無関心。殺人があってから、親の非や本人の行動を問われるが、この時代、何が起きても、自分の責任も含む。

 この時代、何か基本的なことが間違っているんだ、と思える。当たり前のことが、自然に、普通にできないで、育ってしまった大人が多い。他人に迷惑はかけない、ということも、何が迷惑なのかが分からない。自分さえ、綺麗な格好をして、お洒落ができればいいのだ。我慢するとか、辛抱するは死語かな。

 ほうれん草と、豚肉を入れてのスープが絶品なのだが、誰も作ったことがない。そこで明日の献立に注文をしておいた。品数が足らないので、もう1品をと言う。野菜を使うには、大根が美味しい。缶詰を使っての品に決めるが、単品で、栄養面からも旬の時期からも、ほうれん草はぴったりなのだがなあぁ。

 サンタさんのに決めている枇杷葉は、淡路田中である。粒も大きくて、果汁も多いのだが、たくさん生らない。

 

 

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討ち入り決断・・・

2019年01月18日 | Weblog

 大石内蔵助の心中や易かばかりであったろう。主君の仇討ちに、浪士の立場に、人間としての思案に。複雑な想いが交差しており、息子の力を残しておきたい父親の心情もあったことと察する。元服を延ばしのばしにしていたのも、際まで苦しんでのことだろうと。既に、浪士の気持ちも、糧も限度を極めていた。

 直前までの決断には、独りでなら迷いもなかったろう。四十七士の心も、疑いや心離れに転じる。人の上に立つということは、己を主張することでなく、部下を思い遣り、その家族のそのことにも及ぶのだ。昼行燈と陰口を叩かれ乍らも、吉良上野介への、浅野内匠頭の無念さを思う毎に、更なる複雑さを含んで。

 旧暦の煤払いです。その煤払いを終えて、茶会を催そうとした上野介にとって、新年を心穏やかに迎えたく思う気持ちには、始終暗殺の影に怯え、隠れ住む者の哀れさもある。田舎侍に、不手際を教えてやっただけで、まさか殿中で切りつけられるとは。さぞや驚いたことだろう。人間、時代は変わっても一寸先は。

 職場の子が、枇杷葉の手当てに来ると言うので、朝から掃除や片付けに追われる。足湯の用意と、握り鮨の準備をして待つ。寒いのでストーブも点け、時間が余ったので、ブログの更新をしている。誰かがおいでになるというのは、気も引き締まり、考えるので惚けも減るようだ。生きていく糧にも繋がって行く。

 早朝に、玄関のチャイムを鳴らすが、蒲団の中にて出られない。起きて暫くして、今月の塵当番だと、塵取りやバケツが置いてあった。団地の中でも、当番をさぼる者も居て、役員さんは大変らしい。我が家では、生ごみは堆肥にしているので、枇杷葉の根元に施すが、自然の菌が繁殖して臭わない。不思議だなぁ。

 丁度正午に、手当てを施行する子が着く。鮨の準備も終えていたので、早速に握って食べさす。2合がジャストであった。少し硬めに水加減をしたのも良くて、ばらけず、手につかずであった。三時のお八つ持参の好い子である。職場の愚痴も出るが、他所に漏れなく喋らないので、安心している。手当ても同様で。

 足湯を施行してみれば、踵のざらつきが消えた。そこに枇杷葉ローションを塗り、二回目の湯が沸くまで、ナルニア国物語・カスピアン王子の角笛を、夢中になって観ている。足はポカポカ気持ちよく、軽くなったようで笑顔。肩の凝りもほぐして、やれやれである。その後事例検討に行った。

 事例検討出席。様々な支援はやっているが、基本的な事は薬かも知れない。90近くなって、余命も何もないのだ。認知症状での行動と言えばそれまでだが、薬の一因は外せない。できれば止めれば好いと思っている。害のある物を、大量に呑ませていい筈がないのよ。自然の力を借りるのが、高齢者に取って最善。

 小さく丸まって、びくついていたのが、やっと伸び伸びとし始めた。でも、悪戯は手加減なし。

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土用・中潮、阪神大震災・・・

2019年01月17日 | Weblog

 あの時の事は、鮮明に覚えていると思っていたが、既に24年経っているとは。何事が起きたのかという衝撃と、不安とが入り混じった中を、子ども等を送り出し、仕事に出向いた。その頃、我が家にはテレビがなかった。淡路島を中心にして、神戸の街が炎に包まれており、建物は尽く灰塵に帰していた。

 あれから24年である。街は復興を遂げ、以前のようには戻っているが、壊れた心や、消えた命は還らない。原発の被害が無かったのが、せめてものことと安堵していた。それが東北では、二度と起こしてはならない汚染にまで広がって、今も復興の兆しは厳しいようだ。それなのに防衛費は突出させるのだ。

 予算にも、国民の安全や安心、保証への使途なら、未だ気持ちも治まるが、戦争へと向かう資金には、甚だ疑問と暗鬼が膨らむ。それでも決めたことであるからと、何がなんでも遣る姿勢に、まるで小さな子どもが聞き分けないで、我儘を言っている感じを受ける。これが見た目は大人であるから、実に情けない。

 広島や長崎の惨状に、施設を訪れるだけでなく、書物を読み、実際に被爆された方から聴くことも大切だろう。わたくしは、その時の情景を感じるので行けない。心に受けるダメージが強過ぎ、身体も足が動かなくなる。金縛りに遭う。長崎には中学の修学旅行で、かの地を踏んだ。広島と沖縄には未だ行けず。

 沖縄の海を埋め立てて、基地を造れば更に、世界各地で地震や津波が引き起こされるのに、そのことに気付こうともしない。どうしても、何としても埋めねば、という間違った方向に向かうばかり。学識のある大人なら、止める決断もするだろうに、それすら考えない。地球の破滅を招く方向に向かっていくのだ。

 差別をなくす壁を取り払うのが、トップの判断であるのが、そういった間違いを冗長し、更なる被害にしている。気づいても止められないのではなく、無関心なのだ。民主主義という安全を盾に、嘘と誤魔化しで政治を行う。自分の身体も、腹も、痛くも痒くもないので、遣りたい放題、借金は嵩むばかりですね。

 明日は、施設の事例検討があり、休みでありながら出て行かねばならないようだ。夕方なので、参加できなくもないが、寒いので大儀なのだ。感染への接触も厭なので困る。手洗い・嗽にも、きちんとしていればいいが、案外いい加減な遣り方で、これなら最初から、難しいことを言わねばいいのに、とため息が。

 フェンスの場所にも、大きくなったのや、これからのや、枯れて復活したのやあるので、愉しみにも。

 

 

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わが母の記

2019年01月16日 | Weblog

 井上靖著 わが母の記を漸く読み終える。母というよりも、人間を描いていると思わざることに愕然とする。人間の死に向かう数年を、何と克明に書いていることか。介護の仕事をしている者として、その必死さも、健気さも、また無償の愛にも気づくのだ。それでも、他人とわが母とは異なるとも思えるが。

 そんなに大勢との関りではないが、それでも何人かには向き合ってきた。皆、一様に家に帰りたい、と言う。家族は、厄介者としか見ず、家には愚か、面会にも来ない。自分を産んでくれた親である。自分が今日あるのは、この世に産んでくれたお陰であろうに、そんな事実さえ無いとばかりに突き放す子だ。

 仕事としてやっていて、何か府に落ちない想いがあったが、この文章に接して、目から鱗が落ちた。そうなんだ、と納得した。これは、女であるが故に、その年齢から遡って往き、人生を終えようとしている生涯でもあるのか。忘れていくのではなくて、消えていくのだと書かれている。そこに一線を引いて。

 DVDでは、捉える場面があるから、本文とは違ったが、概ね人間の壊れていく様でもある。言葉での、文章での現わしようには、とても慎重な書き方で、未だ、認知症とも言われず、痴呆とされていた時代、こんなにも丁寧に、然も、自然体に人間を書いていたとは。今の作家には到底書けはしない文面でも。

 わが母の記だけを読みたかったが、井上靖全集の第七巻の中に収められていた。無論のこと、図書館で借りた。他にも短編を含んだ、分厚い書籍だ。読んでいて手が痺れる重さで、何度も挫折しそうになった。介護の資格等、吹っ飛んでしまう内容に、かの文豪が細やかに記していたのも感動した。読んで正解。

 今朝は、氷が張っていなかった。毎朝、両親と銀河にお茶湯をしているが、野外に置くので気温で変化する。これを時々、近所を徘徊する猫がちょろまかす。縁台の所なので、野鳥かも知れないが、空っぽなことがある。古里にちょくちょく行けないので、せめてお茶湯はと続けている。夢に出て来て礼を云う。

 藪入り。閻魔参りであるが、江戸時代の頃には、庶民の休日は藪入りだけで、年2回の休みを楽しみに、奉公していた。それから比べると、巷に溢れる物に囲まれて、贅沢なことだ。品質はどうかとも思えるが、デザインも品数も豊富だ。あり過ぎて選ぶのに悩む。個人的には、終活に入っており増やさないが。

 勤務に行けば、ロッカーに何やら怪しげな物がぶら下がっている。感染の立場からだそうだが、これでは悪い菌をやっつけるだけでなく、良いのまで萎れてしまう。ありのままでいいのにと、厭きれてしまう。室温を上げて、半袖でもいいような環境にすることが、そもそも間違っている。自然のままでいいのよ。

 宿根草のサルビア。冬の間には枯れたように見えるが、季節を忘れずに咲いて来るのが可憐。

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小正月・小豆粥

2019年01月15日 | Weblog

 午前中に、リエさん宛ての荷物を持って行くのが遅れ、午後からとなった。連絡しても通じないので、息子さんの留学先に行ったか?ロイは留守番だろうが、何でも避難所はあるようで、無事でいるとか。すばるは雄だが、外に出さないので、先ず飢えてしまう。長期の外出には、餌も枇杷葉茶も工夫がいるなぁ。

 灯油も切らしては困るので、1缶空いたら買っておくが、以前に比べて価格が上昇している。台所には必要で、これで煮炊きもする。休日の枇杷葉茶は、ストーブで行う。ガスだと気づかないこともあり、便利重宝している。明日は、唐揚げをしようと、垂れに漬け込んでおく。醤油の香りが食欲をそそる。休憩。

 すばるのトイレを換える。ちょっと早いのだが、何時も快適な状況を保ちたい。猫にとっての条件には、外での用足しであろうが、家内で飼っていると、そうもいかない。枇杷葉茶を飲んでいるので、臭いは直後だけであるが。それでも、汚れてくると落ち着かなくなる。恨めしそうに見上げることもあり用心を。

 枇杷苗は、冬の時期に行うが、暦を参照にしている。春先になったら、極力しないのがいい。夏場には、葉を繁らせていくので、生葉も余り採らぬ。秋口を過ぎたらいいのだが、冬の時期が適している。特に寒中の季節には、焼酎に漬け、生葉を切って乾燥させ、枇杷葉茶を作っておく。他の時期では腐ってくる。

 大寒になったら、寒肥を施す。それまでに堆肥の用意をしておくが、糠と塩の分量を間違わないようにする。化学肥料では、虫が付き易いし、実の生りも良くない。我が家のは摘果しないが、味は甘く果汁はたっぷり。市販品には見かけで劣るが、美味しさには自信がある。よろこんでくれるのは、最上の肥でも。

 気づけば、昼食を忘れていた。有り難いことに食べる物は、贅沢や好みを言わねばある。ご飯は炊けばいい。これ程の贅沢があるだろうか。原発に頼らなくても、生活の見通しは立つ。沖縄の辺野古への、基地の増設をしないで、戦争へと突っ走ることを止めれば、地球は救われる。何に拘って進めているんだろう。

 アメリカ寄りの考えや、遣り方を変えていかないと、政権が続いていかなくなったら、日本は切り捨てでしょう。阿保な愚かな、言掛かりは止め、地球の安全と平和に貢献してほしい。諸外国では議会の反対で、政権が転覆するのに、日本では何故かならない不思議さだ。国民を、否、庶民を舐めておるのだ。憤慨。

 あちこち探検して、やっと自分の居場所を見つけたすばる。そこ、おかあさんの場所だよ。

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火の用心、上弦・小潮

2019年01月14日 | Weblog

 江戸時代の冬には、火事が多かったらしい。今も変わりないが、寒さに暖を取るのに、煮炊きに、火は欠かせなかった。ちょっと離れるにも、焚口を注意していないと、落下することもあるからだ。炭を熾すのも、手間暇が掛かるので、火の用心には事欠かなかった。子どもの頃にも、風呂の焚口は、充分な配慮をしていた。必ず、水をかけて火を落としていたもの。

 炬燵も、練炭や豆炭を入れることもあるが、風呂の残り火や炭を使い灰で覆って保たせる。寒さに震える夜半等、トイレに起きなければならないと、身体が冷え切って朝まで眠れない。これで湯たんぽもあったが、これは滅多に使わせて貰えない。水が貴重品であった。水道事業が、民間に委託されると、満足な物が飲めなくなる。井戸水は、冬には温かくやわらかい。

 寒中の水は、冷暗所での保存でなくても、温度差の余りない場所でなら、意外と保ちが良い。これで珈琲を淹れるが、何ともまろやかな風味に驚く。珈琲が好いのもあるが、一番は水だろう。自宅で、豆を挽いて淹れる時間は最高だ。流石に冬には冷たいのは避けるが、夏場なら美味しいのにびっくりする。水も、夏場には透き通る爽やかさがあって、咽喉越しが好い。

 Aさんちのは井戸水で、何とも味がいいのに、ずっと貰いに行っている。自然からの恩恵に、祈り感謝する心を持てるのは、とても有り難い。の風や雨に季節の訪れがあるように、水にもちゃんと四季がある。茶事にははっきりと顕れ、お抹茶の解け方も違う。勤務先でするのは、相当に疲労困憊顕れした時や、お正月くらいだ。水が大切な命の元であることに感嘆す。

 若い者でなくても、茶事を習っていなくても、そういった基本的な心を持ちあわせていれば、何気ない変化にも応じれる。それこそ、ノアの箱舟でしょう。神さまは択ぶときに、何を基準にしたのか?愚直なこと、神を信じ崇める純粋さや、心が揺らがないことも、きっと条件にはあったのだと思える。誹謗中傷にも黙々と鑿を使って、舟を築かねばならないのだから。

 青天の小春日和に感謝し、敷き蒲団だけを干す。暖房を点けていれば、乾くのだろうが、生憎とパソコンの部屋だけなので、夏場のようにはいかない。夏場には、28℃で点けておけば、温度差も少なく、家中が心地好い。電気代も余り要らないと言うので、凌ぎ易さの頃までやっている。現在、20℃あるが、特に寒いとは思えない。膝掛も毛布だし、すばるも居るので。

 今年の冬の宙には、彗星が観えている。日々変化する夜空には、観厭きることもなく、未知との遭遇もある。

 

 

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アクシデントに達磨・・・

2019年01月13日 | Weblog

 朝、ネットの接続をしておこうと、スイッチを入れたが、何度やっても繋がらない。早出の時間は迫る、方法が分らず、そのままにして出かけた。勤務中は、業務をこなすのに瀬一杯で、くたくたになりながら終える。夕食の準備に、明日の用意として、ほっとしながら帰宅した。あ・繋がっている。つかれたわぁ・・・機械オンチには、不可解な出来事。

 自然でのことなら、どんな状況でも辛抱して、対応出来るが、機械に関しては手も足も出ない。千手観音なら、こんがらがって逆立ちだろう。自分の不得手なことでもあるが、続けていないと惚ける。然し偶然できたことは、直ぐに忘れるので困る。なんでこうなるの?としくしく・めそめそしてしまう。でも、考えてもしようがないので、神さまに祈る。

 歩いても歩いても 今夏には、豆と茗荷のご飯、とうもろこしの天麩羅をしてみよう。上手くいけば、美味しいのが出来る筈。本日のパスタは上出来だった。檸檬風味の垂れで和風にした。檸檬1個、味醂、白出汁、酢、醤油適宜のいい加減な分量で作った。その時の気分なので、二度と同じ味には出来ない。皆さん、黙々と口にしていたのでやれやれだ。

 介護の仕事には、移乗や、トイレ誘導、入浴介助等、実に様々な業務があるが、調理も欠かせない。新聞を始め、料理の本や、冊子を見ながら考えていく。高齢者の方の口に合うようには、どうやればいいのか。職場でするにはどんな工夫が要るのか。一人でする訳でもないので、分担して作業をこなしていくが、美味しい笑顔に遭えば、うれしくなる。

 小学校の時の恩師に、花芽茶をお裾分けする。枇杷葉の苗木は上げているが、未だ小さいし、花芽は付いていないから。小学生時代には、贔屓された記憶はない。従って、何かを差し上げると、泣いてしまう恩師でもあるのだ。寄る年波に意地悪をしなくても、感謝してもらえなくても、声かけてあげるだけでうれしいらしい。独りは寂しくなるのかな?

 今朝は、久々に霧が巻いて、晴天に恵まれた。洗濯物もよく乾いたようで、取り込みながら感謝する。自然からの力って凄い。乾燥機でなくたって乾くのだ。してみると人間って、何も作れないし、出来る事って少ないんだね。地球に棲まわせてもらっているのに、文句ばかりを言う。地球にしてみたら、面倒で煩い生き物だろうな。反省の心も皆無で。

 やっとじっくりと写せるようになった。ちょっとした音にもびくつく臆病者で、声を出さずに啼く。

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寒中にすること

2019年01月12日 | Weblog

 先日に採っていた花芽を、お茶パックに詰めて、冷凍庫に仕舞う。白枇杷がたくさんあり、リエさんに除ける。ほのかな香りが漂って、心地好さが堪らない。花芽茶は、育っていけば実になるもので、この中に種も含まれる。エネルギーが詰まっているのだから、効果も素晴らしい。何度も煎じて使うが、寒中の水で鮮やかになる。弱火でじっくり煎じる。

 寒中の行事には、味噌作りもある。或いは、寒干しにも適している。夏の時期よりも、寒さの方が気持ちがしゃきっとする。古の人々の知恵には、湿気から様々な物を守ろうとする工夫がみえる。書物も、高価であった時代、借りて読むだけでなく、丁寧に写しおいたのだ。パソコンなんて無い頃に、思いついた者は素晴しいが、手間たるや卒倒しそうに。

 祖母が、餅搗きの用意をし始めると、何かしら期待するところがあって、一臼は白い餅だが、砂糖を混ぜると、歓声を上げた。凍り餅である。豆を入れたりは好きでなかったが、冬の保存食でもあり、春先まで楽しめる。或いは、花餅にしてくれて、梔子や色粉で彩どっていく。祖母は手先の器用な人であり、センスもあったので、たちまち花畑が出来た。

 今は、餅を搗くことさえしなくなり、買えば済む時代だ。子ども頃にしてもらったことは、鮮やかに記憶していても、実行する道具も失せた。揃えるとなると、高額な物になり、それを受け継ぐ者もいなくなった。あの絶妙の甘さや、包丁で切り目を入れて、指先で捻ったり、曲げたりの技に、懐かしさを偲ぶだけだ。日本の伝統遺産は、日々消えていく。

 昨夜、すばるが蒲団を何回も抜け出すので、雨かなと思っていたら、朝アスファルトが濡れていた。自宅を出る時にも、ぐずついた天気で、雪になりそうにもない。東北は大雪らしいが、雪女の出番も必要なの。知人の子どもさんが通う野外授業に、天体観測があったのが、冬は寒いからと中止になったらしい。もお仰天である。子どもよりも親の怠慢です。

 自然の厳しさを知り、星の位置を理解し、何かの時に役立てることには、思いが至らないのに唖然とした。ばっかじゃない。世間の常識を超えた浅はかさに、言葉も出なかった。でも、そういう親に限って、災害に遭えば、我先にと文句を言う。損をすることには黙っていない。こういう輩は、風の色にも、水の音にも、雨の匂いにも疎い。贅沢で不幸なこと。

 わたくしは、貧乏だが、心は豊かでありたいと願う。星を眺め、天変地異を知り、森羅万象の出来事に感謝する。その何れもが、生きていく上で、なくてはならない現象でもある。祈りと感謝の真摯な気持ちさえあれば、いいのかもしれない。神の教えというのは、聖書に書かれているだけでもないだろう。持っているから惜しくなる。惜しい物は持たない。

 枇杷葉の育っていくのもまちまち。フェンスの側で、ちょっとづつ育っていくのもある。

 

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