孫が七夕かざりをラインに送ってくれました
孫が1歳からお世話になりました保育園では季節の行事をとても大切に行って頂きました。
今でも種々の行事を愛おしそうに話してくれます。さて、今年はどんなお願いごとをしたのでしょうか。
7月7日と言えば幼い子を中心として笹を求めて願い事を飾りますが、私たち高齢者は「千葉市の七夕空襲」を思い出します。
千葉市の中心街が焼け野原となりました事を・・・ 合掌
過去ログですが 2015年07月05日 「千葉空襲」平和祈念碑が完成
千葉市における戦災の状況(千葉県)
総務省のHP http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_07.html
1.空襲等の概況
千葉市は、明治末期から太平洋戦争中にかけて、千葉聯隊区司令部、千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、
千葉陸軍高射学校、陸軍市下志津飛行学校などの軍事施設が設置され、蘇我地先の埋立地(現川崎製鉄千葉製鉄所付近)には、軍需工場の日立航空機千葉工場が設置され、
「軍郷千葉市」と呼ばれていた。
太平洋戦争中、千葉市への空襲は数度あったが、米軍が千葉市を目標にした空襲は、昭和20(1945)年6月10日と7月7日(七夕空襲)の2回であった。
この空襲で中心市街地の約7割(約231ha)が焼け野原となりました。
この2度にわたる空襲により死傷者は1,595人、被災戸数8,904戸、被災者4万1,212人に及んだ。(千葉戦災復興誌より)
(参考:昭和20(1945)年12月末の人口は、9万5,903人)