(長文です)
1.
現代アートのあり方について考えたい人には読んでほしい一冊です。
全体的な統一感はない書物です。まあ、丸山眞男「日本の思想」や浅田彰「逃走論」も相当にとっちらかった本でしたし、現代美術の現状をさまざまな角度から照射して考察するには、こういうスタイルがむしろふさわしいのでしょう。
452ページのうち、編者の藤田直哉さんの手になる文章は、巻頭の43ページまでで、全体の1割に満たない分量です。それ以降は、星野太さんとの対談や、田中功起さん、遠藤水城さんを交えた鼎談、北田暁大さんが社会学の目でとらえた論文など、八つの部分からなっています。
藤田さんの巻頭の文章は、初出が、文芸誌「すばる」の2014年10月号に掲載されて話題を呼んだ「前衛のゾンビたち 地域アートの諸問題」です。「地域アート」の定義をはっきりさせるなど、かなり改稿しているようで、一昨年読んだときにはわからなかった部分も今回はすとんと胸に落ちた部分もあります。ただし、やはりどうしても納得できないこともありました。いちばん納得できなかったことは後で書くつもりです。
また、この文章の中の「叛逆の頽落 北川フラムの場合」の節を読むと、現実と折り合いをつけて事業を進めていくオトナを、若い人が威勢よく批判しているなあと思います。私は老人なので、こういう文章に接すると
「ふっ、若いなあ」
と口元に笑みが浮かびます。外野からこうして批判するのは簡単なんですよね…。
2.
収録された文章のうち、個人的にもっとも感心させられたのは、加治屋健司さんの「地域に展開するアートプロジェクト」でした。
やはり、こうしてきちんと「歴史をまとめる」ことを一度しておかないと、新しい概念を持ち出して現状を批判する際には、説得力を持ちにくいですよね。
加治屋さんは「地域アート」という語は用いず「アートプロジェクト」という言葉を使っています。私もそのほうが適切だと感じます。
そして、日本のアートプロジェクトの源流として三つの流れがあると、述べています。つまり
1.野外美術展
2.パブリックアート
3.ヤン・フートの活動
を挙げ、それぞれの系譜を、具体例を豊富に挙げて叙述しています。
3.
加治屋さんの論考については後ほど詳しく述べるとして、そのほかの所収の文章について記しておくと、鼎談での遠藤水城さんも、鋭い考察を連発しています。
オルタナティブスペースを成功させる技術について語るくだりでは、大友良英さんの「プロジェクト FUKUSHIMA!」の成功事例などをさらに相対化させるような言及もあります。
引用すればきりがないので、遠藤さんについてはこのあたりにとどめます。
4.
もうひとつの収穫は、会田誠さんとの対談です。
会田さんといえば韜晦と冗談で話をまぜっ返しそうなイメージがありますが、ここでは意外なほど(スミマセン)、日本のアートの現状について率直に語っています。
「ギラギラな欲望の世界と、学者が考える意義みたいな世界の、両輪でアートが動いていくのはいいなと思う」
という発言は、絵画や写真などで膨れあがるマーケットと、ますますコンセプチュアルになるプロジェクトやビエンナーレとに大きく分かれる現代の美術の状況を短いことばでとらえ、なかなか的確だし、すとんと落ちるひとことだなと思わせます。
このほか、北田暁大さんの、社会学から見た現代アートの論考も、あらたな知見を与えてくれるものでした。
5.
さて、加治屋さんの論考に話を戻します。
野外美術展については、スペース戸塚や点展、近年ではアートキャンプ白州、ミュージアム・シティ・福岡、灰塚アースワークプロジェクトなどが挙げられていますが、道内の事例については全く触れられていません。
パブリックアートの項では、北川フラムがアートプランナーを務めたファーレ立川と、南條史生がアートコンサルタントとして取り組んだ新宿アイランドが主な例として取り上げられています。
「バブル経済の崩壊とともに、公共性に関する議論が十分に広がらないまま下火になった」
というのは首肯できる指摘でしょう。
ヤン・フートはベルギーで1986年、アーティスト51人が一般住宅を会場に展示を行った「シャンブル・ダミ展」のキュレーターを務めています。この流れで、住宅を会場にした展示として、川俣正の「アパートメント・プロジェクト」(1982~83年)に触れられています。
フートはその後、たびたび来日し、95年の東京・青山の「水の波紋'95」展に先立ち、札幌など国内8カ所に滞在して、そのまちが持っている特性を素材として作品を創ったということです。札幌では北3条通りを歩いてまちを再発見するというセミナーに招かれており、なんだか、以前からやっていることがあんまり変わらないような気が…。
加治屋氏は続けて
「日本のアートプロジェクトの源流が、野外美術展、パブリックアート、ヤン・フートにあるとすれば、日本のアートプロジェクトは、リレーショナルアートの動向とともに生まれたわけではないとも言える。」
と論を進めます。
「リレーショナルアートを主唱したニコラ・ブリオーの『関係性の美学』が刊行されたのは1998年、日本で注目を集め始めたのは2000年代初めであり、その頃にはすでに日本のアートプロジェクトは十分に盛んになっていた」
ためです。
ただ「アートプロジェクト」というくくりでいえば、その通りなのですが、ビエンナーレや国際美術展という概念からいえば、横浜トリエンナーレの第1回が2001年ですから、いささか見方は変わってくるでしょう。
引用を続けます。
このあと、加治屋氏の記述は、ビショップ(さいきん「人工地獄」の邦訳が出ました)やグラント・ケスターによるブリオー批判へと続きます。
このあたりを実にたくみに整理し、しかも川俣正の近況をも加えて考察しており、この論考だけでも勉強になるなあと思いました。
というわけで、「今の日本の現代アート」をさまざまな切り口でとらえた本としておもしろいと思います。
ただし、編者の主張にはかならずしも同意しているわけではありません。そのあたりは、別項で論じることにします。
1.
現代アートのあり方について考えたい人には読んでほしい一冊です。
全体的な統一感はない書物です。まあ、丸山眞男「日本の思想」や浅田彰「逃走論」も相当にとっちらかった本でしたし、現代美術の現状をさまざまな角度から照射して考察するには、こういうスタイルがむしろふさわしいのでしょう。
452ページのうち、編者の藤田直哉さんの手になる文章は、巻頭の43ページまでで、全体の1割に満たない分量です。それ以降は、星野太さんとの対談や、田中功起さん、遠藤水城さんを交えた鼎談、北田暁大さんが社会学の目でとらえた論文など、八つの部分からなっています。
藤田さんの巻頭の文章は、初出が、文芸誌「すばる」の2014年10月号に掲載されて話題を呼んだ「前衛のゾンビたち 地域アートの諸問題」です。「地域アート」の定義をはっきりさせるなど、かなり改稿しているようで、一昨年読んだときにはわからなかった部分も今回はすとんと胸に落ちた部分もあります。ただし、やはりどうしても納得できないこともありました。いちばん納得できなかったことは後で書くつもりです。
また、この文章の中の「叛逆の頽落 北川フラムの場合」の節を読むと、現実と折り合いをつけて事業を進めていくオトナを、若い人が威勢よく批判しているなあと思います。私は老人なので、こういう文章に接すると
「ふっ、若いなあ」
と口元に笑みが浮かびます。外野からこうして批判するのは簡単なんですよね…。
2.
収録された文章のうち、個人的にもっとも感心させられたのは、加治屋健司さんの「地域に展開するアートプロジェクト」でした。
やはり、こうしてきちんと「歴史をまとめる」ことを一度しておかないと、新しい概念を持ち出して現状を批判する際には、説得力を持ちにくいですよね。
加治屋さんは「地域アート」という語は用いず「アートプロジェクト」という言葉を使っています。私もそのほうが適切だと感じます。
そして、日本のアートプロジェクトの源流として三つの流れがあると、述べています。つまり
1.野外美術展
2.パブリックアート
3.ヤン・フートの活動
を挙げ、それぞれの系譜を、具体例を豊富に挙げて叙述しています。
3.
加治屋さんの論考については後ほど詳しく述べるとして、そのほかの所収の文章について記しておくと、鼎談での遠藤水城さんも、鋭い考察を連発しています。
オルタナティブスペースを成功させる技術について語るくだりでは、大友良英さんの「プロジェクト FUKUSHIMA!」の成功事例などをさらに相対化させるような言及もあります。
しかし「価値がフラット」であることは、アートの定義にも条件にもならない。たとえば、オタクカルチャー的にもハイアート的にも「良い」といえる作品があったとして、問題なのは、それがなぜ良いのかを公共の概念の変容とともに示すこと、あるいは、その作品が「公的に」生産/受容されるのは、どのような条件においてなのか、ということです。(141ページ)
引用すればきりがないので、遠藤さんについてはこのあたりにとどめます。
4.
もうひとつの収穫は、会田誠さんとの対談です。
会田さんといえば韜晦と冗談で話をまぜっ返しそうなイメージがありますが、ここでは意外なほど(スミマセン)、日本のアートの現状について率直に語っています。
「ギラギラな欲望の世界と、学者が考える意義みたいな世界の、両輪でアートが動いていくのはいいなと思う」
という発言は、絵画や写真などで膨れあがるマーケットと、ますますコンセプチュアルになるプロジェクトやビエンナーレとに大きく分かれる現代の美術の状況を短いことばでとらえ、なかなか的確だし、すとんと落ちるひとことだなと思わせます。
このほか、北田暁大さんの、社会学から見た現代アートの論考も、あらたな知見を与えてくれるものでした。
5.
さて、加治屋さんの論考に話を戻します。
野外美術展については、スペース戸塚や点展、近年ではアートキャンプ白州、ミュージアム・シティ・福岡、灰塚アースワークプロジェクトなどが挙げられていますが、道内の事例については全く触れられていません。
パブリックアートの項では、北川フラムがアートプランナーを務めたファーレ立川と、南條史生がアートコンサルタントとして取り組んだ新宿アイランドが主な例として取り上げられています。
「バブル経済の崩壊とともに、公共性に関する議論が十分に広がらないまま下火になった」
というのは首肯できる指摘でしょう。
ヤン・フートはベルギーで1986年、アーティスト51人が一般住宅を会場に展示を行った「シャンブル・ダミ展」のキュレーターを務めています。この流れで、住宅を会場にした展示として、川俣正の「アパートメント・プロジェクト」(1982~83年)に触れられています。
フートはその後、たびたび来日し、95年の東京・青山の「水の波紋'95」展に先立ち、札幌など国内8カ所に滞在して、そのまちが持っている特性を素材として作品を創ったということです。札幌では北3条通りを歩いてまちを再発見するというセミナーに招かれており、なんだか、以前からやっていることがあんまり変わらないような気が…。
加治屋氏は続けて
「日本のアートプロジェクトの源流が、野外美術展、パブリックアート、ヤン・フートにあるとすれば、日本のアートプロジェクトは、リレーショナルアートの動向とともに生まれたわけではないとも言える。」
と論を進めます。
「リレーショナルアートを主唱したニコラ・ブリオーの『関係性の美学』が刊行されたのは1998年、日本で注目を集め始めたのは2000年代初めであり、その頃にはすでに日本のアートプロジェクトは十分に盛んになっていた」
ためです。
ただ「アートプロジェクト」というくくりでいえば、その通りなのですが、ビエンナーレや国際美術展という概念からいえば、横浜トリエンナーレの第1回が2001年ですから、いささか見方は変わってくるでしょう。
引用を続けます。
ブリオーは、『関係性の美学』において、リレーショナルアートを「人間同士の相互作用とその社会的な文脈の領域を理論的な地平とする美術」と説明し、「自立した私的な象徴空間」を主張する従来の美術と区別している。リレーショナルアートは、出来事や共同作業などの状況を構築して人と人との出会いをつくり出し、その意味を集団的に作り上げようとするものである。(中略)
それまでの現代美術の言説は、『オクトーバー』に代表されるような、60年代のアメリカ美術に依拠して作られたものが大きな力を持っていたが、ブリオーの議論は、美術言説のあり方を大きく変えて、90年代後半のヨーロッパの新しい美術の動向を巧みに捉えるものとして高く評価された。
(113~114ページ、漢数字は洋数字に書き換えています)
このあと、加治屋氏の記述は、ビショップ(さいきん「人工地獄」の邦訳が出ました)やグラント・ケスターによるブリオー批判へと続きます。
このあたりを実にたくみに整理し、しかも川俣正の近況をも加えて考察しており、この論考だけでも勉強になるなあと思いました。
というわけで、「今の日本の現代アート」をさまざまな切り口でとらえた本としておもしろいと思います。
ただし、編者の主張にはかならずしも同意しているわけではありません。そのあたりは、別項で論じることにします。
(この項続く)