北海道美術ネット別館

アート、写真、書など展覧会の情報や紹介、批評、日記etc。毎日更新しています

■山本雄基個展 プレインバブル (9月25日まで)

2010年09月24日 00時06分11秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
 「平面なのに奥行きがあり、重なっているのに限りなく透明」

 CAI02のサイトの紹介にあった一文。
 山本雄基氏の絵画の特質を的確に言い当てている。

 それに先立つ部分の文章も、彼の紹介文としては相当いい線いっていると思う。

山本雄基は、今年開催された第5回大黒屋現代アート公募展で大賞を受賞し、
同じく今年7月にはポーランドのアーティストインレジデンスに招聘される。
昨年もJRタワーARTBOXで優秀賞を受賞するなど、現在注目の若手画家である。

山本の作品には色とりどりの「まる」が描かれ、
その幾層にも重なるキレイなまるいかたちは、
境界線を追いかけると見失い、また追いかけると現れ、
限定された四角い画面の中にわたしたちは無限の想像力をかきたてられる。

根気強くレイヤーを重ねることで、時間と空間が幾重にも重なり、
形を変え、色を変え、奥行きを与え、わたしたちを作品の中へと吸い込んでいく。
その体験は、多面的で曖昧な人間社会の輪郭をカラフルに肯定してくれるかのようでもある。

  





 高橋喜代史との対談という形式をとった18日夜のアーティストトークを聞いた。

 そこで強く感じたこと。

1. 山本雄基はたいへんな勉強家である。

2. 山本雄基は近代絵画の極限である。


 過去の作品の映像を投影しながら作家は、これはセザンヌ、これは岡本太郎、こちらはリヒター、さらにマティス…と、その時代その時代に自分が影響を受けてきた画家の名前を挙げていた。

 道教大の油彩研究室には、近現代の美術史(絵画史)を、「お勉強」としてではなく、自分たちのリアルで同時代的な問題として学ぶという伝統があると思う(もっとも、西田卓司以後、その伝統がとうなっているのかは知らないけど)。
 初期(大学2年ごろ)に、牛を描いた荒っぽい絵にも、セザンヌの大水浴の影響があるのだという。
 
 簡略化した書き方になるが、近現代の絵画史(そして芸術史)は、ある種の純粋さを求めてめまぐるしく移り変わってきた感がある。その終着点が抽象表現主義でありミニマルアートであったといえる。
 20世紀後半の絵画は、ポップアートやスーパーリアリズムも含めて、私見では、ほとんどが抽象か、抽象に向かいつつある作品である。抽象ということばがまずければ「現実のモティーフを描いていない」と言い換えてもいいだろう。アンディ・ウォーホルはノーマ・ジーンの肖像を描いたのではなく虚像として流布するマリリン・モンローのイメージを再生産したのだったし、スーパーリアリズムの画家たちは実際の風景を前にイーゼルを立てたのではなく写真を見て描いたのだった。(スーパーリアリズムにはマーケットの需要という側面もあるのだが、いずれにせよ、現代人の現実認識の変容を、結果的に皮肉った画像になっていることは否定できない)。
 純粋性と抽象性の追求は、絵画が世界や物語の挿絵から脱して自律するための、必然の道であったのだが、現実世界との接点を喪失するという代償も払ったし、同時に、表現のバリエーションをどんどんそぎ落としていくことで、前途をいよいよナローパス(狭い道)にしていったのだ。一面の赤に細い線? 黒い地の上に規則的に引かれた白い線? そんな絵ばかりになっては、いよいよ絵画は袋小路に陥ってしまうだろう(いうまでもなく前者はバーネット・ニューマン、後者はフランク・ステラ)。

 ところが、筆者の目には、あたかも平均台の上のように細くなってしまったナローパスを、山本雄基が走り抜けているように見えるのである。

 現実をイリュージョニスティックに再現することを否定する近現代絵画の追求は、いまではすっかり歴史の中におさまってしまった感がある。しかし、山本雄基は、中村一美や井上まさじら少数の闘い続ける画家たちのひとりなのだと思う。奥行きを否定しながら、奥行きを創出すること。現実の再現を否定しながら、ひとつの空間であり続けること。
 そして、これは意外と重要だと思うのだが、そこまでして「美術史の娘」でありながら、ぱっと見では、堅苦しい作品ではなく、どこまでも軽やかで楽しい絵になっていることを、強調しておきたい。
 その世界に吸い込まれ、円と円との相互関係を検証しようとすると、もう容易には、離れられなくなっている。不思議な絵である。
 なお、これらの円はみなフリーハンドで描かれているという。


 というわけで、現代アートのルールのもとで制作しているキーボーと話がかみ合わないところがあったのは当然である。
 デュシャンが「網膜的なアートは嫌いだ」と罵倒した当のものを、山本雄基はあえてやっているんだから。
 しかし、「デュシャン以後」であることを自覚しながら絵画を追求するのと、自覚せずに追求するのでは、えらく違うのではないだろうか。


 とかなんとか小難しいことを書いておきながら作者から「全く違います」とか言われたらどないしよう(笑)。


 出品作は次のとおり。
プレインバブル 2010、9.2×14.5cm
プレインバブル 2010、10.3×12.7cm
みえないみえる(ジェミニグリーン)2009、34.7×24.5cm
曖昧のあわ、みえ得るところ 2009、23.2×21cm
プレインバブル(果て


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。