(承前.。少し長文です)
私見ですが、野外彫刻は次の4種類に、便宜的に分類できます。
1) 建築と彫刻が未分化なもの
ノートルダム寺院のガーゴイルなど
2)偉人・顕官系
軍人や政治家などの偉業をたたえるもの。日本では明治から昭和期の建立が多い
3)造形系
戦後の中心。「愛」「希望」みたいな題のついた裸婦や、1970年代あたりから増える抽象彫刻など。
4)キャラクター系
道内は、1)と4)がないのが特徴といえます。
1)はそもそも日本には少ないのです。4)は、小田原のどかさんが、最近の日本の特徴と指摘していた記憶があり、宮城県石巻市のサイボーグ009や、東京都葛飾区の両津巡査、鳥取県の水木しげる関連など国内各地にたくさんあるのですが、道内では、函館の月光仮面ぐらいしか思い当たりません。
漫画家大国なんですけどね、なぜなんだろう。
「偉人・顕官系」の多くは戦中の金属供出によって失われてしまいましたが、戦後もいくつか復活したり、新設されたりしています。
経済人に関しては、その社長が在籍した会社の敷地内など、公共空間でないところに胸像が設置されている例が多いようです。
札幌は、偉人・顕官系がさほど目立っていない都市ではないかと思いますが、その中では存在感ある彫刻がこの大通公園10丁目の「ホーレス・ケプロン像」と「黒田清隆像」でしょう。
道民なら名前ぐらいは知っていると思いますが、ケプロン(1804~85)は米国式の大規模農業の導入を提言した、開拓使の顧問であり、黒田清隆(1840~1900)はケプロンを招いた開拓次官で、後に首相にもなりました。
2人とも北海道開拓の初期の歴史に登場する人物です。
札幌市教育委員会編のさっぽろ文庫『札幌の彫刻』によると、どちらも加藤顕清の構想で高さ315センチのブロンズ製。ケプロン像は野々村一男、黒田像は雨宮治郎の作とされています。
加藤(1894~1966)は旧制上川中学(現旭川東高)の出身で、帝展・日展などで活躍した彫刻家です。
ところが、上の写真を見るとわかりますが、この2人の像のすぐ前にプレハブ小屋が建てられています。
スマートフォンのカメラを向ける女性は、これらの像には関心も無く、関係ない方を見ています。
これは…?
そうなんです。
この写真は、さっぽろ雪まつりの期間中に撮ったもので、ケプロンと黒田清隆のうしろ側(西側、石山通に近いほう)に毎年、巨大な雪像がつくられるのです。
西10丁目は「uhb広場」とされており、今年の雪像は、ウインタースポーツを楽しむサザエさん一家でした。
2人は札幌の都心の方を向いて立っているので、こういう写真が撮れてしまうのですが、こんな大きな彫刻でも、多くの人は存在にほとんど気づいていないということを物語っているように思います。
つぎの画像でも、大半の人は雪像を見ていて、銅像には見向きもしていません。
インターネット検索ではほとんど出てこないので、知らない方も多いでしょうが、両方の銅像は、赤いペンキで落書きされたことがあります。
1974年8月18日のことです。
翌19日の北海道新聞によると、黒田の像には
「アイヌモシリの強奪者 黒田よ 地獄に落ちろ」、
また、ケプロン像には
「アイヌモシリ独立万才!」
と書かれ、さらに黒田像は、ひたいのあたりからペンキを流したらしく、前の方が全身真っ赤になっていたそうです。
つい先日まで本郷新記念札幌彫刻美術館にマケットが展示されていた、旭川市常盤公園の「風雪の群像」爆破事件のことを思い出した人も多いことでしょう(いきさつについては、本郷新記念札幌彫刻美術館のサイトが詳しいです。 http://www.hongoshin-smos.jp/coll/coll_19.html )。
実は、同様の事件が相次いだ時期だったようで、前述の北海道新聞の記事の末尾には、次のようにあります。
「平成の大合併」にともない、静内町は新ひだか町、門別町は日高町に、それぞれ名前が変わっています。
黒田・ケプロン像の事件については、1976年に起きた道庁爆破事件をめぐる札幌高裁での公判でも取り上げられ、新左翼の活動家であった加藤三郎らが実行したという証言が出ています。
したがって、実行犯とアイヌ民族はまったく関係がありません。
ところで、どうしてこんな半世紀近く前のことをおぼえているかというと、筆者は当時この近くに住む小学生で、テレビニュースでこの事件を知り、わざわざ現地を見に行ったのです。
警察官などがいてものものしい雰囲気が漂っていましたが、あたりの芝生の中に、固まった赤いペンキのかけらがあったのを見つけて拾ってきました。母親に見せたところ、そんなものを持っていて疑われたらどうするの! とえらい剣幕でしかられました。
なお、二つの像の建立は1967年で、翌年に「北海道開拓100年」を迎えるのを機に設置されたようです。
□札幌彫刻美術館友の会の関連記事 https://sapporo-chokoku.jp/mainwp/2015/08/27/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86%E3%81%AE%E5%83%8F%E6%B8%85%E6%8E%83/
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加藤顕清「波濤を越えて」(紋別)
・地下鉄東西線「西11丁目駅」からすぐ
・市電「中央区役所前」から徒歩2分ほど
私見ですが、野外彫刻は次の4種類に、便宜的に分類できます。
1) 建築と彫刻が未分化なもの
ノートルダム寺院のガーゴイルなど
2)偉人・顕官系
軍人や政治家などの偉業をたたえるもの。日本では明治から昭和期の建立が多い
3)造形系
戦後の中心。「愛」「希望」みたいな題のついた裸婦や、1970年代あたりから増える抽象彫刻など。
4)キャラクター系
道内は、1)と4)がないのが特徴といえます。
1)はそもそも日本には少ないのです。4)は、小田原のどかさんが、最近の日本の特徴と指摘していた記憶があり、宮城県石巻市のサイボーグ009や、東京都葛飾区の両津巡査、鳥取県の水木しげる関連など国内各地にたくさんあるのですが、道内では、函館の月光仮面ぐらいしか思い当たりません。
漫画家大国なんですけどね、なぜなんだろう。
「偉人・顕官系」の多くは戦中の金属供出によって失われてしまいましたが、戦後もいくつか復活したり、新設されたりしています。
経済人に関しては、その社長が在籍した会社の敷地内など、公共空間でないところに胸像が設置されている例が多いようです。
札幌は、偉人・顕官系がさほど目立っていない都市ではないかと思いますが、その中では存在感ある彫刻がこの大通公園10丁目の「ホーレス・ケプロン像」と「黒田清隆像」でしょう。
道民なら名前ぐらいは知っていると思いますが、ケプロン(1804~85)は米国式の大規模農業の導入を提言した、開拓使の顧問であり、黒田清隆(1840~1900)はケプロンを招いた開拓次官で、後に首相にもなりました。
2人とも北海道開拓の初期の歴史に登場する人物です。
札幌市教育委員会編のさっぽろ文庫『札幌の彫刻』によると、どちらも加藤顕清の構想で高さ315センチのブロンズ製。ケプロン像は野々村一男、黒田像は雨宮治郎の作とされています。
加藤(1894~1966)は旧制上川中学(現旭川東高)の出身で、帝展・日展などで活躍した彫刻家です。
ところが、上の写真を見るとわかりますが、この2人の像のすぐ前にプレハブ小屋が建てられています。
スマートフォンのカメラを向ける女性は、これらの像には関心も無く、関係ない方を見ています。
これは…?
そうなんです。
この写真は、さっぽろ雪まつりの期間中に撮ったもので、ケプロンと黒田清隆のうしろ側(西側、石山通に近いほう)に毎年、巨大な雪像がつくられるのです。
西10丁目は「uhb広場」とされており、今年の雪像は、ウインタースポーツを楽しむサザエさん一家でした。
2人は札幌の都心の方を向いて立っているので、こういう写真が撮れてしまうのですが、こんな大きな彫刻でも、多くの人は存在にほとんど気づいていないということを物語っているように思います。
つぎの画像でも、大半の人は雪像を見ていて、銅像には見向きもしていません。
インターネット検索ではほとんど出てこないので、知らない方も多いでしょうが、両方の銅像は、赤いペンキで落書きされたことがあります。
1974年8月18日のことです。
翌19日の北海道新聞によると、黒田の像には
「アイヌモシリの強奪者 黒田よ 地獄に落ちろ」、
また、ケプロン像には
「アイヌモシリ独立万才!」
と書かれ、さらに黒田像は、ひたいのあたりからペンキを流したらしく、前の方が全身真っ赤になっていたそうです。
つい先日まで本郷新記念札幌彫刻美術館にマケットが展示されていた、旭川市常盤公園の「風雪の群像」爆破事件のことを思い出した人も多いことでしょう(いきさつについては、本郷新記念札幌彫刻美術館のサイトが詳しいです。 http://www.hongoshin-smos.jp/coll/coll_19.html )。
実は、同様の事件が相次いだ時期だったようで、前述の北海道新聞の記事の末尾には、次のようにあります。
道内ではこの種の事件は四十七年十月(引用者註。当時の新聞は昭和を省略して年を表記していた。1972年のこと)、旭川市常盤公園の風雪の群像爆破事件を皮切りに札幌、日高管内静内町などで落書きなどが相次ぎ、最近では今月一日、胆振管内白老町の民俗資料館、四日には日高管内門別町の金田一京助の歌碑にペンキで落書き、また十六日には静内町のレリーフ像「北辺の開拓の礎」の顔の部分がつぶされる事件があったばかりで今回が十一件目。これまでと同様、今回もアイヌモシリ(共和国)の独立を主張しており、同署では過激派による仕業との見方を強め、目撃者の発見など聞き込みに全力を挙げている。
「平成の大合併」にともない、静内町は新ひだか町、門別町は日高町に、それぞれ名前が変わっています。
黒田・ケプロン像の事件については、1976年に起きた道庁爆破事件をめぐる札幌高裁での公判でも取り上げられ、新左翼の活動家であった加藤三郎らが実行したという証言が出ています。
したがって、実行犯とアイヌ民族はまったく関係がありません。
ところで、どうしてこんな半世紀近く前のことをおぼえているかというと、筆者は当時この近くに住む小学生で、テレビニュースでこの事件を知り、わざわざ現地を見に行ったのです。
警察官などがいてものものしい雰囲気が漂っていましたが、あたりの芝生の中に、固まった赤いペンキのかけらがあったのを見つけて拾ってきました。母親に見せたところ、そんなものを持っていて疑われたらどうするの! とえらい剣幕でしかられました。
なお、二つの像の建立は1967年で、翌年に「北海道開拓100年」を迎えるのを機に設置されたようです。
□札幌彫刻美術館友の会の関連記事 https://sapporo-chokoku.jp/mainwp/2015/08/27/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86%E3%81%AE%E5%83%8F%E6%B8%85%E6%8E%83/
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・地下鉄東西線「西11丁目駅」からすぐ
・市電「中央区役所前」から徒歩2分ほど