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(承前)
「美術」と「隣接分野」について考えている。
「こんなことまで美術館でやるの?」
という驚きは、意味があるし、今回のが、痛快な展覧会であるのはまちがいないのだけれど、そういう過激さというものは、すぐに現実に追いつかれるおそれがあるということだ。
美術館がマンガなどのサブカルチャーを取り上げるようになったのは、かなり新しい現象なのだ。
いまでこそ、高橋留美子やスタジオジブリなどでとどまっているけれど、今後どういう方向のことまで取り上げるようになるかはわからない。
だれかがツイッターでつぶやいていたけれど、そのうち、集客のために「アイドルとアート」展なんかが開かれるようになるのかもしれない。
そうなったら、ただサブカルを並べました、という理由で評価されることはなくなり、どういう切り口か、どういう視点かが、問われることになる。
あたりまえなんだけど。
ストリートにあふれているものを、美術館という「権威がありそうな建物」で取り上げれば、それで意義がある、というのも、よく考えればおかしな話なのだ。
ここで「美術」、あるいは「西洋美術」の歴史を振り返ってみる。
西洋の美術はこれまで、周辺にあるさまざまな分野や技法をどんどん取り入れることで、よく言えば進歩、わるく言えば延命してきた。
その代表的な例は、ポップアートであろう。
20世紀前半まではとうてい「美術」の領域には入ってこなかったコミックスや大衆的な表現が導入されたのだった。
今回の展覧会で繰り広げられているのは、ポップアートのときと同様の図式であるといえよう。
蛇足になるが、隣接分野を取り入れることをやめてしまい、過去の表現をひたすら反復する結果になってしまっているのが、西洋音楽(いわゆるクラシック音楽)だといえる。
(□参照 20世紀の文化について)
いろいろな分野を取り込むこと自体は悪いことではない。
しかし、最近問題になっているのは、取り込まれる側の気分である。
多くの分野は相互に影響しあっている。
一方的、ということはあまりない。
ただし「美術」が隣接分野の要素を取り込む場合、暗黙のうちに、美術が優位にたっていることが多い。
隣接分野の方は、不完全なかたちで「美術」に利用される。それは、けっして愉快なことではないだろう。
そこには「力学」が働いている。
ピカソが黒人の美術を取り入れたのは、もちろん黒人の美術に魅力があったためだ。
そして、アフリカ側には、欧洲の美術を取り入れて自らを組織するだけの意欲や力がなかったのに対し、欧洲側には、そうするだけの意欲と力があった。
しかし、それだけではなくて、現実の国際政治において欧米がヘゲモニーをにぎっていたことと、美術で「取り込む側」に立ったこととは、決して無関係ではないだろう。
一例を挙げる。
よく知られているように、村上隆氏の作品は、フィギュアなどのオタク文化抜きでは成立しない。
しかし、オタク文化の側からの村上作品への反発は根強い。
「われわれオタクをいいように利用しているのではないのか」
というものだ。
これも「力学」である。
背後にアカデミスムという権威がある「美術」と、移り気な大衆の支持しか期待できない「サブカルチャー」との間の。
「美術」はサブカルチャーを馴致し、自らに都合がよいように再編することができる。
ただし、そこにどんな正当性があるのかは、じつは困難な問題が横たわっているのではないか。
ぜんぜん書き足りないので、ファノン展については、まだ続きます。
□http://www.sapporo-biennale.jp/2011geimori/
札幌芸術の森美術館
2011年10月29日(土)~11月23日(水)午前9:45~午後5:00(入場は4:30まで) 月曜休館、ただし10月31日は開館
「美術」と「隣接分野」について考えている。
「こんなことまで美術館でやるの?」
という驚きは、意味があるし、今回のが、痛快な展覧会であるのはまちがいないのだけれど、そういう過激さというものは、すぐに現実に追いつかれるおそれがあるということだ。
美術館がマンガなどのサブカルチャーを取り上げるようになったのは、かなり新しい現象なのだ。
いまでこそ、高橋留美子やスタジオジブリなどでとどまっているけれど、今後どういう方向のことまで取り上げるようになるかはわからない。
だれかがツイッターでつぶやいていたけれど、そのうち、集客のために「アイドルとアート」展なんかが開かれるようになるのかもしれない。
そうなったら、ただサブカルを並べました、という理由で評価されることはなくなり、どういう切り口か、どういう視点かが、問われることになる。
あたりまえなんだけど。
ストリートにあふれているものを、美術館という「権威がありそうな建物」で取り上げれば、それで意義がある、というのも、よく考えればおかしな話なのだ。
ここで「美術」、あるいは「西洋美術」の歴史を振り返ってみる。
西洋の美術はこれまで、周辺にあるさまざまな分野や技法をどんどん取り入れることで、よく言えば進歩、わるく言えば延命してきた。
その代表的な例は、ポップアートであろう。
20世紀前半まではとうてい「美術」の領域には入ってこなかったコミックスや大衆的な表現が導入されたのだった。
今回の展覧会で繰り広げられているのは、ポップアートのときと同様の図式であるといえよう。
蛇足になるが、隣接分野を取り入れることをやめてしまい、過去の表現をひたすら反復する結果になってしまっているのが、西洋音楽(いわゆるクラシック音楽)だといえる。
(□参照 20世紀の文化について)
いろいろな分野を取り込むこと自体は悪いことではない。
しかし、最近問題になっているのは、取り込まれる側の気分である。
多くの分野は相互に影響しあっている。
一方的、ということはあまりない。
ただし「美術」が隣接分野の要素を取り込む場合、暗黙のうちに、美術が優位にたっていることが多い。
隣接分野の方は、不完全なかたちで「美術」に利用される。それは、けっして愉快なことではないだろう。
そこには「力学」が働いている。
ピカソが黒人の美術を取り入れたのは、もちろん黒人の美術に魅力があったためだ。
そして、アフリカ側には、欧洲の美術を取り入れて自らを組織するだけの意欲や力がなかったのに対し、欧洲側には、そうするだけの意欲と力があった。
しかし、それだけではなくて、現実の国際政治において欧米がヘゲモニーをにぎっていたことと、美術で「取り込む側」に立ったこととは、決して無関係ではないだろう。
一例を挙げる。
よく知られているように、村上隆氏の作品は、フィギュアなどのオタク文化抜きでは成立しない。
しかし、オタク文化の側からの村上作品への反発は根強い。
「われわれオタクをいいように利用しているのではないのか」
というものだ。
これも「力学」である。
背後にアカデミスムという権威がある「美術」と、移り気な大衆の支持しか期待できない「サブカルチャー」との間の。
「美術」はサブカルチャーを馴致し、自らに都合がよいように再編することができる。
ただし、そこにどんな正当性があるのかは、じつは困難な問題が横たわっているのではないか。
ぜんぜん書き足りないので、ファノン展については、まだ続きます。
□http://www.sapporo-biennale.jp/2011geimori/
札幌芸術の森美術館
2011年10月29日(土)~11月23日(水)午前9:45~午後5:00(入場は4:30まで) 月曜休館、ただし10月31日は開館