(承前)
この問題はいったん打ち止めにするつもりでしたが、「表現の不自由展・その後」のなかで、とくに天皇の肖像を焼く焼かないをめぐって、擁護する側も避難する側もやみくもにツイッター上で議論しているように思われるので、ちょっと書いておきます
あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた経過などについては前項、あるいは、新聞報道などを見てもらうとしてここでは省略します。
さて
「天皇陛下のご真影を焼くとは反日だ、けしからん」
という反応が噴出している作品は、大浦信行作「遠近を抱えて」と思われます。
「遠近を抱えて」は平面作品です。
作品については加治屋健司さんのブログに掲載された批評
「大浦信行の《遠近を抱えて》はいかにして90年代的言説を準備したか」(2005年)
が力作で、参考になります。
また、このブログでも
「天皇コラージュ展示を自粛 -沖縄県立博物館・美術館が大浦信行作「遠近を抱えて」の展示を拒否」(2009年)
という記事で、この作品が巻き起こした反応について書いています(この記事は「天皇コラージュ訴訟の「遠近を抱えて」、連作全14枚 初公開 きょうから高岡で」=2009年=とあわせて、最近わりとよく読まれているようです)。
上の記事の繰り返しになりますが、この「遠近を抱えて」は、昭和天皇の肖像などをコラージュした4枚組みの平面作品で、筆者は図版でしか見たことがありませんが、昭和天皇を侮辱しているとか、ひどい扱いをしているというものではないです。
しかし1986年、富山県立近代美術館の「'86 富山の美術」に出品されたところ、富山県議会で問題視され、右翼の抗議も受けました。
その後、同美術館は作品を売却し、図録はすべて焼却処分としたのです。
昭和時代は「菊タブー」と呼ばれる風潮がまだ強く
「天皇陛下を題材にすること自体が、けしからん」
ということになったのでしょう。
ちなみに大浦さんがその後に制作した映像作品「遠近を抱えて Part II」では、作品を燃やすシーンがあるそうですが、それは「表現の不自由展・その後」の出品作ではないようです(少なくとも、公式サイトには「Part II」が出品されているという記述はない)。
(映像が出品されていたという情報もあり、この件については、断定を控えます)
また、この経緯にインスパイアされた「焼かれるべき絵」という平面作品も、「表現の不自由展・その後」には出品されています。
ただし、この絵では顔のところに穴があいていて、誰の肖像かはわからないようになっています。
なお、今回とくに話題にはなっていませんが、アート集団「Chim ↑Pom」の映像「気合い100連発」は、以前、札幌芸術の森美術館で見たなあ。
日本の醜い内向き主義というか体育会的根性体質というか、そういうのが表現されているように感じられて、見ているうちに非常に不快になってくるのですが、その不快さもひとつの表現であり、現実社会の反映なので、不快だからといって撤去させるのは違うだろうという気がします。
その上で、読者の方にはあらためて考えてもらいたいのです。
はじめに天皇の肖像を焼いたのは誰ですか?
富山県議会と県立美術館ではないですか?
天皇陛下の肖像を現代美術に使うとは不敬だ! としておいて、その肖像の図版が含まれる図録数百冊を焼いてしまうって、なんか、おかしくないですか?
大浦さんは、自分の作品が載った図録が焼かれたということを再現しただけ―ということもできるでしょう。
そして、その焼却処分を追認した裁判所、その後も同作の出品を拒否した沖縄県の美術館、さらに、そういう事態を黙認していた私たちにも、反省すべきところはないですか?
もう一度問います。
はじめに天皇の肖像を焼いたのは誰でしょうか。
少なくとも、今回の「表現の不自由展・その後」に出ている作品だけを取り上げて「けしからん」と怒っても、あまり意味のある言説にはならないのです。
(個人的には、かりに天皇の肖像を焼いた作品があったとしても、それは「表現の自由」の範囲内であって、少なくとも権力・行政がその内容のために発表を差し止めることがあれば憲法に違反すると考えますが、現状報告と問題提起を趣旨とするこの記事から論旨がやや離れますので、これ以上ここでは深入りしません)
追記:「遠近を抱えて」をめぐる経緯は、下記のサイトにとてもよくまとめられています。筆者がこの記事を書いた意味があんまりないくらいです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190806-00010000-tsukuru-soci&p=1
この問題はいったん打ち止めにするつもりでしたが、「表現の不自由展・その後」のなかで、とくに天皇の肖像を焼く焼かないをめぐって、擁護する側も避難する側もやみくもにツイッター上で議論しているように思われるので、ちょっと書いておきます
あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた経過などについては前項、あるいは、新聞報道などを見てもらうとしてここでは省略します。
さて
「天皇陛下のご真影を焼くとは反日だ、けしからん」
という反応が噴出している作品は、大浦信行作「遠近を抱えて」と思われます。
「遠近を抱えて」は平面作品です。
作品については加治屋健司さんのブログに掲載された批評
「大浦信行の《遠近を抱えて》はいかにして90年代的言説を準備したか」(2005年)
が力作で、参考になります。
また、このブログでも
「天皇コラージュ展示を自粛 -沖縄県立博物館・美術館が大浦信行作「遠近を抱えて」の展示を拒否」(2009年)
という記事で、この作品が巻き起こした反応について書いています(この記事は「天皇コラージュ訴訟の「遠近を抱えて」、連作全14枚 初公開 きょうから高岡で」=2009年=とあわせて、最近わりとよく読まれているようです)。
上の記事の繰り返しになりますが、この「遠近を抱えて」は、昭和天皇の肖像などをコラージュした4枚組みの平面作品で、筆者は図版でしか見たことがありませんが、昭和天皇を侮辱しているとか、ひどい扱いをしているというものではないです。
しかし1986年、富山県立近代美術館の「'86 富山の美術」に出品されたところ、富山県議会で問題視され、右翼の抗議も受けました。
その後、同美術館は作品を売却し、図録はすべて焼却処分としたのです。
昭和時代は「菊タブー」と呼ばれる風潮がまだ強く
「天皇陛下を題材にすること自体が、けしからん」
ということになったのでしょう。
ちなみに大浦さんがその後に制作した映像作品「遠近を抱えて Part II」では、作品を燃やすシーンがあるそうですが、それは「表現の不自由展・その後」の出品作ではないようです(少なくとも、公式サイトには「Part II」が出品されているという記述はない)。
(映像が出品されていたという情報もあり、この件については、断定を控えます)
また、この経緯にインスパイアされた「焼かれるべき絵」という平面作品も、「表現の不自由展・その後」には出品されています。
ただし、この絵では顔のところに穴があいていて、誰の肖像かはわからないようになっています。
なお、今回とくに話題にはなっていませんが、アート集団「Chim ↑Pom」の映像「気合い100連発」は、以前、札幌芸術の森美術館で見たなあ。
日本の醜い内向き主義というか体育会的根性体質というか、そういうのが表現されているように感じられて、見ているうちに非常に不快になってくるのですが、その不快さもひとつの表現であり、現実社会の反映なので、不快だからといって撤去させるのは違うだろうという気がします。
その上で、読者の方にはあらためて考えてもらいたいのです。
はじめに天皇の肖像を焼いたのは誰ですか?
富山県議会と県立美術館ではないですか?
天皇陛下の肖像を現代美術に使うとは不敬だ! としておいて、その肖像の図版が含まれる図録数百冊を焼いてしまうって、なんか、おかしくないですか?
大浦さんは、自分の作品が載った図録が焼かれたということを再現しただけ―ということもできるでしょう。
そして、その焼却処分を追認した裁判所、その後も同作の出品を拒否した沖縄県の美術館、さらに、そういう事態を黙認していた私たちにも、反省すべきところはないですか?
もう一度問います。
はじめに天皇の肖像を焼いたのは誰でしょうか。
少なくとも、今回の「表現の不自由展・その後」に出ている作品だけを取り上げて「けしからん」と怒っても、あまり意味のある言説にはならないのです。
(個人的には、かりに天皇の肖像を焼いた作品があったとしても、それは「表現の自由」の範囲内であって、少なくとも権力・行政がその内容のために発表を差し止めることがあれば憲法に違反すると考えますが、現状報告と問題提起を趣旨とするこの記事から論旨がやや離れますので、これ以上ここでは深入りしません)
追記:「遠近を抱えて」をめぐる経緯は、下記のサイトにとてもよくまとめられています。筆者がこの記事を書いた意味があんまりないくらいです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190806-00010000-tsukuru-soci&p=1
さんに、賛成です
というのは、ここではきちんと冷静な議論が成立しているからです。
これこそが「表現の不自由展・その後」の目指したものであり、現代アートらしい帰結だと思うのです。
今回は、脅迫が770件も寄せられるなど、およそ冷静な話し合いとはほど遠い事態になってしまいました。これはもう、左だ右だ、表現の自由だという議論のはるか以前の話です。
おかげで「表現の不自由展・その後」だけではなく、多くの海外作家の作品引き上げという、はなはだ情けないことになりつつあります。
脅迫犯は、日本が後進国だということを世界に知らしめているようなものです。
私は
「主張が正しいのだから、いかなる手段を使っても良い」
という考えほどダメなものはないと思います。
その考えは、昔は新左翼の十八番でしたが、今ではすっかりネット右翼の行動原理になった感があります。
とにかく脅迫などの犯罪は、どんな理由があっても許してはならないと思うのです。
私は大村知事のいう通り、公的な催しだからこそ、憲法は守られねばならないと考えています。
物理的にも、名古屋ぐらいの大都市であれば、いくらでも非公的なスペースや実施主体はあるかもしれませんが、ほとんどの地方では、公的な施設や団体、機関を抜きにこの種の催しを開くことは不可能です。
また、税金からの支出うんぬんという議論がずいぶんありますが、この展示に反対している人だけが税を払っているわけではなく、賛同している人も納税者なので、私はこの議論にあまり意味があるとは思えないのです。
さらに「中立性」をアートに対し行政当局が求めることこそが、事前事後にかかわらず検閲そのものではないかと思います。
表現・言論・報道の自由に関しては、名誉毀損や民族差別といった限られた要因以外では可能な限り尊重されるべきです。この件については、北方ジャーナル事件など判例の積み重ねがあると思います(このあたり詳しくなくて、すみません)。
なお「表現の不自由展・その後」については経費は420万円で、すべて民間からの醵出でまかなわれており、開催経費自体には公費は使われていません。
「週刊新潮」などの「公費2億円」などは、ひどいデマです。
もっとも上に述べたように公費の有無は私の議論の内容には関係しませんが。
私自身は皇室に特別な思い入れはありませんが、たとえ相手が「戦争犯罪人」であったとしても、あのような加害表現を公費で後援することはやはり不適切だと思います。(分断を煽った当の表現者が、抗議文に名を連ねて「連帯」などと訴えているのは、もはやジョークです。)
また展示会を全体としてみても、その内容は左翼活動家がノリで集めた一方的な政治的主張の集合体そのものです。中立性を担保するための手続きを踏んだ形跡もありません。予算の執行に責任を持つ名古屋市長が是正を求めるのも、当然のことです。
このイベントを擁護する人たちは一様に、表現の自由の問題と公的機関が政治的主張を後援することの問題を混同していますが、自主的な公開まで禁止せよと言っている政治家はいませんから(それをすれば、検閲や弾圧という問題は出てきます)、クラウドファンディングでもなんでもして、私的なイベントとして再開すればよいのです。これだけ話題になったのだから、本当に価値があるのならお金も集まるでしょう。(更なる脅迫等に対処するための警察の協力(=公費支出)は、あってしかるべきだと思います。)
映像作品が会場にあったらしい点については了解しました。
ただ「侮蔑する意図」などについては、私は最初の「遠近を抱えて」に関して話をしているので、とりあえず文面はこのままにしておきます。
そして、この本文では述べていませんが、重要なこととして、書いておきます。天皇の写真を焼く作品が「問題だと思う」という一般の声が起きるのと、市長や政治家が「撤去せよ」と発言するのとは、全く位相が異なる問題です。
私自身はこの映像作品が良いとは思えないですが、数百万人が犠牲となり、さらに多くの人が家を失ったり傷ついたりしたあの戦争の「最高責任者」に対し怒りをぶつける表現が存在することも理解できます。そこを一緒にして、誰の顔であれ―みたいな話にするのはちょっと違うのではないかと思います。
https://blogos.com/article/395581/
上記記事にも記載がありますが、(版画作品のほかの部分は消失されて昭和天皇の写真だけが残った状態で、)その写真を直接めがけて執拗にバーナーの火をかけて、その後に燃えカスを靴で踏みにじっている映像が確認できます。
https://www.youtube.com/watch?v=Sbk5jo62L_w
ただ作品を燃やしただけではないのです。
作者の真意は知りませんが、ここまで直接的な攻撃性を表出しておいて「侮辱する意図はありませんでした」は通用しないんじゃないですか。
富山県議会と県立美術館は、顔写真に執拗にバーナーで火をかけて、その燃えカスを踏みにじっていませんよね?それを最初にやったのは、この作品です。
対象が天皇であれ誰であれ、この表現は問題でしょう。真意がどうであれ、客観的にはヘイトにしか見えません。だから批判されているのです。
よく調べもせずに、いい加減なことを書かないでいただきたい。