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■フィオナ・タン ― どこにいても客人(まれびと)として (2016年3月12日、13日、札幌)

2016年03月15日 23時21分05秒 | 展覧会の紹介-現代美術
 道立近代美術館は毎年「映像ミュージアム」という催しを開いている。近年は無料という太っ腹なところをみせている。
 今回は、2014年に東京都写真美術館で開かれた展覧会「フィオナ・タン まなざしの詩学」の会期中に上映されたドキュメンタリー映画「興味深い時代を生きますように」「影の王国」の2本を公開した。

 フィオナ・タンのプロフィルを見ると、2001年の横浜トリエンナーレに出品したとある。
 急いで、当時の図録を見ると、「サン・セバスチャン」の会場風景の写真が載っており、なつかしい思いに駆られた。
 両側からスクリーンに映像を投影するインスタレーションで、成人式を迎えた晴れ着姿の女性たちが弓道の矢を射る場面が続くものだった。題名は、たくさんの矢が命中して死んだ古代の聖人に由来するのだろう。
 しかし、フィオナ・タンの映像は、東洋的な雰囲気を漂わせていた。

 今回上映された「興味深い時代を生きますように」は、1997年の作品で、フィオナ・タンの複雑な出自を反映している。つまり彼女は「●●国の作家」などと手短に説明できるようなプロフィルの持ち主ではない。
 フィオナ・タンは、インドネシア系華僑の父とオーストラリア人の母の間に1967年、インドネシアで生まれ、スカルノのクーデタ(9月30日事件)を機にオーストラリアに移住した。長じてからはオランダを拠点に活動している。
(映画ではなぜオランダに渡ったかの説明はない。ただ、インドネシアの旧宗主国がオランダであることは、無関係ではないだろう)

 そうしたわけで、自分の親類にも中国系が多い。「私は中国人なのだろうか」。彼女は、自らのアイデンティティーをさがして、ジャワ、メルボルン(オーストラリア)、ブリスベーン(同)、ケルン(ドイツ)、香港、北京などを旅し、最後に、村人がみな「タン」姓という村にたどり着く。
 その村には過去数百年にわたる村人の名がすべて載っていて、インドネシアに渡った者も多いという。
 それでもフィオナ・タンは「この村が私の故郷といえるだろうか。いや、いえない」とひとりごちて、自分が「異邦人のプロだ」とする。

 彼女がどこまで意識的、自覚的であったかはわからないが、1970年代末以降、ポストコロニアリズムが人文科学・思想の世界で一大潮流となり、現代アートにも大きな影響を与えた趨勢に、自らのプライベートがぴったり合った格好だ。

 また、映像という形式も、近年の国際芸術祭などで多くみられる発表スタイルだといえる。
 個人的には、国際芸術祭で長尺の映像を、硬いいすに座ったり、あるいは立ちっぱなしだったりして見るよりも、美術館の講堂のいすでゆっくり見ることができてよかったと思う(横浜トリエンナーレの出品作は、ドキュメンタリー映画というよりも、インスタレーションとして成立しているものだった)。

 もうひとつ個人的に、この作品を見ていちばん驚いたことを記しておく。
 「興味深い時代を生きますように」という含蓄深い題は、中国語の古い言い回しに由来するらしい。
 この題に近いことば(漢字)を、フィオナ・タンの父親が彼女に筆で書いて示す場面があるのだが、彼はごく自然な筆遣いで、左から右へと横に漢字を書いてみせるのだ。ストーリーにあまり関係ない、ささいなシーンなのだが、これにはショックを受けた。
 もともと漢字文化圏には横書きという習慣はない。ところが、近代になって横文字が輸入されるとともに、各国で横書きが行われるようになった。今や中国本土も台湾も南北朝鮮も横書きが主流となり、縦書きの本や新聞がこれほど残存しているのは日本だけである。インターネットや理数系書籍はほぼすべて横書きだが、一般の新聞や書籍は大半が縦書きになっている。
 書も、文学と並んで、縦書きへのこだわりが最も強い分野であろう。近代詩文書(調和体)の一部を除いて、横書きの書はめったにみられない。扁額は右から左に横書きで書かれているではないか―という人もいるかもしれないが、あれは横書きというよりも、1行1字だと解すればわかりやすい。だから右から書かれているのである。
 「書」「漢字」が「横書き」であるという事態は、現代の文化のさまざまに混ざり合った性質を端的に表していると思う。


 欧州の難民問題や、日本のヘイトスピーチ、米国でのメキシコ人流入への反発など、国境を越える人の波に対する反動は大きい。
 しかし、これは好むと好まざるとにかかわらず、現代の大きな流れなのであり、純血だの国柄だのを叫んでみても(叫びたくなる人がいること自体は理解できなくもないが)、どうしようもないことなのだ。この流れを見据えて、それぞれのコミュニティーと人びとが異文化を受け入れ、認めるところは認め、譲れないところは説得し、共存していく以外にないだろう。


 「影の王国」については省略する。
 ただ、字幕の「作家ゴーキー」はいただけない。ゴーリキーとするのが普通だ。


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