ツイッターでも書いたけど、きょう4月21日(2010年)の北海道新聞夕刊の文化面に、道立近代美術館主任学芸員の久米淳之さんが寄稿した「季評 美術」は興味深かった。
添えられた写真が、札幌芸術の森美術館で開かれた「真冬の花畑」展の会場風景であったため、見出しもそれにやや引きずられてしまっているが(というような個人的意見を筆者が客観を装って述べることは本来好ましくないのだが)、この文章で久米さんが言いたいのは、美術館を支える研究、収集、展示という根幹が危うくなってきているということではないかと思う。
この文章によると、昨年10月に地方分権改革推進委員会によって第3次勧告が出された。つまり、現在は博物館法などにより、学芸員などの専門職員がいること、建物と土地の確保-といった博物館・美術館の登録用件が定められているが、それを廃止して、あるいは弱めて、地方の自主性を高めようというのだ。
国から地方への権限委譲-というお題目だけを聞けば、いかにも推進すべきことのように思われるけれど、今回の措置が実現すれば、久米さんは、博物館・美術館の最低限の質を維持できなくなる恐れがある-と危ぶんで、次のように述べている。
「地方の博物館が単なるイベント会場化される状況に陥ることを予感させる」
美術館・博物館の関係団体がこぞって反対を表明し、3月末の地域主権戦略会議では、文部科学省が「見直し困難」と回答したとのことで、この措置はまぬかれた。
しかし、久米さんはふれていないが、新たに第2弾が始まった民主党政権による独立行政法人の「仕分け」の中には、こともあろうに国立美術館などがリストアップされている。
文明国で、国立の美術館を持たない国はあまりないと思う(米国はちょっとわからないが、寄附文化の厚みが日本と違いすぎ、私立美術館の充実度も、日本とは比べものにならない)。いかに、日本では、文化とか美術がないがしろにされているかが分かる。
久米さんの文章が圧巻なのは、話を「真冬の花畑」展にずらしつつも、ちゃんと最初の話の流れに戻して、
「専門職員が配置されない館では、こうした(学芸員による調査の行き届いた、生き生きとした=引用者註)展覧会はほぼ姿を消すだろう。地域活性化を尊ぶあまり、行列を生むイベント会場としての運営を迫られれば、お祭りイベントか、「有名な」作家、例えばゴッホのような展覧会ばかりが求められよう」
と、返す刀で、「地方の自主性を生かす」昨今の風潮を批判しているのだ。
さらに、追いうちをかけるように、ゴッホ展にしても
「世界中から貸し出し要望のあるゴッホ作品は、単なる個展では貸し出されないという。新たな視点による意義ある展覧会でなければ、開催は不可能なのだ」
と、しっかり釘をさしているのだ。
その上で、2009年の展覧会入場者数で日本の展覧会が1~4位を独占したと最近報じられたことにふれ
「一つ言えることは、これらの展覧会はほとんど「お宝公開」である点だ。もとより日本では寺社の「宝物開帳」が美術観覧の起源であり(中略)、日本の美術・博物館は、永遠にお宝公開の場としてでしか、生き延びられないのだろうか」
と、いささか暗い、というか、シニカルなトーンで、文章を締めくくっている。
以下はヤナイによる、言わずもがなの補足となるが、もともと日本の美術館は、先に挙げた3本柱のうち、展示に偏っており、収集や研究は弱いのではないか(じつは、久米さんが挙げたほかにも、教育なども重要な役割なのだが)。
収集が弱い、というのは、各美術館がサボっているということを言いたいのではなく、収集予算がおそろしく先細っているということだ。
これも、以前の北海道新聞に出ていたが、札幌芸術の森美術館はもう何年も作品購入費がゼロである。道立館もどんどん削られており、これはまだ確認していないのだが、道立近代美術館で先日始まった新収蔵品展でも、購入した作品は皆無と聞いている。
要するに、地域の美術家と遺族の善意に頼るしかないわけだ。
これでは、もとより体系的な収集などはおぼつかない。当然、研究にも響いてくるだろう。
なんだか、書いているうちにどんどん暗くなってくる。
この続きはいずれまた。
添えられた写真が、札幌芸術の森美術館で開かれた「真冬の花畑」展の会場風景であったため、見出しもそれにやや引きずられてしまっているが(というような個人的意見を筆者が客観を装って述べることは本来好ましくないのだが)、この文章で久米さんが言いたいのは、美術館を支える研究、収集、展示という根幹が危うくなってきているということではないかと思う。
この文章によると、昨年10月に地方分権改革推進委員会によって第3次勧告が出された。つまり、現在は博物館法などにより、学芸員などの専門職員がいること、建物と土地の確保-といった博物館・美術館の登録用件が定められているが、それを廃止して、あるいは弱めて、地方の自主性を高めようというのだ。
国から地方への権限委譲-というお題目だけを聞けば、いかにも推進すべきことのように思われるけれど、今回の措置が実現すれば、久米さんは、博物館・美術館の最低限の質を維持できなくなる恐れがある-と危ぶんで、次のように述べている。
「地方の博物館が単なるイベント会場化される状況に陥ることを予感させる」
美術館・博物館の関係団体がこぞって反対を表明し、3月末の地域主権戦略会議では、文部科学省が「見直し困難」と回答したとのことで、この措置はまぬかれた。
しかし、久米さんはふれていないが、新たに第2弾が始まった民主党政権による独立行政法人の「仕分け」の中には、こともあろうに国立美術館などがリストアップされている。
文明国で、国立の美術館を持たない国はあまりないと思う(米国はちょっとわからないが、寄附文化の厚みが日本と違いすぎ、私立美術館の充実度も、日本とは比べものにならない)。いかに、日本では、文化とか美術がないがしろにされているかが分かる。
久米さんの文章が圧巻なのは、話を「真冬の花畑」展にずらしつつも、ちゃんと最初の話の流れに戻して、
「専門職員が配置されない館では、こうした(学芸員による調査の行き届いた、生き生きとした=引用者註)展覧会はほぼ姿を消すだろう。地域活性化を尊ぶあまり、行列を生むイベント会場としての運営を迫られれば、お祭りイベントか、「有名な」作家、例えばゴッホのような展覧会ばかりが求められよう」
と、返す刀で、「地方の自主性を生かす」昨今の風潮を批判しているのだ。
さらに、追いうちをかけるように、ゴッホ展にしても
「世界中から貸し出し要望のあるゴッホ作品は、単なる個展では貸し出されないという。新たな視点による意義ある展覧会でなければ、開催は不可能なのだ」
と、しっかり釘をさしているのだ。
その上で、2009年の展覧会入場者数で日本の展覧会が1~4位を独占したと最近報じられたことにふれ
「一つ言えることは、これらの展覧会はほとんど「お宝公開」である点だ。もとより日本では寺社の「宝物開帳」が美術観覧の起源であり(中略)、日本の美術・博物館は、永遠にお宝公開の場としてでしか、生き延びられないのだろうか」
と、いささか暗い、というか、シニカルなトーンで、文章を締めくくっている。
以下はヤナイによる、言わずもがなの補足となるが、もともと日本の美術館は、先に挙げた3本柱のうち、展示に偏っており、収集や研究は弱いのではないか(じつは、久米さんが挙げたほかにも、教育なども重要な役割なのだが)。
収集が弱い、というのは、各美術館がサボっているということを言いたいのではなく、収集予算がおそろしく先細っているということだ。
これも、以前の北海道新聞に出ていたが、札幌芸術の森美術館はもう何年も作品購入費がゼロである。道立館もどんどん削られており、これはまだ確認していないのだが、道立近代美術館で先日始まった新収蔵品展でも、購入した作品は皆無と聞いている。
要するに、地域の美術家と遺族の善意に頼るしかないわけだ。
これでは、もとより体系的な収集などはおぼつかない。当然、研究にも響いてくるだろう。
なんだか、書いているうちにどんどん暗くなってくる。
この続きはいずれまた。
との情報を得ました。
作品や、この方についてもっと知りたいのですが、教えていただければ嬉しいです。
ボイスについては邦語文献がいくつもあるので、大きな本屋さんで探してみてください。
ボイスの、芸術の原風景やエコとアートを
思わせる情報がありましたので、興味を持ちました。
でも、ちょっと、違うような気もしますので、
先に、中央図書館(貸出禁止)で、閲覧したいと思います。
「美術手帳」1984年 6月号
芸術の森、宮の森にも、所蔵していませんでした。
ありがとうございました。