読売新聞北海道版の隔週木曜に掲載されている「吉田豪介 美術の散歩道」を、いつも楽しみにしている。
道内美術の現在をわかりやすく紹介しているだけでなく、過去の蓄積が文章に厚みを与えているのは、さすがベテラン美術評論家と思う。
12月2日は
「緊張感伝わる具象展」
という見出しで、札幌時計台ギャラリーで4日まで開かれていた「第4回北海道現代具象展」について、見どころを解説していた。
実は、この展覧会、札幌時計台ギャラリーに引き続き、室蘭や深川を巡回するので、それについてもふれてほしかったのだが…。
それはさておき、吉田豪介さんは、自らが展覧会図録に寄稿した一文を引用している。次のような文章だ。
ふむふむ。
そうなのか。
そもそも、美術をめぐる言説のなかで、この四半世紀は
「具象か抽象か」
という問いの立て方が、少なくなってきているような気がする。
日本の美術界で、絵画が圧倒的な主役の座を降りて久しい。上の引用文にあるとおり、表現形式は拡張の一途をたどり、インスタレーション、パフォーマンス、映像、プロジェクトなどが、とりわけ最先端の美術では多くなってきた。
それでは、絵画が無くなったかというと、そんなことは全くない。以前、美術手帖の「現代美術入門」的なテキストに
「70年代は絵画があまり描かれなかった時代」
などと、ケロっとまとめてあって、
「まじかよ」
と思った記憶があるが、グリーンバーグ的な、歴史(美術史)を直線的な進歩とみる見方は後景に退いて、80年代以降は、まるで抽象表現主義からミニマルアートへの歩みが無かったかのように、絵画は量産されている。
これって、どういう現象なんでしょうかね。誰か教えてください。
むしろいまの日本の美術界で、なかば無意識のうちに用いられている二分法は
「団体公募展的か現代アート的か」
じゃないんだろうか。
ごく乱暴にまとめてしまえば、前者が「月刊美術」「美術の窓」、後者が「美術手帖」や全国紙に載る作家である。
だけど、この二分法は、どうもいまひとつピンとこない。
村上隆、やなぎみわ、塩田千春といった作家が団体公募展的でないというのは、すぐわかるけど。
でも、たとえば、小林孝亘や丸山直文、松井冬子などは、たぶん後者なんだろう。
彼(女)らが悪い画家とは思わないのだが、「団体公募展の作家」とどこが違うのだろう。
この二分法でいけば、出品作家の大半が道内外の団体公募展の会員である「北海道現代具象展」は、どうみても前者である。
なんだか、それだけで、「美術手帖」的なジャーナリズムの文脈からは漏れてしまいそうな気がしてしまう。
北海道というところは、吉田豪介さんが以前或る講演で指摘していたとおり、団体公募展の力がまだ強い。
しかも、おそらく首都圏であれば、まず団体公募展には出品しないであろう作風の人たちが、道内では、道展などで会員や会友になって札幌市民ギャラリーに作品を並べているのがおもしろい(人によっては「奇異」にみえるかもしれないが)。ふだんインスタレーションを制作している人がレリーフにとどめているなど、それなりに周囲に配慮しているように見えるのもまた興味深い光景だったりする。
したがって、団体公募展に出品しているからといって、その人が必ずしもドメスティック(国内的)でローカル(地方的)な作家とは限らないだろう。大半がそうだったとしても、全員がそうと決めつけるのは早計であろう。
筆者としては、団体公募展の作家だからといって十把ひとからげに度外視しないで、評価すべき人はきちんと評価してほしいと思うのだが。
当たり前の結論になってしまうが、要は作品なのであって、作家がどこの所属だとかは、どうでもいいことなんだと思う。
関係あるかもしれないテキスト
「全道展」と「道展」ってちがうの? という人のためのテキスト(2009年)
■アートはどこにあるか(2008年)
道内美術の現在をわかりやすく紹介しているだけでなく、過去の蓄積が文章に厚みを与えているのは、さすがベテラン美術評論家と思う。
12月2日は
「緊張感伝わる具象展」
という見出しで、札幌時計台ギャラリーで4日まで開かれていた「第4回北海道現代具象展」について、見どころを解説していた。
実は、この展覧会、札幌時計台ギャラリーに引き続き、室蘭や深川を巡回するので、それについてもふれてほしかったのだが…。
それはさておき、吉田豪介さんは、自らが展覧会図録に寄稿した一文を引用している。次のような文章だ。
「道内の美術傾向は増々表現形式を拡張させてはいるが、その俯瞰図を見通せば具象絵画という山塊が圧倒的に高い山容を形成し、広い裾野を抱えているといっていい。そんな中で現代具象展の画家たちは、この山塊を目指して登るアルピニストのリーダーたちといっていい」
ふむふむ。
そうなのか。
そもそも、美術をめぐる言説のなかで、この四半世紀は
「具象か抽象か」
という問いの立て方が、少なくなってきているような気がする。
日本の美術界で、絵画が圧倒的な主役の座を降りて久しい。上の引用文にあるとおり、表現形式は拡張の一途をたどり、インスタレーション、パフォーマンス、映像、プロジェクトなどが、とりわけ最先端の美術では多くなってきた。
それでは、絵画が無くなったかというと、そんなことは全くない。以前、美術手帖の「現代美術入門」的なテキストに
「70年代は絵画があまり描かれなかった時代」
などと、ケロっとまとめてあって、
「まじかよ」
と思った記憶があるが、グリーンバーグ的な、歴史(美術史)を直線的な進歩とみる見方は後景に退いて、80年代以降は、まるで抽象表現主義からミニマルアートへの歩みが無かったかのように、絵画は量産されている。
これって、どういう現象なんでしょうかね。誰か教えてください。
むしろいまの日本の美術界で、なかば無意識のうちに用いられている二分法は
「団体公募展的か現代アート的か」
じゃないんだろうか。
ごく乱暴にまとめてしまえば、前者が「月刊美術」「美術の窓」、後者が「美術手帖」や全国紙に載る作家である。
だけど、この二分法は、どうもいまひとつピンとこない。
村上隆、やなぎみわ、塩田千春といった作家が団体公募展的でないというのは、すぐわかるけど。
でも、たとえば、小林孝亘や丸山直文、松井冬子などは、たぶん後者なんだろう。
彼(女)らが悪い画家とは思わないのだが、「団体公募展の作家」とどこが違うのだろう。
この二分法でいけば、出品作家の大半が道内外の団体公募展の会員である「北海道現代具象展」は、どうみても前者である。
なんだか、それだけで、「美術手帖」的なジャーナリズムの文脈からは漏れてしまいそうな気がしてしまう。
北海道というところは、吉田豪介さんが以前或る講演で指摘していたとおり、団体公募展の力がまだ強い。
しかも、おそらく首都圏であれば、まず団体公募展には出品しないであろう作風の人たちが、道内では、道展などで会員や会友になって札幌市民ギャラリーに作品を並べているのがおもしろい(人によっては「奇異」にみえるかもしれないが)。ふだんインスタレーションを制作している人がレリーフにとどめているなど、それなりに周囲に配慮しているように見えるのもまた興味深い光景だったりする。
したがって、団体公募展に出品しているからといって、その人が必ずしもドメスティック(国内的)でローカル(地方的)な作家とは限らないだろう。大半がそうだったとしても、全員がそうと決めつけるのは早計であろう。
筆者としては、団体公募展の作家だからといって十把ひとからげに度外視しないで、評価すべき人はきちんと評価してほしいと思うのだが。
当たり前の結論になってしまうが、要は作品なのであって、作家がどこの所属だとかは、どうでもいいことなんだと思う。
関係あるかもしれないテキスト
「全道展」と「道展」ってちがうの? という人のためのテキスト(2009年)
■アートはどこにあるか(2008年)
ただ観るだけではと思い、少しずつ美術史を
読み始めています。
北海道美術史の大まかな流れだけでも知っていた方が面白いなかしらと。
吉田豪介氏の編集、美術史を読みましたので、
今田敬一氏編集の地域文化の積み上げを読もうと思っています。
美術は広すぎて、何があるのか正直分かりません。
楽しみにしています。
(難しい処がありますが)
ヤナイさんのおっしゃる
通りエントリーの少ない
北海道の画家の皆さんで
あっても、二分法だけで
括るのは無理があります。
北海道の団体公募展に、
よく出品する皆さんを
自分はなんとなく
「市民ギャラリー派」?
だと思っています。
、、だって、ここでしか
絵を見ないしっ!
(あとは時計台ぐらかな?)
いずれにしろ、北海道では
どこの展示会に出品できた
といっても「権威」なんて
箔はつかないような、、。
取り留めのない文章で、
すみません。
いつもありがとうございます。
吉田豪介さんの本は15年前で終わっているので、その後で変わっているところと変わっていないところがあります。
その「変わっているところ」をきちんと見ていかなくては、と思っています。
>エゾ三毛猫さん
そうですね~。
もう「ハクがつく」展覧会はないかもしれないと思いつつ、でも、道外、海外のおおきな展覧会に出品できた人はすごいと思ってしまいます。
それにしても、お二人とも「美術」とか「アート」というべきところを、無意識のうちに「絵」と書いているところが、なんとなく興味深いです。
15年後から、変わっているところ・・。
私は、アートとは何かも、あまり分からないとかんじているようです。
絵は自然に入ってきますので。
ただ、観ていいなぁと感じるのが私にとって絵なんだと思います。
権威云々はもう過去のもので、作家にとっては数ある発表の場の一つでしかありません。
まぁ、権威と思っている会員もいますが、それは内向きの思考でしかなく、勘違いでしょうね。
具象抽象といっても、二次平面での絵具の物理的現象の範疇ですので、色分けすること自体どうかなぁと私は思っています。
全ては抽象です。それが表現でだと思って私は日々格闘しています。
年1度、大作に取り掛かるきっかけにはなりますし、会員になれば横のつながりはできますよね。
>具象抽象といっても、二次平面での絵具の物理的現象の範疇ですので
モーリス・ドニですね。
意外と団体公募展の仕組みについて書いた文章ってないんですよね~。
(引用開始)『この20年間もまた画家を取り巻く美術状況が、加速的に変化しているということは誰もが承知している。こうした表現形式の変遷(原文は変還=川上註)は、かつてはアンフォルメル旋風、コンセプチュアル・アート、あるいはポストモダンといった時代区分的展開を指して語り継いできたが、この習慣にはもう関心が薄れた。今ではメディア・アートとかデジタル・アートを含めてアートの領域あるいは境界が、いま視覚分野の表現全体にわたる次元的拡散へ向かっているように思われる。そして興味深いことにはアートの範囲とか視野とかが際限なく広がっていけばいくほど、いわゆる「具象絵画は古くて、抽象表現は新しい」といった戦後的発想が、時代遅れでナンセンスな区分となったことを美術家たち誰もが納得するようになったようである。
こうした状況を踏まえて道内の美術活動状況を俯瞰してみる時、特に若い世代で、映像を含む立体造形や、空間的パフォーマンスなどコンテンポラリー・アートへの関心が高まっていることは悦ばしいが、量的に測ると、絵画、中でも具象絵画が圧倒的多数派であることは言うまでもない。つまり俯瞰図で…(引用終わり)
となっていて、現代具象展の作家たちがアルピニストのリーダーという文の展開になります。具象と抽象との境のとらえ方が寛容なところと少しリップサービスが入っているとはいえ、概略はヤナイさんの論と同じように感じます。
北海道美術史上での累積では俯瞰的、概略的に具象が圧倒的に多いと考えます。
展覧会を見に行けなかったので、大いに助かりました。
概論が相似しているのは、ヤナイが豪介さんから学んだものの大きさゆえでしょう。
ただ、わざと誤読してみせれば、
「具象、抽象にこだわるのは古臭い」
ということになり、この展覧会そのものを皮肉っているといえなくもありませんが。
まあ、来年でおしまいですから、いまさら言ってもせんないのですが、もはや「具象」という語は不要かもしれませんね。あえて言わなくても、抽象画家がきわめて少数である現状を見る限りでは。