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(承前)
ウッドワン美術館名品選の展覧会で最も印象に残った作品の1点は、小出楢重の「枯木のある風景」であった。
美術評論家の酒井忠康氏が「早世の天才画家」(中公新書)でこの絵について述べていたのが、記憶に残っていたためかもしれない。
題の通り、風景画であり、近景には大きな枯れ木が数本ころがっている。
画面の奥には送電線と鉄塔が描かれているが、なんと、送電線の上に、シルクハットをかぶっているとおぼしき人物がちょこんと腰掛けているのである。
最初はカラスか何かの鳥だと思っているから、人間だと気づくと、ギョッとする。そして、気になってしかたなくなってしまい、ほかの枯れ木などが目に入らなくなってしまうのだ。
酒井さんは書いている。
ところで、「枯木のある風景」といえば、小説家の宇野浩二が、おなじ題の短篇を書いている。
題が同一なのも道理で、この作品のモデルは小出楢重なのだ。
大阪住まいの洋画家島木新吉が、雪の積もった日に奈良へと写生旅行に出かけ、その途次で、友人の古泉圭造について想起するという筋。古泉が、小出楢重である。さらに、共通の友人の画家である八田と入井の会話による古泉評が絡んでくる。
ネタばれになるが、八田と入井が「枯木のある風景」について「鬼気迫るようだ」などと会話している最中、電報が届いて古泉の死が明らかになる。
古泉の葬儀の場に、絶筆「枯木のある風景」は、もう1点の裸婦像とならんで飾られているという情景で、小説は終わる。
島木の回想は、次のようにつづられている。
この小説に書かれていることが、どれだけ小出の伝記的事実に即しているか、筆者は不勉強ゆえ知らない。
例えば、小説では、小出の夫人は社交家で、絵の註文も積極的に取ってくるという。フランス人形の連作も、その註文に応じて描いたというのだが、そこらへんが本当かどうかはわからないのだ。
ただし、フランス人形の絵が純然たる売り絵であるにもかかわらず、駄作がひとつもないと、小説の登場人物たちは舌を巻いている。筆者はそれらのうち1、2点を見たに過ぎないが、たしかに売り絵とは思えぬ非凡な作であることには同意する。
フランス人形も、裸婦も、家族の像も、関西人らしいねちっこさというか、どろっとした感覚が漂う。太い筆で、適度に省筆しているためかもしれない。
その意味でも「枯木のある風景」の、さらりとした描写は、特徴的だ。
しかし、電線の上にいるのは、誰なんだろう?
ウッドワン美術館名品選の展覧会で最も印象に残った作品の1点は、小出楢重の「枯木のある風景」であった。
美術評論家の酒井忠康氏が「早世の天才画家」(中公新書)でこの絵について述べていたのが、記憶に残っていたためかもしれない。
題の通り、風景画であり、近景には大きな枯れ木が数本ころがっている。
画面の奥には送電線と鉄塔が描かれているが、なんと、送電線の上に、シルクハットをかぶっているとおぼしき人物がちょこんと腰掛けているのである。
最初はカラスか何かの鳥だと思っているから、人間だと気づくと、ギョッとする。そして、気になってしかたなくなってしまい、ほかの枯れ木などが目に入らなくなってしまうのだ。
酒井さんは書いている。
わたしは自分の眼で、いくども高架線に乗っかった人物を消そうとしたが、そうすればするほど容易でない事態が生じて厄介なことになる。これは単なる風景ではない。かといって画家の気ままな随想の産物でもない。あきらかに自覚的な現実との対応から生じていて、恐ろしい仕掛けが秘められている――そう考える以外にありえない作品と化すのである。
ところで、「枯木のある風景」といえば、小説家の宇野浩二が、おなじ題の短篇を書いている。
題が同一なのも道理で、この作品のモデルは小出楢重なのだ。
大阪住まいの洋画家島木新吉が、雪の積もった日に奈良へと写生旅行に出かけ、その途次で、友人の古泉圭造について想起するという筋。古泉が、小出楢重である。さらに、共通の友人の画家である八田と入井の会話による古泉評が絡んでくる。
ネタばれになるが、八田と入井が「枯木のある風景」について「鬼気迫るようだ」などと会話している最中、電報が届いて古泉の死が明らかになる。
古泉の葬儀の場に、絶筆「枯木のある風景」は、もう1点の裸婦像とならんで飾られているという情景で、小説は終わる。
島木の回想は、次のようにつづられている。
あの飄逸は仮面ではないかと疑いだした。(中略)古泉の絵に、古泉の談話や文章に充ちている瓢軽(ユウーモア)や皮肉がほとんどあらわれていないことに気がついた時からである。
頭ばかりが大きくなって、それを支える肉体が、頭が大きくなればなるほど、しだいしだいに痩せ細って行ってついに大きな頭と大きな手だけが残って、その肉体がすーっと幽霊のように消えて――ということを考えると、島本は、ただ、暗澹たる気持ちになって、涙さえ出なかった。
この小説に書かれていることが、どれだけ小出の伝記的事実に即しているか、筆者は不勉強ゆえ知らない。
例えば、小説では、小出の夫人は社交家で、絵の註文も積極的に取ってくるという。フランス人形の連作も、その註文に応じて描いたというのだが、そこらへんが本当かどうかはわからないのだ。
ただし、フランス人形の絵が純然たる売り絵であるにもかかわらず、駄作がひとつもないと、小説の登場人物たちは舌を巻いている。筆者はそれらのうち1、2点を見たに過ぎないが、たしかに売り絵とは思えぬ非凡な作であることには同意する。
フランス人形も、裸婦も、家族の像も、関西人らしいねちっこさというか、どろっとした感覚が漂う。太い筆で、適度に省筆しているためかもしれない。
その意味でも「枯木のある風景」の、さらりとした描写は、特徴的だ。
しかし、電線の上にいるのは、誰なんだろう?