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■第71回春の院展 (2016年5月11~16日、札幌)

2016年05月17日 20時05分52秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
(長文です)

 昨年、なんのアナウンスもないまま開催されなかった「春の院展」。行動美術や東日本伝統工芸展の巡回開催が終わり、道内に毎年巡回してくる唯一の展覧会だっただけに、大きな失望を禁じ得なかったが、今年はなんのアナウンスもないままふたたび開かれている。来年以降はどうなるのだろうか。
 家庭から床の間が姿を消し始め、掛け軸や屏風の需要も減った現在、旧来の日本画を支えてきた存立基盤は失われ、もはや院展の日本画は、写実洋画でもなければアニメーション界隈やpixivの絵画でもない、特殊なフィールドに生き延びる一種のマニエリスティックな高級イラストレーションとでもいうべき奇妙な存在になっているのではないだろうか―という疑念は、筆者の脳裡にもある。しかし、2年ぶりに会場に足を運んで、高度な技術に裏打ちされた絵画の数々を眺めていくと、そういう考えはどうでもよくなってきた。自然や風景に向けた視線がありふれたものであろうと、その凡庸性が、見ている者の心性をやさしく包み込むように癒やすのだ。だったら、これはこれでいいのではという気が強くしてくるのである。

 だからといって、感動した絵についてだらだらと個別に記しても、メリハリのない文章になってしまうだろうから、ひとつだけ包括的なポイントを書いておく(アジアや、現代都市風景に題材を得た作品が減っていることについては、前回述べたので省略)。
 それは、横山大観展を見て筆者がはじめて気がついた点であり、とくに春の院展が変化したのではないかもしれないが、「墨の使用」である。なんだかんだいって日本画は、墨の効果的な使用によって、色数を抑えて落ち着いた画面をつくりだすことにたけているといえるのではあるまいか。
 たとえば田渕俊夫「明日香心象 緑陰」。緑で描かれた三角形の木々と、墨によるかわら屋根。おそろしくシンプルで、少ない要素で成り立っている構図であるにもかかわらず、この作品には、貧乏くさいところ、リアリティーからかけ離れているところが全くない。簡素であり、しかも充実している。
 あるいは井出康人「無我」。大観の代表作とは異なり、花飾りをつけて、花模様の服を身にまとった3人の女性を、なんと墨だけで描いている。日本画の二つの大きな潮流である、琳派に代表される華やかな装飾性と、水墨画にみられる簡素な精神性とを、エイヤッと統合させようとした、かなり冒険的な一作と見た。
 いまの2人は同人であるが、無鑑査の福家悦子(北海道出身)「華」も、薔薇の花々を墨で表現した意欲作。モノトーンなのに華やかに感じるのだから、絵とは不思議なものだ。あるいは、色彩が無くてもそれを補う想像力が不思議だというべきかもしれない。
 また、奨励賞の加藤裕子「伊勢の杜」は、激しい驟雨の音や、ぬれた土のにおいが伝わってくるような佳作。
 このほかにも、水面を黒っぽい濃淡で表現した大石朋生「今生」、水べりの木々と水面にうつる影などをとらえた羽子田龍也「冬晨」、都会的な女性像をモチーフにした高幣佳代「待ち合わせ」(この3人はいずれも道内在住! かつては道内から入選ゼロだった年もあったことを思うと、これは劃期的)なども、墨の表現力を生かした作品だといえようし、きらめく樹氷を描いた小川国亜起、庭のアーチを描いた小野寺啓、有明海の干潟をダイナミックな明暗で表現した丸山國生、都市的な建築の孤独を、手前を広くあけた構図で表現した澁谷久美子ら、モノクロームという手法をとることで、極彩色の絵よりもかえって印象に残る作品に仕上げている入選者は少なくないのだ。
 そんなことを思いながら会場の終わりまで来たら、若い女が黒いブラウスを着ているモノクロームの絵があった。川島優「FRAGMENT BOX」。右手を、ひじを折り曲げて上げ、左手を後ろにさげたポーズは、なんだかデヴィット・ボウイを想起させるが、とにかく「墨に五彩あり」という古い言い伝えを、あらためて想起したのだった。

 その一方で、カラフルな装飾性を追求する作品も健在である。
 化学変化で色がにじんだような画面をつくる國司華子(招待)と、ピアズリーやモリスを思わせる装飾性を導入する武部雅子(奨励賞・無鑑査)が同じ壁面に並んでいたのを見ると、思わずニヤリとしてしまった。
 着物の友禅と紅葉、エロティシズムが渾然一体となった染谷香里(奨励賞・無鑑査)、パッチワークキルトのような文様が服装からにじみ出ているような守みどり(春季展賞)も、力がある。
 宇城翔子「春を待つ」は、青い野花の束を手にする双子のような女性が背を向けてはだしでしゃがんでいる絵で、ワンピースの花模様と生えている植物、さらに舞う蝶も入れて、写実性と幻想性、装飾性を合わせようとした絵。こういう無謀ともいえる課題に取り組んでいる作品を見るのは楽しい。
 梅原幸雄は、ゆかた姿の女性3人が線香花火を楽しむ情景を描いており、これは琳派というよりむしろ現代の浮世絵というべきかもしれない。

 題材でいえば、鉄道関係が多くなってきたように思う。
 「日本画」が成立した時代には、近代を象徴する道具立てであったものが、いつの間にか郷愁を喚起する装置になっているのだろう。
 「院展鉄(?)」の代表的存在といえば同人の小田野尚之だろう。「冬の駅」は、単行ディーゼルカーがせいぜい2輌ぶんしか長さのないプラットフォームの駅(単線で、交換設備もない)に止まっている情景を描いている。会場で誰かが「写真みたい」と感嘆していたが、筆者の目にはむしろ、写真製版のシルクスクリーンか、木版画のように見える。色のグラデーションに乏しいからだ。しかし、それは絵の欠点ではない。冬の曇天を効果的に表現しているというべきだろう。
 彼以外にも、田舎の駅を描く赤田美砂緒や早川圭子、秦誠ら、ひとつのジャンルになっているような感がある。

 このほか、気になった作品をランダムに挙げる。

 後藤純男「新緑浄韻」。古寺ではなく、滝を描く。岩の描き方が狩野派に似ているのがおもしろい。

 福井爽人「デコイのある風景」。遠景になだらかな山や家々、近景にギターや花、トランプ。福井さんは何十年もかけてひたすら懐かしさを追いかけているように思う。

 倉島重友「エリカ」。手前の少女の名かと思ったら、背景のピンクの花のことだった。院展の絵に登場する女の子はかわいい子ばかりだな。ついでにいえば、男性はほとんど登場せず、裸婦もほぼゼロ。モデルになっているのは着衣の若い女性が大半。

 大河原秀樹「百合野」。近景が影になり、遠景が明るい。手前に目立たないかたちで描かれているのが好感。

 山田伸「凝」。じっとにらむ獣の視線が理屈抜きで迫力十分。植物の根が雷妻のように見えるのもおもしろい。

 石村雅幸「嘘気」。巨樹の根元がモチーフ。一見、写実的に思われるが、執拗なまでの輪郭線の描きこみに加え、陰影がまったくないのだ。不思議な世界。

 岩永てるみ「アヤソフィア」。女性の後姿。遠くの景色が、ピントの外れた写真のように描かれているのがおもしろい。

 三浦長悦「晨映」。松林か果樹園を描いているのだが、手前に青いネットが張られ、画面の大半を覆っているのが大胆すぎる。

 廣藤良樹「桟橋」。錆び、朽ちたような茶色の橋。美しいとはいえないのに、夢に出てきそうな鮮烈なイメージだ。

 松村公太「爽爽」。今回の個人的なベスト。湖か何かの中によこたわる陸地の上に木が何本かはえ、空は薄いベージュ。ごくシンプルな風景なのに、フラットな光が、ユートピア的な感覚すら漂わせる。いつまでも見ていたい、可能なら絵の中に入ってしまいたいと思わせる作品だった。


 つい調子に乗って長々と書いてしまった。すみません。
 

2016年5月11日(水)~16日(月)午前10時~午後7時(最終日~午後6時)。入場は30分前まで
三越札幌店(中央区南1西3)本館10階催事場

過去記事へのリンク
第69回春の院展 (2014)
第63回
第61回
第59回
第58回
第57回


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