(承前)
(長文です)
□公式サイト http://www.ochiishikeikaku.com/
「落石計画」は、高浜利也氏(武蔵野美大教授)と井出創太郎氏(愛知県立芸大准教授)のふたりが中心となって2008年から毎年夏に行われているプロジェクトである。
会場は、太平洋に突き出た小さな半島の付け根に位置する旧落石無線通信所。
戦前はリンドバーグと交信するなど由緒ある無線局だったが、1960年代半ばに廃止された後は廃墟同然になっていたことは、どこかで読んで知っていた。いまは、有名な版画家の池田良二さん(高浜、井出両氏の恩師でもある)がアトリエにしているという。
当初は3年間の計画だったが、地元から続けてほしいという要望が出たこともあり(北海道新聞根室版による)、続行が決まった。
近年、サイトスペシフィックということばが、美術の世界ではやっている。
これまで美術作品は、ホワイトキューブとよばれる、美術館やギャラリーの無機質な空間で展示されることが多かった。
芸術作品そのものの価値を重視する考え方の反映でもあると思う。
ところが、最近は、ある特定の場所と作品とががっちり結びついたスタイルの発表が増えてきた。
たとえば、山村の古い民家などを会場とすることが多い「越後妻有アートトリエンナーレ・大地の芸術祭」である。
道内では、一昨年秋に三笠の炭鉱跡で展開された幌内布引アートプロジェクトや、8月に苫小牧の樽前小学校を会場とした樽前artyなどがただちに思い浮かぶ。先ごろ終わった帯広コンテンポラリーアート「真正閣の100日」もその中に入るだろう。
この風潮については、真正閣のトークショーでも話したが、筆者はとてもおもしろいと考えている。
人は、美術作品を見に行くとき、単に「見る」だけでなく、「体験する」のである。
サイトスペシフィック的な発表の場合、ホワイトキューブの場合よりも、体験が印象深く記憶に刻まれることが多いのではないか。
たとえば浦和や世田谷の美術館で見た展示よりも、越後妻有の猛暑の記憶のほうが鮮明なのは、後者のほうがより「体験」とセットになっている度合いが大きいからだと思う。
もちろん、多くの人にとって、サイトスペシフィック型展示は、見に行くこと自体が負担になることがしばしばある。
しかし、たどり着くまでが大変であればあるほど、見に行ったことの記憶は鮮明になるだろう。
また、あるいは、こういう批判も想定されるだろう。
つまり、サイトスペシフィック型のプロジェクトでは、作品が、会場自体の持つ意味や歴史と響きあって展示されるため、作品の意味の層が深みを増すのであるが、逆に言えば、作品が展示場所に「寄りかかって」見える-という批判だ。
誰かが言っていたが「サイトスペシフィック作品の魅力3割増しの法則」みたいなものがあって、他の場所ではつまらなく見える作品でも、廃墟など訳ありの会場では、その「訳」が作品を引き立ててくれるという傾向は、たしかにあるのかもしれない。
ただ、筆者が思うに、もともと美術品というのは、サイトスペシフィックなものではなかったのだろうか。
殿様は城のふすまを絵師に描かせ、中世の神職者は自らの教会に飾るために聖書を題材とした絵画を発注したのではなかったか。
絵画や彫刻が「動産」になり、建築と完全に分離したのは、それほど昔のことではない。
さて、落石計画は、まさにサイトスペシフィックなプロジェクトであり、日本国内で、離島を除けば、これほど行くのに不便な会場はまずないだろう。
無線局跡は、古いトーチカを巨大にしたかのような圧倒的な存在感に満ちていた。
ただ、ふたりの作品は、版画が多かったのだが、建物に負けることなく、むしろ建物と同調しているという印象だった。
異なるパートではなく、ユニゾンを奏でている、そんな感じ。
メーンの茶室には、正方形の銅版画作品が外壁一面に貼り付けられている。
ことし、ようやく外側が覆われ、今後は内側の壁にも貼り付けるようだ。
「何百年、何千年もたって、この茶室が落石の霧とともに朽ちていけば…」
というようなことを作家の方が話しておられた。
遠くから見ると、タイルのようだが、近づいて見ると、ひとつひとつは抽象の銅版画らしい、重くひそやかな小宇宙を宿しているように見える。
(下にリンクをはってある、鎌田さんのリポートに載った写真では、まだベニヤ板が見えているが、今年はこれが完全に見えなくなっていた。にじり口も小さくなっている)
ちょうど池田さんが、即興的に制作した一輪挿しを手に現れ、内部に置き「茶室らしくなった」と笑っていた。
その向かい側の部屋には、床に置かれた銅板に炎のついたろうそくがすえられ、宗教的ともいえる雰囲気をかもし出していた。
古いコンクリートが鍾乳石のように変成し、天井にでこぼこをつくり、床にもしみができている。
筆者が訪れたときは、地元の子どもたちが参加するワークショップの最中だった。制作の終わった子は、室内を走り回ったりして、かなりにぎやかで
「無人の辺境に静かにたたずむ作品」
というような雰囲気では全くなかった。
しかし、現代美術とはほとんど縁のなさそうな漁村で、こうして受け入れられ、子どもたちが大勢参加しているのを見るのは、悪くない。
将来、このうちの何人かが、浜で拾った木片などをつかってモビールを作ったことを、なつかしく思い出すだろう。そして、美術館に行ったりギャラリーに足を向けたりする大人になるかもしれない。
出品作は次のとおり。
piacer d'amor bush 系譜への便り ドローイング・エッチング緑青刷り 井出創太郎
piacer d'amor bush 系譜の山 エッチング緑青刷り 井出創太郎
D-2 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
D-6 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
D-1 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
D-4 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
d-10 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
piacer d'amor bush 系譜図 ドローイング・エッチング緑青刷り 井出創太郎
D-5 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
community on the move/Castle モノタイプ・ドローイング 高浜利也
community on the move/Railway-6 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
d-12 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
d-11 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
d-14 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
piacer d'amor bush 想起の床-蘭塔婆 廃銅版インスタレーション 井出創太郎
記憶の器のための 銅 井出創太郎
対話空間/銅版による茶室 井出創太郎+高浜利也
ワークショップ「つなげてキラキラ」によるモビール作品 落石のこどもたち
2011年8月7日(日)~11日(木)午前10時~午後4時
□artscapeの鎌田享学芸員のリポート(2010年)
(「補遺」に続く)
(長文です)
□公式サイト http://www.ochiishikeikaku.com/
「落石計画」は、高浜利也氏(武蔵野美大教授)と井出創太郎氏(愛知県立芸大准教授)のふたりが中心となって2008年から毎年夏に行われているプロジェクトである。
会場は、太平洋に突き出た小さな半島の付け根に位置する旧落石無線通信所。
戦前はリンドバーグと交信するなど由緒ある無線局だったが、1960年代半ばに廃止された後は廃墟同然になっていたことは、どこかで読んで知っていた。いまは、有名な版画家の池田良二さん(高浜、井出両氏の恩師でもある)がアトリエにしているという。
当初は3年間の計画だったが、地元から続けてほしいという要望が出たこともあり(北海道新聞根室版による)、続行が決まった。
近年、サイトスペシフィックということばが、美術の世界ではやっている。
これまで美術作品は、ホワイトキューブとよばれる、美術館やギャラリーの無機質な空間で展示されることが多かった。
芸術作品そのものの価値を重視する考え方の反映でもあると思う。
ところが、最近は、ある特定の場所と作品とががっちり結びついたスタイルの発表が増えてきた。
たとえば、山村の古い民家などを会場とすることが多い「越後妻有アートトリエンナーレ・大地の芸術祭」である。
道内では、一昨年秋に三笠の炭鉱跡で展開された幌内布引アートプロジェクトや、8月に苫小牧の樽前小学校を会場とした樽前artyなどがただちに思い浮かぶ。先ごろ終わった帯広コンテンポラリーアート「真正閣の100日」もその中に入るだろう。
この風潮については、真正閣のトークショーでも話したが、筆者はとてもおもしろいと考えている。
人は、美術作品を見に行くとき、単に「見る」だけでなく、「体験する」のである。
サイトスペシフィック的な発表の場合、ホワイトキューブの場合よりも、体験が印象深く記憶に刻まれることが多いのではないか。
たとえば浦和や世田谷の美術館で見た展示よりも、越後妻有の猛暑の記憶のほうが鮮明なのは、後者のほうがより「体験」とセットになっている度合いが大きいからだと思う。
もちろん、多くの人にとって、サイトスペシフィック型展示は、見に行くこと自体が負担になることがしばしばある。
しかし、たどり着くまでが大変であればあるほど、見に行ったことの記憶は鮮明になるだろう。
また、あるいは、こういう批判も想定されるだろう。
つまり、サイトスペシフィック型のプロジェクトでは、作品が、会場自体の持つ意味や歴史と響きあって展示されるため、作品の意味の層が深みを増すのであるが、逆に言えば、作品が展示場所に「寄りかかって」見える-という批判だ。
誰かが言っていたが「サイトスペシフィック作品の魅力3割増しの法則」みたいなものがあって、他の場所ではつまらなく見える作品でも、廃墟など訳ありの会場では、その「訳」が作品を引き立ててくれるという傾向は、たしかにあるのかもしれない。
ただ、筆者が思うに、もともと美術品というのは、サイトスペシフィックなものではなかったのだろうか。
殿様は城のふすまを絵師に描かせ、中世の神職者は自らの教会に飾るために聖書を題材とした絵画を発注したのではなかったか。
絵画や彫刻が「動産」になり、建築と完全に分離したのは、それほど昔のことではない。
さて、落石計画は、まさにサイトスペシフィックなプロジェクトであり、日本国内で、離島を除けば、これほど行くのに不便な会場はまずないだろう。
無線局跡は、古いトーチカを巨大にしたかのような圧倒的な存在感に満ちていた。
ただ、ふたりの作品は、版画が多かったのだが、建物に負けることなく、むしろ建物と同調しているという印象だった。
異なるパートではなく、ユニゾンを奏でている、そんな感じ。
メーンの茶室には、正方形の銅版画作品が外壁一面に貼り付けられている。
ことし、ようやく外側が覆われ、今後は内側の壁にも貼り付けるようだ。
「何百年、何千年もたって、この茶室が落石の霧とともに朽ちていけば…」
というようなことを作家の方が話しておられた。
遠くから見ると、タイルのようだが、近づいて見ると、ひとつひとつは抽象の銅版画らしい、重くひそやかな小宇宙を宿しているように見える。
(下にリンクをはってある、鎌田さんのリポートに載った写真では、まだベニヤ板が見えているが、今年はこれが完全に見えなくなっていた。にじり口も小さくなっている)
ちょうど池田さんが、即興的に制作した一輪挿しを手に現れ、内部に置き「茶室らしくなった」と笑っていた。
その向かい側の部屋には、床に置かれた銅板に炎のついたろうそくがすえられ、宗教的ともいえる雰囲気をかもし出していた。
古いコンクリートが鍾乳石のように変成し、天井にでこぼこをつくり、床にもしみができている。
筆者が訪れたときは、地元の子どもたちが参加するワークショップの最中だった。制作の終わった子は、室内を走り回ったりして、かなりにぎやかで
「無人の辺境に静かにたたずむ作品」
というような雰囲気では全くなかった。
しかし、現代美術とはほとんど縁のなさそうな漁村で、こうして受け入れられ、子どもたちが大勢参加しているのを見るのは、悪くない。
将来、このうちの何人かが、浜で拾った木片などをつかってモビールを作ったことを、なつかしく思い出すだろう。そして、美術館に行ったりギャラリーに足を向けたりする大人になるかもしれない。
出品作は次のとおり。
piacer d'amor bush 系譜への便り ドローイング・エッチング緑青刷り 井出創太郎
piacer d'amor bush 系譜の山 エッチング緑青刷り 井出創太郎
D-2 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
D-6 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
D-1 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
D-4 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
d-10 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
piacer d'amor bush 系譜図 ドローイング・エッチング緑青刷り 井出創太郎
D-5 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
community on the move/Castle モノタイプ・ドローイング 高浜利也
community on the move/Railway-6 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
d-12 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
d-11 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
d-14 モノタイプ・ドローイング 高浜利也
piacer d'amor bush 想起の床-蘭塔婆 廃銅版インスタレーション 井出創太郎
記憶の器のための 銅 井出創太郎
対話空間/銅版による茶室 井出創太郎+高浜利也
ワークショップ「つなげてキラキラ」によるモビール作品 落石のこどもたち
2011年8月7日(日)~11日(木)午前10時~午後4時
□artscapeの鎌田享学芸員のリポート(2010年)
(「補遺」に続く)