写真展としては、わざわざエントリをたてるほどのものではないのだけど、ひとつの話題として。
ちょうど100年前の、1911年(明治44年)に北見駅(当時は野付牛駅)が開業した。
石北線ではなく、のちの池北線(当時は網走線)が、十勝側から延びてきたのだ。
池北線は、第三セクターのふるさと銀河線に衣替えしたあと、2006年に廃止となる。
旭川-遠軽から石北線がのびてきて、野付牛で合流するのは1932年(昭和7年)のことであえる。
札幌に生まれ育った人間は、明治の始まりとともに北海道の開拓・屯田兵入植が始まったという時代認識を持ってしまいがちだけど、じつは道東のほうは開拓の着手が遅く、明治末になってようやく和人(アイヌ民族に対して本州以南から渡ってきた日本人をこういう)の記録が登場するという街も多いのだ。
左側は古地図の復刻版。
昭和に入った頃のものと思うが、駅から徒歩10分ほどの筆者の職場があるあたりは牧場になっていて、往時の北見市街が現在と比べていかに狭かったか、あらためて驚く。
上の画像で、左端の写真に、駅前に白い野外彫刻が立っているのが見えるだろうか。
むろん筆者も実見したわけではないのだが、戦後の一時期、この場所に「ハッカ乙女」という彫刻が立っていたらしい。
オホーツクゆかりの彫刻家、谷口百馬の作という。
この作品については、もうすこし調査を進めたい。
ちょうど100年前の、1911年(明治44年)に北見駅(当時は野付牛駅)が開業した。
石北線ではなく、のちの池北線(当時は網走線)が、十勝側から延びてきたのだ。
池北線は、第三セクターのふるさと銀河線に衣替えしたあと、2006年に廃止となる。
旭川-遠軽から石北線がのびてきて、野付牛で合流するのは1932年(昭和7年)のことであえる。
札幌に生まれ育った人間は、明治の始まりとともに北海道の開拓・屯田兵入植が始まったという時代認識を持ってしまいがちだけど、じつは道東のほうは開拓の着手が遅く、明治末になってようやく和人(アイヌ民族に対して本州以南から渡ってきた日本人をこういう)の記録が登場するという街も多いのだ。
左側は古地図の復刻版。
昭和に入った頃のものと思うが、駅から徒歩10分ほどの筆者の職場があるあたりは牧場になっていて、往時の北見市街が現在と比べていかに狭かったか、あらためて驚く。
上の画像で、左端の写真に、駅前に白い野外彫刻が立っているのが見えるだろうか。
むろん筆者も実見したわけではないのだが、戦後の一時期、この場所に「ハッカ乙女」という彫刻が立っていたらしい。
オホーツクゆかりの彫刻家、谷口百馬の作という。
この作品については、もうすこし調査を進めたい。