(承前)
「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」は、以前にも指摘したように、とりたててテーマを設定していない。
ついでに言えば、会場には作品や作家の名が記されているくらいで、解説文らしいものは全くない。そのかわり、無料で配布している2色刷りの小冊子に多少の解説が書かれている。
つまり、解釈や意義付けを、見る側にかなりゆだねている展覧会、ということができそうだ。
だから、見た人の数だけ、PARASOPHIA のテーマがあっていい。
筆者は、歴史、とりわけ、近現代史と美術史をあらためて見る―という作品が多く選ばれて、心をひかれたというふうに、総括しておきたいと思う。
そして、急激な右傾化・反動化が進む現代日本社会で、これほど真剣に出品作家が歴史と向き合っていること、京都のマチがそれを受け入れていることを、率直に評価したい。
スーザン・フィリップスも田中功起もジャンリュック・ヴィルムートも笠原恵美子もアナ・トーフも蔡国強もグシュタヴォ・シュペリジョンも眞島竜男も、(筆者はわけあって未見のまま終わってしまったが)森村泰昌も、それぞれの仕方で、現在の自分自身につながる地平上にある歴史と対峙しているのだ。
むろん、アートであるから、昨今の歴史修正主義を声高に糾弾しているのではない。
しかし、アートであるからこそ、簡単にことばでは割り切れない、「問いの投げかけ」が、そこでは行われているということができるだろう。
もう少し議論を進めたい気もするが、印象に残った作品の紹介にうつりたい。
「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」は、以前にも指摘したように、とりたててテーマを設定していない。
ついでに言えば、会場には作品や作家の名が記されているくらいで、解説文らしいものは全くない。そのかわり、無料で配布している2色刷りの小冊子に多少の解説が書かれている。
つまり、解釈や意義付けを、見る側にかなりゆだねている展覧会、ということができそうだ。
だから、見た人の数だけ、PARASOPHIA のテーマがあっていい。
筆者は、歴史、とりわけ、近現代史と美術史をあらためて見る―という作品が多く選ばれて、心をひかれたというふうに、総括しておきたいと思う。
そして、急激な右傾化・反動化が進む現代日本社会で、これほど真剣に出品作家が歴史と向き合っていること、京都のマチがそれを受け入れていることを、率直に評価したい。
スーザン・フィリップスも田中功起もジャンリュック・ヴィルムートも笠原恵美子もアナ・トーフも蔡国強もグシュタヴォ・シュペリジョンも眞島竜男も、(筆者はわけあって未見のまま終わってしまったが)森村泰昌も、それぞれの仕方で、現在の自分自身につながる地平上にある歴史と対峙しているのだ。
むろん、アートであるから、昨今の歴史修正主義を声高に糾弾しているのではない。
しかし、アートであるからこそ、簡単にことばでは割り切れない、「問いの投げかけ」が、そこでは行われているということができるだろう。
もう少し議論を進めたい気もするが、印象に残った作品の紹介にうつりたい。
(以下次項)