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「風立ちぬ」(宮崎駿監督)はなぜ不親切な映画なのか。 【ネタバレ注意】

2013年08月17日 01時05分00秒 | 音楽、舞台、映画、建築など
 夜9時過ぎに仕事を終え、サッポロファクトリーにバスで向かった。
 9時半から「風立ちぬ」の上映があることを新聞の広告で知ったからだ。

 いまはツイッターやフェイスブックなどいろいろおそろしいものがあって、いくら気をつけていても、事前に映画の中身がかなりのところまでわかってしまう。
 例えば、この映画に喫煙シーンが多いことは、映画を見ていなくても相当な数の人がすでに知っているだろう(笑)。
 これ以上、【ネタバレ注意】の文言を、まるで地雷を避けるように気をつけるのにも、いいかげんくたびれてきたので、あいた時間をなんとか見つけて、出かけてきたのだ。
(そうはいっても、このブログの記事を書くにあたり、他のブログなどを当たる事はまったくしなかった。すでにたくさんの文章が書かれているので、図らずも論旨の一致する文章が既に存在するかもしれないが、とりあえず自分の足りぬ頭を使って考えた結果の記事である)

 見ているあいだ、考えたことは
「字幕が少なくて、不親切な映画だなあ」
ということ。

 そして、ユーミンの「ひこうき雲」が流れてきた瞬間に思ったことは
「えっ、これで終わり!?」
だった。

 まず、不親切の説明。

 いまのテレビのバラエティー番組みたいに、なんでもかんでも字幕をつけろというのではもちろんない。
 でも、急な峠の橋を上っていくアプト式機関車の場面だけで「ああ、軽井沢に避暑へ行くのだなあ」とすぐにわからない観客は多いだろう(とくに子どもにはムリではないか)。
 ふつうのテレビドラマであれば

昭和十一年、軽井沢

などと、画面中央に縦書き明朝体で註釈が入る場面である。

 次に「これで終わり?」についてだが、たとえば「カリオストロの城」でも「千と千尋」でもなんでもいいが、宮崎映画にはストーリーがクライマックスに向けて盛り上がるカタルシスがあったはずである。「もののけ姫」なんて、つじつまがあわないところを強引に結末にもっていくあたり、宮崎駿の力量はものすごいと感服した記憶がある。
 ところが、この映画はわりと最初から最後までたんたんとしていて、本来であればクライマックスになりそうな、新型飛行機の試験飛行成功の場面でも、主人公の次郎は冷静すぎるほど冷静である。そして、戦争の惨禍はほのめかされるだけで終わってしまうのだ。 

 宮崎駿は、なぜこんな作劇をしたのだろう。

 最終電車をおりて、家までの道を歩きながら、考えた。

 そして、思った。

 いくら注意していても、話題の映画だから、この作品が、関東大震災から第2次世界大戦に向けての時代、ゼロ戦を設計した天才技師の伝記に、堀辰雄の「風立ちぬ」をミックスしてできあがったという予備知識ぐらいは頭に入れて映画館に来ている。これは、しょうがない。

 でも、実はこの映画には「関東大震災」ということばも「零式戦闘機」という固有名詞も出てこないし、昭和何年(あるいは西暦何年)であるかを明示するせりふも一切ないのだ。

 もちろん、宮崎駿特有の(というか、そこから「オタク」的思考様式がスタートしたといってもよい)細部へのこだわりは、ますます磨きがかかっている。蒸気機関車ひとつとっても、その描写はすごい。
 とはいえ、「ヒトラー氏」や国際連盟脱退への言及はあるから、まず時代設定は間違いのないところなのだ。
 にもかかわらず、作品内部では、年の特定は、注意深く回避されている。

 これは、宮崎駿がわざとやったのではないか。
 あそこで「大正十二年」と特定してしまえば、見る人は「ああ、過去の話なんだな」と逆に納得して、自分には直接関係のない話だと安心してしまう。
 そうではなく、ただ単に「震災」とすることで、「これは2011年の話でもありうるんだよ」と観客に思わせようとしたのではないか。

 考えすぎかな?

 考えすぎか。

 逆に、牛が戦闘機をひっぱっていく場面を見て、
「ああ、これじゃ戦争に勝てるわけないよな」
と思うのが普通なのかもしれないな。







 「私的領域」と「公的領域」についても書いたほうがいいかなという気がしてきたが、それは機会を改めて。 


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
説明不要 (岡崎孝彦)
2013-08-19 21:54:24
雑誌「モデルグラフィック」に連載されていた原作漫画を熟読していたこともあってか、僕は特に説明不足だとは感じませんでした。

あの避暑地は単に「魔の山」でもいいのであって、史実や小説との符合などは、観る側の詮索に任されていたという気がしています。
この映画では、「自然災害」「技術」「戦争」「病」「死」「恋愛」と、人間の「生」をとりまく普遍的なものが描かれていたのであり、モデルこそあるとはいえ、時代・場所や固有名詞などは、特に重要ではなかったような気がしています。

この映画は、宮崎監督の以下のような問題意識に対しての現時点での答案であったと僕は思っています。

「空を飛びたいという人類の夢は、必ずしも平和なものではなく、当初から軍事目的と結びついていた。」
「空のロマンとか、大空の征服などという言葉では胡麻化したくない人間のやりきれなさも、飛行機の歴史の中に見てしまうのだ。」
「飛行機を造って手に入れたものと、なくしたものとどちらが大きいだろうか」
「凶暴さは、僕等の属性のコントロール出来ない部分なのだろうか。」

(サン=テグジュペリ『人間の土地』新潮文庫版に付された宮崎駿による解説「空のいけにえ」より)

「夢の王国」が即ち「地獄」でもある。
「美しくも呪われた夢」にとらわれつつも、「いざ、生きめやも」と言い得る。

これは、「エンディング」や「クライマックス」のある物語ではなくて、歴史というプロセスの中の一断片に過ぎない。
かつてあり、今もあり、これからも繰り返されるであろう「シーン」のうちのひとつである。

この映画では「描かれるべきものは、全て描かれた」というのが、僕の鑑賞後の感想でした。

(子供でも楽しめるという従来のジブリ映画のお約束を捨てることによって、宮崎アニメは新しい領域に入ることに成功したのではないかとも思っています。)
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おたく考証 (岡崎孝彦)
2013-08-19 21:55:46
逆に、時代・場所にこだわるならば、この映画のコダワリぶりは、大変なものであったとも思います。
僕もイイ加減「飛行機ヲタク」を自認していますが、宮崎監督と同世代で本庄季郎が設計したグライダーに乗っていた世代の先輩が書かれた次のような感想を読んで、あらためて蒙を啓かれた思いがしました。

「堀越技師が7試艦戦に失敗し、帝大同期の本庄(季郎)技師が画期的な8試特偵に大成功するという事実です。これが海軍部内に553の戦艦劣勢を補う救国の新兵器ともてはやされ、戦闘機無用論に発展したわけです。ですから、堀越氏には内心忸怩たるものがあり、そのために兵器としてはそれを凌駕する9試単戦に心血を注ぎ、傑作機を生み出したからこそ、晩年も零戦よりも96艦戦いや、9試単戦に思い入れがあったのはうなずけます。この辺りは、あのアニメを見ていても、作者がどれほどの深い意図があって製作したかわかりませんが、小生は見ていて”宮崎、なかなかやるな!!”と、思いました。」

あの映画を観つつ、こんなところに関心する人は、ほとんどいないでしょう(笑)。

あと、最後の場面に「残骸」として出てきた機種と出てこなかった機種を特定して、作家の意図を考察されている方もいました・・・。

僕にとって唯一残念だったのは、原作の漫画ではブタだった堀越二郎の顔が人間になってしまっていたことです。
返信する
岡崎君、どうもです (ねむいヤナイ)
2013-08-19 22:48:41
説明不足というのは一般論であって、小生が見てわかりづらいということではありません。
(ただ、ツイッターでは書きましたが、堀越と本庄がドイツの町を歩いていて、蓄音機から聞こえてくる「冬の旅」に足を止めた後の捕物のシーンが、よくわからない)

伊藤隆介さんも4年前のコラムに書いていましたが、宮崎駿の航空オタクぶりはものすごいと思います。
彼は組合運動にも熱心にやっていたし、世間的には反戦の左翼だけど、それが航空・兵器オタクと矛盾なく(いや矛盾しながら?)同居している。それが面白い。


ただ、小生は、菜穂子の「生きて」というテーマ設定にはそれほどアクチュアルなものを感じないんですよね。
それは、単に、「もののけ姫」のキャッチコピーが「生きろ」だったせいだと思う。
返信する
不親切の続き (ねむいヤナイ)
2013-08-19 23:12:58
そうだ、まだあった。
「計算尺」
ぼくらの世代はわかるけど、若い人はわかんないんじゃないかな。

「もののけ」との共通点といえば、声優が素人で、かなり損をしているところかな。

もっとも、庵野氏の感情移入のない声は、むしろ良かったのかもしれないが。
返信する
宮崎監督らしさの発露 (岡崎孝彦)
2013-08-20 22:20:41
ドイツでの捕物のシーンの時に僕が思い浮かべたのは、アレントが「暗い時代(の人々)」と呼んだ当時の世相でした。同様のことは、日本側でもあったわけですし、そういう政治情勢を描きたかったのかなぁと思いました。
(ただドイツとは違って、日本の特高が堀越のような技術者に目をつけたりしたかどうかについては疑問に思っています。経済学者にとっては「暗い時代」でしたが。)

菜穂子という存在が、やや薄くて、説得力が弱いなぁということは僕も感じました。
ただ、ある人が、菜穂子は、「仕事でどんなに遅く家に帰っても決して怒らず、目の前でタバコをプカプカ吸っても文句を言わず、ひたすら自分に尽くしてくれる」という宮崎駿監督にとっての「理想の女性」に過ぎないのだと書いていて、そう考えると納得がいくような気もしました(笑)。
http://d.hatena.ne.jp/type-r/20130809
http://d.hatena.ne.jp/type-r/touch/20130725

昭和39年生まれというのは、学習指導要領に基づいて計算尺について習った最後の世代のようです。僕の場合は、たまたま父の仕事道具だったので使い方も習いましたが(もう忘れましたが)、僕等よりも若い世代の中には存在すら知らない人も多いでしょう。

宮崎監督にとっては、それでいいのだと思います。分かる奴だけ分かればいいと。パソコンどころか電卓すらなかった時代に、設計をするというのはどのようなことだったのか。分かる奴と分かりたいと思う奴だけが分かればいいのだと。その素材だけは描いたのだと。そういうことではないでしょうか。

この映画のこのような乱暴さは、話題となっている「タバコ」が典型だと思っています。
堀越二郎が喫煙家だったという証拠は無いし、時代背景を考慮しても、この映画におけるタバコの描写は過剰だったと思います。僕は、こうした過剰さを「表現の自由」として肯定しますが、監督の不親切にして過激な態度は歴然たるものだと感じました。
誰にでも分かるような作品を作ることに対して、宮崎監督は飽きつつあるのだと思います。
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たばこ (ねむいヤナイ)
2013-08-20 22:31:07
堀辰雄は知りませんが、堀越二郎はたばこも酒ものまなかったと、小沢さとるの漫画にかいてあるそうです。
わたしもちょっとたばこの情景は多かったように思いますね。

菜穂子については、そういう見方も可能でしょうが、でも、なんだか淡白な解釈のような気がしてなりません。

>誰にでも分かるような作品を作ることに対して、宮崎監督は飽きつつあるのだと思います。

この点についてはまったく同感。
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