まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

郡家滝蔵さんのことなど・・。

2007年09月16日 | 歴史
 咸臨丸乗組員子孫の会の方からメールをいただいた。本当ならば、この三連休で牛島に渡って、郡家さんや高橋さんのお墓探しをするはずだったのだが、天候が悪いというので自宅待機となったのだが・・。

              


 いつもおせわになっております。
 先日、郡家滝蔵の御子孫2人 どちらも曾孫 とお会いして,楽しい時間をすごしました。

 8月末に連絡のあった、牛島出身の鉄砲方水主 郡家滝蔵の子孫、曾孫の郡家滝雄さん(57)と同じく曾孫の 入江紀之さん(65)と、大阪市内でお会いしました。お二人とも私と初対面と思わないくらい、打ち解けてお話しいただき楽しい時間を過ごしました。

 郡家滝蔵は、明治35年に、牛島で、亡くなっており、息子の庄太郎は、漁師をしていました。入江紀之さんは、牛島で 爺さんの庄太郎さんや,おばあさんに育てられたそうです。郡家さんたちのおじさんたちは、造船関係者が多く三井造船、大阪造船等に勤めていたそうです。郡家さんは、内装屋さん、入江さんは,機械製作をしている技術屋さんです。

 咸臨丸関係の資料は、10数年前に、郡家滝蔵の家を壊しており,そのときの関係者が,あまり意識をしていなかったので,何一つ無いそうです。

 50年前の調査の時点で、真木信夫が、咸臨丸と讃岐で郡家滝蔵の家のことを空き家と書いていますので,何らかの調査があったかも解りません。50年前に郡家滝蔵の祭祀をしていた,峠カズエさんの子孫に聴けば解るかも?(峠さんは、幕府の船に乗っていた水主の子孫です)

 

 お二人とも、塩飽に対する郷愁は強く、昔のすばらしい環境を懐かしがっていました。子孫の会の仲間に入っていただけます。 よろしくおねがいします。

 それと調査依頼ですが、稲田浦の伴幸吉さんですが、私の記憶が間違っていなければ、20年前まで大阪市大正区で鉄工所を営んでいた、伴さんのご先祖だと思われるのですが?

 は、稲田浦(広島で戦前梨を栽培していたところの人で、わたしの父方の大叔父 大熊鉄工の大熊繁太郎の嫁の里の人だと聞いております。本島甲生浦には,大熊姓が何軒もあり、私の母方の大熊(実次郎の家系とは、昔々ご先祖が一緒 だったとおもわれます)と,違いますが、十数年前から広島で生活されていると、大熊繁太郎の 娘から聞いた事があります。このつながりも面白いとおもっています。伴幸吉は、咸臨丸太平洋横断後、その秋に1860(万延元)年7月23日 広島出身の水主たちと鵬翔丸、下田の大浦沖で座礁沈没でなくなりになったかたです。 もし伴さんの消息が解ればありがたいです。

    咸臨丸子孫の会 幹事方   藤本増夫

              

 とのことです・・。昨夜もさぬき広島の自治会長さんと、今後のことや、その牛島の・・峠さんと打ち合わせをする段取りを話したばかりのことでした・・。

 さて・・来週は神戸に行く予定だし・・・、そうなると・・十月の秋祭りを兼用での牛島わたりになりましょうか・・。


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