むかしの元日は登校日になっていて、紅白歌合戦を聞いていて、眠たい思いの中、寒さをものともせずに登校したものだった。年代にもよるが、まだ、テレビのある家は少なく、ほとんどがラジオで歌合戦を聞いていて、「赤が勝ったんぞ」とか「白が負けたなぁ」と話をするのが挨拶のようになっていた。
小学校の講堂で年賀式が行われた。紋付羽織に袴姿の町の有志や、背広姿にきちんとネクタイを結んだ多くの人々が出席して、生徒たちとともに新しい年を寿ぐ。
だが、来賓の人たちの面白くもおかしくもない話を、窓の隙間から吹き込んでくる寒風や床下からの冷気が吹きあがって来る中で、ながながと聞かされるのには閉口した。
式の最後は全員声高らかに「元日の歌」を歌った。
♪ 年の初めの ためしとて
終わり無き世の めでたさを
松竹立てて 門ごとに
祝う今日こそ 楽しけれ ♪
文語体の歌を、ところどころ面白く替え唄にして遊ぶもので、それが思い出されて笑い声を噛み殺すのに苦労しながら歌った。
♪ 年の初めの ためしとて
終わり無き世の めでたさを
松竹ひっくり返して大騒ぎ
あとの始末を 誰がする ♪
あのころはオルガンの伴奏で、オルガンを弾く女の先生は引きずるような袴をはいていた。そして、式の帰りに紙袋に入った紅白のおまんじゅうとかお餅がもらえた。これをもらいに寒いのを我慢して登校したのかもしれない。

元日の朝は・・とにかく早く起こされた。そのころ、我が家には水道がなくて、台所の水がめから氷を割って顔を洗うか、近くを流れる小川の水で顔を洗ったし、歯を磨いた。そして・・家族全員が「飯台」という四角な座卓に座る。母がお雑煮をついでくれて、一同が整列すると、祖母が「おめでとう」と挨拶をするとみんなはお雑煮にお箸をつけられた。父はお神酒だかおとそだかとおちょこでお酒を飲んでいた。
その時に、祖母や母からお年玉をもらった。そして、兄弟三人はそろって登校準備をして学校に向かうのだった・・。

式から帰ってくると、あとはこどもの世界だった。「番屋こたつ」という丸い土でできた器に炭火を入れておわんのようなふたをしたこたつを入れた布団にもぐりこんで漫画本を読んだり、少年雑誌を読みふけったりしたものだった。とにかく、元日にはどこにも出かけてはいけないと言われて、こたつの中で遊ぶくらいなものだった。そのころにはテレビなどないし、ラジオも子供用の番組はほとんどなくて、自分で空き箱の中に入って、テレビごっこやラジオごっこをするのも楽しかった。
独楽回しや凧上げは冬の間ならばいつだってやったし、そんな遊びしかなかったから、特にお正月の遊びと言うものではなかった。少年雑誌の付録のすごろくや福笑いなんかは12月中にやってしまって飽きてしまっていた。雑誌はいつも情報が先取りされてやってきたものだった。
コマまわしはもっぱら男の子が幅をきかせていて、秋から冬にかけてはまずそれで遊べた。コマはあのころの私たちにとって、きわめて大切な持ち物だった。鉄の輪がはまったコマが多かった。それをヤスリやコンクリートで心棒を削り、ふらつかずにまわる座りの見事さなどを競い合った。心棒をあまり鋭く磨いているものだから、こけたりけんかをしたりすれば、その心棒が身体に刺さって痛かったりした。
それと「じゃんけん」というメンコだった。メンコの片隅に「グー・チョキ・パー」というマークがついていたから「じゃんけん」と言ったのかも知れない。それに「おいっこ」という「ビー玉」遊びも子供の必需品だった。
小学校の講堂で年賀式が行われた。紋付羽織に袴姿の町の有志や、背広姿にきちんとネクタイを結んだ多くの人々が出席して、生徒たちとともに新しい年を寿ぐ。
だが、来賓の人たちの面白くもおかしくもない話を、窓の隙間から吹き込んでくる寒風や床下からの冷気が吹きあがって来る中で、ながながと聞かされるのには閉口した。
式の最後は全員声高らかに「元日の歌」を歌った。
♪ 年の初めの ためしとて
終わり無き世の めでたさを
松竹立てて 門ごとに
祝う今日こそ 楽しけれ ♪
文語体の歌を、ところどころ面白く替え唄にして遊ぶもので、それが思い出されて笑い声を噛み殺すのに苦労しながら歌った。
♪ 年の初めの ためしとて
終わり無き世の めでたさを
松竹ひっくり返して大騒ぎ
あとの始末を 誰がする ♪
あのころはオルガンの伴奏で、オルガンを弾く女の先生は引きずるような袴をはいていた。そして、式の帰りに紙袋に入った紅白のおまんじゅうとかお餅がもらえた。これをもらいに寒いのを我慢して登校したのかもしれない。

元日の朝は・・とにかく早く起こされた。そのころ、我が家には水道がなくて、台所の水がめから氷を割って顔を洗うか、近くを流れる小川の水で顔を洗ったし、歯を磨いた。そして・・家族全員が「飯台」という四角な座卓に座る。母がお雑煮をついでくれて、一同が整列すると、祖母が「おめでとう」と挨拶をするとみんなはお雑煮にお箸をつけられた。父はお神酒だかおとそだかとおちょこでお酒を飲んでいた。
その時に、祖母や母からお年玉をもらった。そして、兄弟三人はそろって登校準備をして学校に向かうのだった・・。

式から帰ってくると、あとはこどもの世界だった。「番屋こたつ」という丸い土でできた器に炭火を入れておわんのようなふたをしたこたつを入れた布団にもぐりこんで漫画本を読んだり、少年雑誌を読みふけったりしたものだった。とにかく、元日にはどこにも出かけてはいけないと言われて、こたつの中で遊ぶくらいなものだった。そのころにはテレビなどないし、ラジオも子供用の番組はほとんどなくて、自分で空き箱の中に入って、テレビごっこやラジオごっこをするのも楽しかった。
独楽回しや凧上げは冬の間ならばいつだってやったし、そんな遊びしかなかったから、特にお正月の遊びと言うものではなかった。少年雑誌の付録のすごろくや福笑いなんかは12月中にやってしまって飽きてしまっていた。雑誌はいつも情報が先取りされてやってきたものだった。
コマまわしはもっぱら男の子が幅をきかせていて、秋から冬にかけてはまずそれで遊べた。コマはあのころの私たちにとって、きわめて大切な持ち物だった。鉄の輪がはまったコマが多かった。それをヤスリやコンクリートで心棒を削り、ふらつかずにまわる座りの見事さなどを競い合った。心棒をあまり鋭く磨いているものだから、こけたりけんかをしたりすれば、その心棒が身体に刺さって痛かったりした。
それと「じゃんけん」というメンコだった。メンコの片隅に「グー・チョキ・パー」というマークがついていたから「じゃんけん」と言ったのかも知れない。それに「おいっこ」という「ビー玉」遊びも子供の必需品だった。