霜の降りた冷たい朝になった。空気は冷たいが背筋がぴんと伸びるような気分のいい朝だった。愛犬ポチは霜がうれしいのか珍しいのか・・首筋をこすりつけてじゃれている。気持ちがいいのだろうか・・。水や雨は大嫌いなんだけれど。
しかしのかかし・・・最近は「霜柱」というものを見たことがない。そういう・・土が少なくなったせいもあるのかもしれない。道路のほとんどが舗装されてしまっているし・・。
先日の粉雪の日に「五体投地」をしていた(?)農夫人形が、ここ・・数日来の北風によって吹き飛ばされて、水路の中に転がっていた。
それも・・胴体と首と足と両手と・・バラバラに折れたり割れたりしていた・・。土人形だからね・・。それを・・丁寧に拾い上げて・・ボンドでくっつけてみた。土人形だけれど、木工用ボンドでなんとか接合できたようだ。
傷跡は残ったものの・・・ま、いいっか。
昨年のうちのお寺の報恩講の時に、ふらりとやってきたおじさんが、「小砂の説教所の顕彰碑を読もうとしたが字が読めないのでどうにかしてくれ・・」と言うてきた。私にはどうにもできないので、そのままにしてあったが、ふと、気になったので出かけてみた・・・。
小砂(こざれ)説教所は、今は・・「正真(しょうま)講本部」というのだそうだ。本部とはいうものの・・・事務員さんがいる訳ではないし、電話やファックスがある訳でもない。誰も居ない・・・ただの・・無住のお寺のようなイメージ。
鐘楼があって、庄松さんのお墓があって、この建物があるくらいなものか。
その・・お墓の横に・・「庄松同行(しょうまどうぎょう)顕彰碑」というものがある。
確かに字が小さいし、刻みが浅いので・・光の具合では読みにくいかもしれないが、読もうと思うと支障はないと思う・・・。少なくとも私にはすらすらと読めた。ここに墨を入れるとか、解説の掲示板を作る必要はないと思った。
庄松同行は寛政十一年、讃岐の国大川郡丹生村字土居 谷口清七の倅としてうぶ声をあげた。念仏信仰のめざめは勝覚寺の役僧周天によって導かれ、生涯をみ仏にまかせきった任運自適の安らぎの園に遊んでいた。主に縄ないや草履作りをしながらも、こと念仏信心に関しては一言居士の直言禅者の一喝にも似たものであった。禅風の香る往々奇行とも思われる言行動作によって多大の念仏教化の足跡を残し全国の同行から讃岐の庄松さんとして敬され、本山興正寺第二十七代門跡本寂上人からは一生兄貴と呼ぶことを許された程であった。明治四年三月四日七十三歳を一期に念仏ととも大往生を遂げた。
後に本寂上人より法名釈正真を贈られ、その信徳は庄松ありのままの記に収録され永く後世に伝えられている。 昭和四十六年三月四日建之 大内町小砂世話人一同
その後・・・どこでおうどんを食べようかとあちこちを走ったのだけれど、さぬき市志度でお寺が火災になったとかと大騒ぎしていたもので、ユーターンをして・・さぬき市鴨部(かべ)というところにある「門家:もんや」に寄ってみた。ここは一般店。
ここは・・我が家を建てた大工さんが若いころに建てたという建物で、何度も何度も来たお店だが、最近はとんと御無沙汰をしている。このお店も年季が入ったようで・・・どことなくくすんだような味わいになっている・・・(良く言えば・・)。早く言えば・・古めかしくなったきたなぁと思う。
で・・ここでも・・「しっぽくうどん」を注文した。
これで・・600円だ。さすがに一般店は高い・・・。麺は細くて上品な味。かたくなく・・・やわらか過ぎず・・・、まろやかでつややか・・。野菜も出汁もおいしい・・・。
ただ・・店長が・・麺を打つ場所でタバコをぷかぷか吸うのはどうかと思った。衛生上もよくないと思ったし、お水がほしいというと、水道の蛇口からコップに水を注ぐのもどうかなぁと思った・・・。
午後からは・・医療費控除の資料作りやら計算やらと・・・、こまごまとしたことをやっていて日が暮れた。
お西さんの・・本願寺さんは今日からが「報恩講」さんらしい・・・。さぞや大賑わいなんだろうなぁ・・。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。
しかしのかかし・・・最近は「霜柱」というものを見たことがない。そういう・・土が少なくなったせいもあるのかもしれない。道路のほとんどが舗装されてしまっているし・・。
先日の粉雪の日に「五体投地」をしていた(?)農夫人形が、ここ・・数日来の北風によって吹き飛ばされて、水路の中に転がっていた。
それも・・胴体と首と足と両手と・・バラバラに折れたり割れたりしていた・・。土人形だからね・・。それを・・丁寧に拾い上げて・・ボンドでくっつけてみた。土人形だけれど、木工用ボンドでなんとか接合できたようだ。
傷跡は残ったものの・・・ま、いいっか。
昨年のうちのお寺の報恩講の時に、ふらりとやってきたおじさんが、「小砂の説教所の顕彰碑を読もうとしたが字が読めないのでどうにかしてくれ・・」と言うてきた。私にはどうにもできないので、そのままにしてあったが、ふと、気になったので出かけてみた・・・。
小砂(こざれ)説教所は、今は・・「正真(しょうま)講本部」というのだそうだ。本部とはいうものの・・・事務員さんがいる訳ではないし、電話やファックスがある訳でもない。誰も居ない・・・ただの・・無住のお寺のようなイメージ。
鐘楼があって、庄松さんのお墓があって、この建物があるくらいなものか。
その・・お墓の横に・・「庄松同行(しょうまどうぎょう)顕彰碑」というものがある。
確かに字が小さいし、刻みが浅いので・・光の具合では読みにくいかもしれないが、読もうと思うと支障はないと思う・・・。少なくとも私にはすらすらと読めた。ここに墨を入れるとか、解説の掲示板を作る必要はないと思った。
庄松同行は寛政十一年、讃岐の国大川郡丹生村字土居 谷口清七の倅としてうぶ声をあげた。念仏信仰のめざめは勝覚寺の役僧周天によって導かれ、生涯をみ仏にまかせきった任運自適の安らぎの園に遊んでいた。主に縄ないや草履作りをしながらも、こと念仏信心に関しては一言居士の直言禅者の一喝にも似たものであった。禅風の香る往々奇行とも思われる言行動作によって多大の念仏教化の足跡を残し全国の同行から讃岐の庄松さんとして敬され、本山興正寺第二十七代門跡本寂上人からは一生兄貴と呼ぶことを許された程であった。明治四年三月四日七十三歳を一期に念仏ととも大往生を遂げた。
後に本寂上人より法名釈正真を贈られ、その信徳は庄松ありのままの記に収録され永く後世に伝えられている。 昭和四十六年三月四日建之 大内町小砂世話人一同
その後・・・どこでおうどんを食べようかとあちこちを走ったのだけれど、さぬき市志度でお寺が火災になったとかと大騒ぎしていたもので、ユーターンをして・・さぬき市鴨部(かべ)というところにある「門家:もんや」に寄ってみた。ここは一般店。
ここは・・我が家を建てた大工さんが若いころに建てたという建物で、何度も何度も来たお店だが、最近はとんと御無沙汰をしている。このお店も年季が入ったようで・・・どことなくくすんだような味わいになっている・・・(良く言えば・・)。早く言えば・・古めかしくなったきたなぁと思う。
で・・ここでも・・「しっぽくうどん」を注文した。
これで・・600円だ。さすがに一般店は高い・・・。麺は細くて上品な味。かたくなく・・・やわらか過ぎず・・・、まろやかでつややか・・。野菜も出汁もおいしい・・・。
ただ・・店長が・・麺を打つ場所でタバコをぷかぷか吸うのはどうかと思った。衛生上もよくないと思ったし、お水がほしいというと、水道の蛇口からコップに水を注ぐのもどうかなぁと思った・・・。
午後からは・・医療費控除の資料作りやら計算やらと・・・、こまごまとしたことをやっていて日が暮れた。
お西さんの・・本願寺さんは今日からが「報恩講」さんらしい・・・。さぞや大賑わいなんだろうなぁ・・。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。