まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

手探りで 明日という日を 待つサツキ

2018年05月16日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 東かがわ市地方地方は気圧の谷の影響ではじめ曇っていたが、夜には高気圧に覆われて晴れてきている。今日の気温は15.8度から25.3度、湿度は88%から70%、風は1mから3mの南東の風が少しばかり。明日の17日は、湿った空気の影響で概ね曇り、夜遅くには雨の降る所がある見込みらしい。

 

 今朝の空はこのようなどんよりとした感じ。中央に見えるお寺の屋根が、さぬき手袋の発祥の寺、浄土真宗本願寺派の教蓮寺さん。ここの境内に「積善商会」が置かれて手袋産業がスタートした。

 

 今日もお昼前に散歩をしてきた。病院内一周の20分ほどの散歩である。少しは身体を動かさないと歩けなくなったら大変だから。

 

 ボランティアなのか、お仕事なのか、病院の敷地内で草刈りをしているおじさんがいた。お世辞にもプロだとは思えなかった。足元の草をみただけで、なんじゃこりゃぁ・・と思ってしまった。で、草を刈り残したまんま、刈った草をそのまんまで姿を消してしまっていた。

 

 で、私が見ていたのはおじさんではなくて、草刈り機械の方。エンジン音がしなくてモーター音がする。あ、充電式草刈り機だなと眺めていた。機械は使いやすそうだが、切り刃が悪いのか、まるで切れていない。

 

 私が使うのには、どんなものにしようか。ペースメーカーにはガソリンエンジンの草刈り機は使えない。ま、体力がもどってから考えることにしよう。

 

 さて、今日はJアラートの訓練が行なわあれた様子。でも、何が何だかわからない訓練だった。

 

 散歩のあとの水分補給兼糖分補給。塩分は要注意だけれど、糖分は禁止とは言われていないし、水分をごくごく・・も禁止だけれど、なめる水分はいいんじゃなかろうか。禁止食べ物には指定されていない。

 

 大きな声では言えないけれど、小さな声では聞こえない。この県立病院に入院して、今日で「51日目」、明日が「52日目」ということになる。病院のドクターも大きな決断をして、(というか、うちの奥方が決断して、)金曜日の18日の退院となった。奥方がお休みだからである。

 

 ということで、これは「ペースメーカー外来」というものだが、外来というよりも「病室診療」みたいになっている。これで、私のペースメーカーの様子を確認したらしい。ま、どうせ、18日には、私は香川大学医学部附属病院で、この「ペースメーカー外来」を受診するのだけれど、ここの病院はここの病院で、香川医大は香川医大の流儀での診察になる。

 

 で、こういう手帳に、フォローアップのデータを記入してくれた。これから先、9年間は電池の動作も大丈夫みたい。でも、肝心の肺臓とか心臓が壊れたら、このペースメーカーも動かなくなってしまうらしい。9年間、生命の保証ではないらしい。

 

 ま、見てもよくわからない内容ばかり。今日からまたも、四人部屋が一人部屋になってしまった。

 

 今日の掲示板はこれ。「世の中には二つのタイプの人がいる 一つは何かに挑戦しようとする勇気をくれる人。もう一つは 何かに挑戦しようとする時に その勇気を削ぐ人。」というもの。皆さんの近くにもきっと居る筈・・・、そんな人。「やったらええがなぁ、君ならやれるやろ・・」と、勇気をくれて応援してくれる人。うれしいではないか・・・。でも、反対に、「やめ ときぃ・・。そんなアホすんのは損やでぇ・・・。やめとき・やめとき」などと、はなからやる気を止めてしまう人・・・。どれだけ、悔しい思いをしてきたこ とか。幸せや成功というのは、何かを手に入れるからなれるものではない。今、この瞬間にも「幸せだ」「成功している」と感じるものである。今よりももっと素晴らしい人生を手に入れるためには、今の場所にとどまっていてはダメである。今の状況をドンドンと変えていきたいものである。そして、自分の人生を生きていくために挑戦している人に勇気を与える人になりたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


石楠花を 摘んで浮き立つ 夫婦連れ

2018年05月15日 | 今日もしっかりとお勉強・・。

 さぬき市地方は、薄雲の広がっている所があったが、高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は14.0度から24.9度、湿度は94%から53%、風は1mから3mの東北東の風が少しばかり。明日の16日は高気圧に覆われて晴れるが、気圧の谷や湿った空気の影響で昼過ぎから曇ってくる見込みらしい。

 

 いい天気だなぁと思いつつ、今日は外出日。運転免許の更新日が近づいてきているので、高齢者講習を受けなければならないのに、そのハガキが行方不明。8時半集合だろうと、自動車学校に連絡すると、「あなたの場合は14時半からです」という。

 

 それでは・・・と、前山の「おへんろ交流サロン」に出かけてみた。役員さんたちが、年度総会の後始末をやっていた。議案集だの活動計画表などを参加しなかった方に郵送する準備をやっていた。

 

 私は頼まれていた、新入会員さんの名札を作って届けてきた。

 

 で、その後は論文集の印刷なんぞをやっておいた。

 

 で、今日のメイン・イベントの「高齢者講習」に行ってきた。よくは理解しとらんのだが、満70歳以上の人が、自動車の運転免許証を更新しようとすると、この、「高齢者講習」を受けないとあかんらしい。

 

 で、75歳未満と、75歳以上のランクがあって、私は75歳未満という講習。私のクラスは、みな、この75歳未満らしいが、私のようにまだ、70歳になっていない人と74歳の人とでは知識も技能も違うというもんだ。


http://www.pref.kagawa.jp/police/menkyo/tetsuzuki/koureisha.html

 

 

 で、諸注意とかの後、視力検査、視野検査、動体視力検査があって、

 

 運転実技検査があった。私はオートマ車の普通車に乗ったのだが、久しぶりに普通車に乗るとでかいものだ。それで、バックだ、s字カーブだ、スラロームだといわれると、少しばかり緊張したが、高所作業車だの穴掘り建柱車だのという、昔の大きな車に乗っていた勘がよみがえってきて、それなりに運転はできたと思う。

 

 オリンピックに向けて、英語の入った看板が追加された・・・らしい。

 

 それと、こういう、標識もできたらしい。ま、四国では当分、見ることもないのだろうけれど、神戸あたりにはできているらしい。いなかものは、出るに出られず、何周も回り続けるかもしれない。

 

 そういうことで、無事、終了証をいただいた。これを持って、免許センターに行けばいいらしい。私の誕生日は6月20日。その前後一か月が免許の更新日らしい。それまでには帰れるのかしらん・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生は曲がりながら折れながら だが まっすぐにひたすらに」というもの。鉄道の線路も高速道路も、トンネルも地下鉄も、進路は曲がりながら折れながら、それでも方向としてはまっすぐにひたすらに走り続けていくように、私たちの人生もまた、曲がりながら折れながら、だが、まっすぐにひたすらに走り続けてゆきたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


芍薬の 恵みあふれて 生きる夢

2018年05月14日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 東かがわ市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は16.2度から24.5度、湿度は92%から57%、風は2mから4mの西北西の風が少しばかり。明日の15日は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 このおうちのアジサイの花も咲いて終わった。今日は初夏の暑さになった模様。季節の移ろいはすばやいものだ。

 

 今日は月曜日ということで、シーツ替えが行われた。ノリの効いた真っ白いシーツは気持ちがいい。

 

 これで、病室内が明るくなったように見える。

 

 今日は久々にシャワーを浴びて、頭もからだもさっぱりとした。家だと当たり前のように風呂に入るのだが、ここだと、なぜか面倒で、二週間あまりもシャワーも浴びていなかった。

 

 さてだ・・・。病院側も、そろそろと私を追い出そうと準備を始めているし、私もいい加減にここを出たいと念じている。で、病院としても、いったん、退院させたら、すぐに舞い戻ってこられても困る。そこで、考えられたのが夜間用の酸素マスク。私は、こんなものは断固拒否した。睡眠時無呼吸症候群ではあるまいし・・・。

 

 そこで、ドクターが考え付いたのがこれ。「酸素濃縮装置」というもの。つまり、部屋中に充満している空気の中から酸素を取り出して使う装置である。これを使って、「在宅酸素療法=HOT」しようというものである。

 

 これで、酸素を供給して、呼吸を助けようとするもの。夜間に苦しくならないように、酸素を肺や心臓に強制的に供給するもの。私の場合、昼間は苦しくならないのだが、夜間に呼吸困難になることが多いかららしい。

 

 これで、しばらく様子を見て、効果があるようならば、これを我が家に運んでもらって、夜間だけ、この装置で生命を維持させよとするもの。もちろん、頓服だの、利尿剤だの、安定剤だのの薬剤も用意はしておくらしい。

 

 先の「HOT」は、この言葉の略字である。ま、私の場合は、夜間、寝るときだけの起動になるけれど。そういうことで、病院側もそろそろと退院準備をはじめてくれている。

 

 今日の掲示板はこれ。「本気でやれば何でも面白くなる! 夢はでっかく!根は深く!」というもの。「あいだみつを」さんの言葉でもあるようだが、定かなことはわからない。大分県の出身である「後藤 静香(ごとうせいこう)」さんは昭和44年に84歳で亡くなられた方だが、その教えは現代にも生きているようだ。

 本気
  本気ですれば、大抵なことは出来る
  本気ですれば、何でも面白い。
 本気でしていると、誰かが助けてくれる。
  人間を幸福にするために、本気で働いているものは、
   みんな幸福で、みんな偉い。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


生かされて 今日も雨なり 野のあざみ

2018年05月13日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 東かがわ市地方は前線や湿った空気の影響で夕方まで雨や雷雨となるっている。気温は16度から23.0度、湿度は70%から96%、風は1mから3mの北西の風が少しばかり。明日の14日は、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 天気予報通りに雨である。雨もまた大事、晴れもまた大事。

 

 さて、今朝も「コード・ブルー」の放送があった。「コードブルー、コードブルー。職員は2XX号室に集合!」という男性の声での放送。今日はあわただしく看護師やドクターが走り回っていた。レントゲン技師まで招集されていた。

 

 入院患者ならば、担当医師を呼べばいいじゃないか・・と、思うのだけれど、この「コード・ブルー」は、とにかく、病院にいる職員を招集する。というのも、何が起こったのか、起こっているのかがわからない状態だから「全員集合」なわけらしい。

 

 患者の原因がわからないとき、人手が欲しいときなどに多くの力と知恵を集めたい場合に招集されるのが、この、「コードブルー」らしい。

 

 この病院の場合、2XX・・・と放送すれば、「二棟のXX号室」、3XX・・・とアナウンスがあれば、「三棟のXX号室」とわかる仕組みらしい。

 

 さて、いつかも触れたのだけれど、この文字・・・「増悪」である。普通は、「ぞうお」と読んで、「激しい憎しみ」という意味になるのだが、病院では、これを、そうは読まない。これは、「ぞうあく」と読んで、「症状が悪化すること」を意味するのだそうだ。

 

 つまり・・・、心不全増悪を四回、四段階経過すれば、おしまい・・ということになるらしい。 

 

 危険がいっぱい・・・という感じ。

 

 これらで見ると、「塩分」「水分」「過労」「治療薬服用の不徹底」というのが危険分子みたい。アルコール、睡眠不足あたりにも要注意だな。

 

 今日、たまたま、テレビドラマの「コード・ブルー」を見たけれど、単なるドラマだなぁと眺めただけだった。ドクターヘリらしい切れの良さが欲しかったなぁと思った。

 

 今日の掲示板はこれ。「よいことばかり いつまでも続かない 悪いことばかりもいつまでも続かない」というもの。町内の善楽寺さんの掲示板にあったもの。美輪明宏さんの「正負の法則」によると・・・「幸福ばかりの足し算の生活をしていると、やがて地球上の法則で恐ろしい引き算がどっと押し寄せてくる」し、 健康法の本とか願望実現の指南本を書く著者は、病気(特に癌)で早死にしたり、素敵な恋人を得る本や幸せな結婚の秘訣本を書く人は、夫が家を出たり、険悪 になり離婚するという法則」かららしい。丹波哲郎さんとの対談によると・・・人生は、正負の法則で成り立っている。世の中、良いことと悪いことは相対して 起こる・・というのだが、ま、いろんな考えがあるものだ。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


花群れて まだ病室に 独り居る

2018年05月12日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 東かがわ市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は11.9度から21.5度、湿度は82%から59%、風は2mから3mの南東の風が少しばかり。明日の13日は、前線や湿った空気の影響で曇り、昼過ぎから雨で雷を伴う所がある見込みらしい。

 

 香川、東讃地方は、昔から土地が狭まいうえに水利は悪く、水稲耕作には恵まれた土地とはいえない状況下にあった。そこで、住民は農業だけに頼ることができなくなり、 天正年間(約400年前)に製塩業が起こり、寛政年間(約200年前)には、製糖業が起こった。いずれも讃岐三白の一つとして隆昌し、地域の生活を繁栄させたが、 明治に入り、外国産製品の輸入や技術の立ち遅れで衰退してしまった。加えて、白鳥神社に与えられていた朱印地という特権もなくなり、門前町としての賑わいと繁栄が姿を消すこととなった。

 

 このような環境下に、手袋産業にとっての大恩人、 両児舜礼と棚次辰吉の両名によってもたらされた手袋製造の仕事は、地域にとって恵みの雨となり、しっかりと根づくこととなった。 

 

 明治19年、白鳥村にある千光寺副住職両児舜礼は、寺の近くに住む明石タケノに恋をし、大阪へと駆け落ちした。

 

 生活費を稼ぐため舜礼は托鉢にまわり、タケノは隣家でやっていたメリヤス製品の賃縫いをはじめた。しばらくして、舜礼はこのメリヤス製品に着目し、托鉢をやめてメリヤス手袋の製造に専念することになるが、この年、明治21年が東かがわ手袋の誕生の年となった。

 

 当時の手袋はてぐつ(手靴)といわれた指無し手袋で、一つ一つ型紙にあわせて鋏で摘み、手廻しミシンで縫うといった、まったくの手仕事で量産は困難だったが、 船場商人を通じてよく売れ、舜礼はメリヤス手袋製造業の将来は明るいと見て、家業とし拡大する決心をした。

 

 明治24年1月、父の仏事に帰郷した際に舜礼は、 従兄弟の棚次辰吉(当時18歳)とタケノの親類筋の寺井カネ(当時18歳)と六車ルイ(当時19歳)を雇入れて連れ帰り、家業を拡大本格経営に移った。 しかし舜礼はその年の6月脳涙結昌病というめずらしい病気で39歳の短い生涯を閉じることになってしまった。

 

 舜礼の急死後、従兄弟の棚次辰吉が、未亡人明石タケノを助けて遺業を継ぐこととなった。その後、実質的後継者として手袋製造業の経営をはじめた棚次辰吉だったが、干し大根でつくる「ハリハリ」だけがおかずの日々という苦闘の末、大阪における手袋産業の地位を築きあげることに成功する。

 

 明治32年、棚次辰吉は故郷に錦を飾り、当時、衰退期にあった製塩業に従事する塩業民救済のため、松原村の教蓮寺住職楠正雄、村長橋本安兵衛の協力を得て教蓮寺境内に手袋製造所「積善商会(シャクゼンショウカイ)」を開設する。ここに初めて香川・東讃地区での手袋製造が始まることとなった。

 

 手袋製造業の種をまき、育てあげることに情熱を注いだ棚次辰吉は、その後[軽便飾縫機]など新しいミシンを発明し、世界特許をとるなど、視野を広く世界に開き、欧米諸国を視察して先進技術の研究導入にも力を注いだ。ミシン以外にも セーム加工機、手の大きさ測定器など24種類にわたる特許権を取得するなど経営者としては勿論、技術者としても業界発展のために貢献し大きな足跡を残した。

 

  種をまかれた手袋製造業は、その後も副業として着実に地域に定着するが、産業としての基盤を確立するキッカケは、大正3年に勃発した第一次世界大戦特需であった。

 当時、世界の手袋はドイツが生産の中心国であり、素材の生産、供給と完成した手袋の販売機能を担っていたのがイギリスということで、その両国が交戦国になったため、日本へ戦争特需として大量の注文が入った。この特需に応えるため、最盛期1000人を超える社員が働き、大規模な生産能力を備えた大阪手袋(株)、東洋手袋(株)の2社が受け皿になって対応、家内工業からの脱皮の一つのキッカケとなった。

 

 この本堂のすぐ横に、「手袋の始祖」とも仰がれている「両児舜礼」という人のお墓がある。元はこの地の塩田で働く農家の息子が岡山の両児山金剛寺に入って修行した。ここで、「舜礼」という名を頂戴して「両児舜礼(ふたご・しゅんれい)」という名になった。本名は、「棚次米吉」であった。31歳の時、この千光寺の副住職として戻ったが、土地のタケノという女性と駆け落ちし、大阪で苦労した。その時、メリヤスと手袋を知り、手袋の基礎を築いたが38歳で病死した。その手袋の芽は、タケノ未亡人といとこの棚次辰吉によって大きく成長し、東かがわ市の基幹産業にまで発展した。

 

 今日の掲示板はこれ。「病気を治すのがお念仏の御利益ではない どんな病気をもむだにしない心がお念仏の御利益である」という太田祖電のことばから。お念仏とは「おまじない」や「呪文」ではない。お念仏を称えても病気を治したりお金持ちになったりはしない。どんな病気になっても、生かされているこの私の生き方を、無駄にしないことこそがお念仏のありがたいこころなのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


あやめ切る ハサミの音の 軽い朝

2018年05月11日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 東かがわ市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は9.4度から20.2度、湿度は88%から54%、風は1mから3mの東北の風が少しばかり。明日の12日は、引き続き、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 朝の5時過ぎだっただろうか。院内放送で「コード・ブルー」が宣告された。「スタットコール! コード・ブルー! コード・ブルー! 担当者は全員何何号室へ集合!」みたいな男性の声で放送があって飛び起きた。けれども、廊下や病室には何の動きも声もない・・・。あれは、夢だったのか、訓練だったのか・・・。

 

 スタットコールは、病院内で起こる緊急事態を知らせるもので、緊急招集を行う総称である。 多くの場合は、患者さんの急変や蘇生処置等で緊急に人手が必要な場合に使われ、手の空いている医師、看護師等は診療科や担当に関わらず、その現場に向かうという事になっている。

 

 ちなみに、コード・ブルーは、患者さんの容体が急変した際の緊急コール。スタットコールの中でも最も一般的に使用されているものらしい。参考までに、「コード・レッド」は火災、「コード・グリーン」はテロ、「コード・ゴールド」は、臓器移植対象となる脳死患者の発生を知らせる緊急コール。「コード・ホワイト」は、病院内で不審者等が暴れたり、暴言を発する等のトラブル発生を知らせる緊急コール。主に警備員やガードマンを呼ぶ目的で、屈強な職員が招集されることになる。まぁ、必要かどうかだが、「コード・イエロー」は、患者様や患者様の家族の横暴(モンスターペイシェイト)等のトラブルを知らせる場合もあるようらしい。

 

 何か月も更新のなかった、このブログが更新されだしたわけは、この小さな機械のよっている。この装置を島の家の端末に接続したまんまになっていたのを、先日のお大師まいりの帰りに持って帰ったからである。

 

 この装置を、USB端子にさせば、インターネット回線に接続できるもの。これで、退屈な病院生活も暇がないほどに忙しくなっている。

 

 さて、何の苦労もなく自由に過ごしてきたけれど、「部屋代」の請求書が来た。一か月の「家賃」がこれだけだ。三食昼寝付きの美女看護付きだからお安いものだ。香川医大の請求金額もこれくらいだったように記憶している。取り立てての手術とか特別な薬をお願いしなければの話である。

 

 この右側の先生は朝食を食べ終わるとすぐさまに帰ってしまった。奥側のおじさんは、昨日のお昼に帰って行った。今夜からはまたも一人部屋だ。昨日だけでも数人の方が退院していった。残る私はいつになるやら・・・。

 

 お昼前に奥方が郵便物を届けてくれた。メインは、入院費用を銀行から出してきてくれたこと。そのほかに、車の税金が三台で36,000円、島の浄化槽点検費用が5,000円、それに、病院代が93,000だった。ま、想定内の出費にはなった。

 

 民生委員のお仕事がどっさりと。来週あたりにも外出か外泊をいただかねば片付きそうにもない。

 

 奥方が出金した通帳で、我が家の会計処理もここでやる。「まほろば工房・しろとり事務所」みたいなものだ。入院費用なんぞは保険金や市の高額医療費なんたらで帳尻合わせ。儲けにはなっていない。

 

 そうそう、今日は私の今後のことでの「カンファレンス」が開かれたらしい。この病院に入院して45日を過ぎた。そろそろ、私の処分を決めなければならない様子。この看護師さんが「チョンマゲ・ちょんちゃん」。前にも出てきたはず。

 

 こちらが、「私も出演させて~」と、出演依頼のあった、「あまがえる・はっしぃ」。

 

 はてさて、私の処遇はどうなったんじゃろうか・・・。ま、今日、明日の退院にならないことは明白である。

 

 私の担当看護師の「ショーボブ・はちねぇ」からの連絡がまだない。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生この先 何が起こるか分かりません。だからこそ1日1日を大切に、感謝の心で生きたいです」という西端春枝さんの言葉から。西端春枝(にしばた-/1922年-/女性)は、ニチイの創業者の一人として知られる元実業家、大谷派浄信寺副住職。 戦後、夫婦で行商などを行い、大阪で衣料品店「セルフハトヤ」を開店。その後、衣料品店「赤のれん」、卸問屋「エルピス」、「ヤマト小林商店」の4社が合併し株式会社ニチイ(後のマイカル)を設立。社長には夫の西端行雄が就任し、自身は人事部長や研修部長などを務めた。大谷派浄信寺副住職として講話活動なども行っているほか、大谷学園理事、商業界全国女性同友会名誉会長、商業界近畿女性同友会会長、日韓女性親善協会関西支部会長、雑巾を縫う会会長、自立人間をめざす会大阪名誉会長などを歴任。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp+致知)

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


芍薬を 切ったはさみが 濡れている

2018年05月10日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 東かがわ市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は10度から19度、湿度は76%から50%、風は1mから3mの北西の風が少しばかり。明日の11日は、引き続き、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 これは白鳥病院のHPで見つけた昔の「しろとり病院」らしいが、ドクターによれば、当時は結核病院として設立されたとか。下側に国鉄の高徳線、その上に国道11号線が走っているから昭和初期のものかも知れない。関連の資料がないのでなんとも言えないのだが。私は、左上から右中央に流れる道路が旧国道で、ここをバスに乗って引田(ひけた)の町に向かったものだった。

 

 これが現在の写真で、下に見える道路が「旧国道」で、その上に、何段かの段丘が残っている。多分、その時のものと思われる段丘である。

 

 この部分であろう。今は山頂部は削り取られて姿は一変している。

 

 現在の航空写真である。うまく角度が合わせられなかった。なにせ、病院のベッド上でのお遊びである。

 

 私は、子供のころから、近くにあった「大川病院:現さぬき市民病院」に通い、成人してからは高松の日赤病院とか、わが社のNTT高松病院でお世話になったから、この病院のことは何も知らない。平成20年の冬、心不全で緊急搬送されたのがここだったもので、以来、ここでお世話になってきたが、そのころは、このような建物だった。

 

 ま、古い写真つながりということでこれ。女学校のようだが女学校ではない。昭和初期にのものと思われる写真だが、「手袋工場」の写真らしい。この町、東かがわ市の白鳥(しろとり)という町は古くから手袋産業の町として栄えてきた。

 

 明治時代の中ごろになると製糖業や製塩業が衰退し、それに従事していた人々は産業の衰退とともに、生活も苦しくなってきた。それとともに、歴代の高松藩主の手厚い保護と人々の信仰に支えられ朱印地として栄えた白鳥神社の門前町も、明治時代になると高松藩の保護がなくなるとともに特権もなくなり、その賑わいも失われつつあった。

 

 この現状を憂い、救済策を考えていた教蓮寺(東かがわ市松原)の住職楠正雄は、大阪で手袋製造を行なっていた棚次辰吉に相談し、教蓮寺境内で手袋製造を行なうことを決めた。明治32年(1899)に、技術の伝授や原材料の調達などは棚次辰吉が行い、資金は松原村村長であり塩田地主であった橋本安兵衛の出資により、積善商会(しゃくぜんしょうかい)が設立された。これが東讃地方における最初の手袋工場となったという。

 

 そのはじまりは、1888年、東かがわに住んでいた住職・両児舜礼(ふたごしゅんれい)と一人の女性との駆け落ちだった。現代のように当人同士の意思で結婚ができる時代ではなかった当時、2人は大阪へと移り住み、そこで生計を立てるために始めたのが手袋製造だったのである。

 

 その2人の事業を助け、拡大していくために、従兄弟の棚次辰吉らが経営に加わり、1892年、両児舜礼の病死後も、棚次辰吉がその意志を継いで事業を続けていくことになるのだった。

 

 東かがわ市の手袋づくりは、明治21年(1888)に両児舜礼がメリヤス手袋を製造したことを始まりとしている。その後、棚次辰吉が最初の手袋会社「積善商会」を設立し、本格的に経営がなされた。大正3年(1914)に勃発した第1次世界大戦特需で、香川県松原村(東かがわ市松原)出身者を社長とする大阪手袋株式会社と東洋手袋株式会社が相次いで設立され、産業としての基盤が確立した。次第に手袋産業が東讃地方の主要産業として発展してきたが、太平洋戦争中の戦時体制によって繊維統制が敷かれ、多くの企業が整理統合され、その発展が阻まれこともあった。しかし終戦後、昭和20~30年代には高度経済成長の波に乗り、ついに世界一の産地であったアメリカ合衆国を抜き、当地が世界一の手袋の産地となったのである。

 

 昭和63年(1988)には手袋産業100年を記念するハンドピア‘88手袋百年祭が行われ、更なる100年へのスタートを切っている。その後、いわゆるバブル景気の崩壊による長期不況や気象温暖化に対処する新技術・新商品の開発に努め、一方ではグローバル化に対応した海外生産体制の確立を図り、新しい地場産業としての環境整備がなされてきた。こうした努力により当市の手袋産業は、全国的なシェアを維持し続けている。これは多くの先人たちの努力や苦労の賜物といえるだろう。

 

 今日の掲示板はこれ。「他人がやると大悪党にみえるが、自分がやった時は必ずやむをえぬ事情がある」というもの。出拠・原典は不詳だが、「あの人、あんなことをやってる・・・。悪いヤツやなぁ・・」と思うことは多々あること。マイカーの灰皿をコンビニの灰皿に捨てて平然としている人とか、よさまのお墓を靴のまま、踏みつけたり蹴飛ばしたりして、さも、あたりまえのような顔をしている人とか・・・。でも、それが自分だったら、「これはこうだから、こうしたんだ・・」と、確かにやむを得ぬ事情らしきものを並べ立てる筈。自分さまが社会を汚し、世間を暗くしていることなどには気づきもしていないものだ。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


風受けて 開いたばかりの かきつばた

2018年05月09日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 東かがわ市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は13.7度から18度、湿度は89%から56%、風は2mから4mの北西の風が少しばかり。明日の10日は、引き続き高気圧に覆われて晴れるが寒気の影響で朝までは曇る見込みなのだとか。

 

 朝方は小雨が降っていたが、やがてにはすっきりと晴れてきた。今日もまた、ベッドで寝るにはもったいない日になった。

 

 朝方、頼まれていた、観光ガイドチームの新入会員さんの名札を作っていた。私はこうした雑用係である。ま、お役目があるというのはありがたいことだ。会に所属していても、何の用もなければ仕事もないというのはつまらんことだ。

 

 私のベッドは廊下側にあるので、廊下での会話はよく聞こえる。今日は、リハビリの先生が患者さんと話しているのを聞くとはなしに聞いていた。

 患者さん「あれ、あの葉っぱ、色が変わりよるなぁ~。枯れよるんかなぁ・・」

 コーチK「ほんまやなぁ。いろいろあるけんなぁ・・・」と、些細な話。

 昔、母が「若芽生え」とか「若芽立ち」とかと言っていたようなので調べてみたが該当するようなものはなかった。

 

 「そういう園芸品種で、成長すれば普通の葉っぱになる」とか、「そういう種類だ」とかで片付ける人が多い。しかしのかかし、いつだったか、NHKの子ども科学電話相談で聞いた話だが・・・。

 

 若い葉に含まれている赤色はアントシアニンとよばれる色素で、葉の細胞の中では主に液胞とよばれるところにある。それではなぜ、若い葉がアントシアニンをたくさんもっていて赤色に見えるのだろうか?若い葉は赤く見えるが、若い葉は光合成を進行させるための葉緑体を作り上げている段階で、まだ、太陽光の強い光、太陽光に含まれている紫外線による害作用を防ぐことはできない。ヒトが海水浴に行けば太陽光によって皮膚が日焼けでヒリヒリするが、葉も同じように可視光、紫外線によって生ずる活性酸素による害作用を受ける。若い葉はこれらの光による害作用を充分に防ぐことができないため、アントシアニンによって太陽光を遮り、葉緑体が害作用を受けないようにしていると考えられのだ(ヒトの皮膚の日焼けを防ぐための“日焼け止めクリーム”のような役割)。しかし、葉が成長して、葉緑体に太陽光の害作用を防ぐ機能が充分に発達すると、アントシアニンによって太陽光を遮る必要がなくなるためにアントシアニンはなくなり、葉が緑に見えるようになるのだそうだ。

 

 それと、まだまだ若い芽だから、「これはまだ食べてはいけませんよ」という、赤い危険サインでもあって、わずかながら毒素もあるらしい。植物というのもよく考えられているらしい。

 

 さて、五月も中盤に入って、来週には、運転免許証の「高齢者講習」を受講することになっている。それで、はたと思い出したことがある。

 

 最近、暇つぶしにパソコンばかりを叩いているせいか、キーボードや画面が見にくくなった。近い場所が見えにくくなってきたのである。そこで、眼科を訪ねてみた。すると、担当看護師さん経由で、担当医師の紹介をもらってくださいという。ダメもとで担当看護師にの「ショーボブ・やっち」さんにお願いしたら、いとも簡単に許可が出た。

 

 女性の髪形はよくわからんが、「おかっぱ」かと聞いたら、「ショートボブカット」だという。それは少しばかり長いので、「ショーボブ」と短くしたが、本人はよくわかっていないような感じ・・・。

 

 で、一連の目の検査をしてもらったし、瞳孔を開かせるという目薬を使うので、これまではやらなかった「眼底検査」もやってもらった。ここに入院しているのだから安全だ。

 

 これも参考画像だが、こういう写真で、眼底出血の痕跡はあるが支障なし。運転免許には支障がないとお墨付きをもらった。わざわざだと大変だが、ここにいる間に診てもらって得した気分。

 

 今日の掲示板はこれ。同じ町内にある善楽寺さんのお寺の掲示板にあったもの。俳句でなし、川柳でなし、短歌でもないし・・・と、調べてみたら・・・。真宗佛光寺派の本山『佛光寺』が毎月出している標語を集めたもの。全て八行。 幾つか分類されているが基本的には自分だけで生きているのではなく、生かされていることが謳われている。心を打つ、人生の糧になるような標語はなかったが、もう一度ページを捲って今の私の目に止まったのは「風薫る 五月 泳ぐ 鯉のぼり 泳ぐ ときは 向かい風」前に進む時は必ず抵抗があるものである。そう思えば抵抗のおかげで進むことができる。

 

 水の中を泳ぐ鯉は池などでゆったりと泳ぐ姿が印象的だが、空を泳ぐ鯉のぼりはいつも向かい風の中にあってその風を呑み込み、さらにその風が強ければ強いほど力強く泳ぐことができるのだ。なんともたくましい姿ではないか。強い向かい風に呑まれることなく、逆にそれを呑み込んで、さらに先へと進んでいくことができたらどんなにいいだろうと、鯉のぼりを見ていてそんなことを思ったことである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


若葉冷え 知って安堵の 咳をする

2018年05月08日 | またまた・・やっちゃった・・。

 東かがわ市地方の8日は、南海上の低気圧や前線の影響で、雨が降っていた。気温は16度から18度、湿度は77%から92%、風は1mから2mの北東の風が少しばかり。明日の9日は、気圧の谷や前線の影響で未明まで雨が降るが、高気圧に覆われてくるため昼頃から次第に晴れるらしい。

 

 最近、痴呆症が進んでいるのではないのだろうが、物忘れが多くなった。昨日は全く、気にしていなかったのだが、昨夜になって預金通帳が見えないことに気が付いた。

 

 ものがなくなったとか見えなくなった・・・と気が付いた時点から、急に不安になって大慌てで探すことってあると思うのだ。なければないでもいいのだけれど、「ない」と思うだけで不安になってしまう。

 

 さらに、免許証とかキャッシュカードとかもろもろの証明書とかカード類もない・・・。病室を探しても探す場所はわずかしかない。内緒で停めてある車の中を調べても目的物はない。

 

 これは、先日の島の家のどこかに置き忘れたほかはない・・・。今日は前山出勤の日だが、それどころではない。一応、おへんろ交流サロンに顔出しをして、頼まれていた名札の名簿を預かって、一目散に丸亀港を目指して走った。

 

 8時半に病院を出て、9時過ぎに前山に着いて、折り返して1時間半の工程を走って、丸亀港には10時半。11時10分の高速艇に乗る。まぁ、余裕の工程である。

 

 病院を出て、途中で荷物を開けることはない。島の家までは一直線。ここでしかリュックザックは開かない。ところが室内を見回しても、それらしきものはない。

 

 あれこれと探していると、この座布団の下に私の帽子と白い袋が見える。これだこれだ、これだ・・・。

 

 私の手提げ袋である。この中には貴重品があれこれと・・・。

 

 私の当面の全財産の入った預金通帳も発見。おもわず、やれやれ・・・。あの日はたくさんの人に出会ったし、たくさんの人ともすれ違ったし。でも、座布団の下に隠れていたなら大丈夫。

 

 12時50分発のフェリーボート、しわく丸に乗って帰還。やれやれ・・という気分で東かがわ市の県立病院まで向かう。

 

 丸亀港には13時半。そこから2時間だから15時半には病院到着。

 

 途中、おなじみの銀行に立ち寄って通帳記載。今夜は安心して眠れるだろうか。

 

 今日の掲示板はこれ。「眠れない夜をなげく者は多いが 目覚めた朝に感謝する者は少ない」という、町内の善楽寺さんところの掲示板のことばから。毎日、多くのいのちが理由もなく、傷つけられ、奪われ、失われていくことを、新聞やテレビを通して、私たちは知っている。しかし、その苦しみ・悲しみに、 どれだけ自らに肉迫するほどのリアリティーを感じ、こころを震わせているだろうか。薄情なようだが、少なくとも、私はそんなこころは持ち合わせてはいない。私にあるのは「無関心」であって、それはどこまでいっても自らの「痛み」とはならない。そこに立ちはだかり、自他を隔てる、三人称・二人称・一人称という見えない壁を 感じずにはいられない。朝がまたやって来た。この朝を迎えた人間には、今日という一日を、精一杯生き抜く責任があるように思う。そうでなければ、この星のどこかで、朝を迎えることができなった人に対して申し訳ないではないか。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


雨となり ものも言わずに 山わかば

2018年05月07日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 東かがわ市地方は、低気圧や前線の影響で夜のはじめ頃まで雨が降り、夕方は雷を伴う所があるらしい。7日夕方まで急な強い雨や落雷に、7日夜のはじめ頃まで濃霧による視程障害に注意するようにとのこと。気温は16度から21.4度、湿度は86%から98%、風は1mから2mの東北の風が少しばかり。明日の8日は、南海上にある前線の影響で曇り、夕方まで雨の降る所がある見込みなのだとか。

 

 ここにいる限り、雨だろうが雪だろうが台風だろうが、何も心配することはない。大事なお仕事は終わったし、当面は大きなお仕事もないし・・・。その間を縫って、論文集を何部か印刷製本して、香川医大附属病院の看護師さんに送っておきたいのだけれど。

 

 さて、私の周辺ではああだこうだと言われているのだけれど、まだ、確定的な情報はない。担当ドクターは、胸水を抜きたいと思っているらしいが、執刀する外科部長は慎重な態度。私も、抜いてむ抜いても同じなのだから、確たる原因というかどうにもならぬまで放置しておきたい気分。

 

 今は胸水も、体重も、気分的にも安定している時期。胸水も増える傾向にはないので、このまま要観察処分ということでいかがだろうか・・・とお願いはしてある。

 

 こちらが、環(たまき)外科部長。外科手術はこの先生の担当になる。

 

 一方、こちらが、私の主治医で、私が命をお預けしている「日浦内科部長」。この方は胸水を抜きたい方針らしい。まぁ、どちらがどちらになっても、私はかまわない。すでに、ここにいる身だから「まな板の上の鯉」の気分。

 

 私の症状「心不全増悪(しんふぜん・ぞうあく)」の原因である。感染症・心筋虚血・コントロール不良の高血圧・合併症疾患以外は、それぞれに思い当たることばかり。私のほうにも責任があるのかもしれない。

 

 今はまだ、Ⅱ度状態。安全ではないが危険までもは到達していない。このままで、なんとかならないのだろうか。

 

 昔聞いた、不確かな話だが、おなかの水は抜くと増えてくるし、体力がなくなる・・・というようなことが、ついつい、頭の中を駆け抜ける。迷信かもしれないし、間違った話だったのかもしれないし。

 

 雨はだんだんと強くなってきている。明日のことは明日に心配すればいいか。

 

 今日の掲示板はこれ。「つまづいてころんで 腹をたてる人 悟る人」という荒了寛さんの言葉から。最近はクレーマーという人が多くなった。何にでもクレームをつけたがる人のこと。洋服から靴から食品から化粧品から・・・なんでもかんでもにクレームをつけて謝罪させて満足したり、金品を受け取ったりする。それで企業が倒産したり廃業に追い込まれることもある。が、一方では、そのクレームをただしく受け止めて新製品を作ったり対応のすばやさで評価されることもある。一つのことでも、どう、受け止めるかで、正反対の結果になることはしばしばあることだ。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


紫蘭咲く 庭の手入れや 猫の声

2018年05月06日 | 観光ガイド的日常

 丸亀市は朝方は晴れていたが、昼前からは曇り小雨になり、夕方には弱雨になってきた。気温は13.2度から22.5度、湿度は48%から90%、風は1mから2mの西南西の風が少しばかり。明日の7日は、前線や低気圧の影響で夕方にかけて雨が降り、雷を伴う所がある見込みなのだとか。

 

 心配した島の夜も無事に朝を迎えて6時過ぎに起きてみたら、弟たちは早くも朝食を食べている。三男得意のハムエッグだが、私のは無塩だから素材そのものの味を楽しむしかない。昨夜も骨のない、塩気のない食事ばかりを用意してくれた。

 

 で、食事が終わると早速に弟たちは草刈りだ、刈った草の処分だとか。自分ちの庭掃除はしないくせにここでは実に働き者だ。私も燃えるゴミやら生ごみやら空き缶。空き瓶などの処分やっておく。

 

 で、そのついでに札所の下見をしていたらば・・・。

 

 足が痛くて歩けないから、もう、帰ると・・、この男の子が泣き出したところに遭遇。少しだけなら乗せてあげると言ったんだけれど、この男の子が元気になってはしゃぐものだから、おじいちゃんやおばあちゃんらも喜んで・・・、結局の薬局で、その家族を連れて島を一周・・。

 

 おかげで、本チャンのうちのメンバーの半分は間に合わず・・・。

 

 うちのメンバーの早い組を乗せて回ったのだけれど、このメンバーはご丁寧に般若心経を札所ごとにあげるものだから時間がかかってしまい、足の悪い組はとうとう、数か所しかお参りできずにタイムアップ。

 

 こうした札所というか、お接待の出たところは20か所ほどだったが、早いところは10時半にはおせったいの品物がなくなって片付けてしまったところもあった。連休の最後の日曜日ともあって、早くからお参りが続いて、予想外の閉店みたいなことに。

 

 ま、香川県東部からJRに乗って丸亀港へ。そこから広島へ船で渡れば、10時過ぎ。少しばかり行程に無理があったなぁと反省その①.

 

 弟二人がいたのだから、軽四が二台もあったのだから、手分けすればよかったかなぁと反省その②.

 

 来年は、希望者を我が家で前泊する案を考えてみてはいかがかなぁと、反省その③.

 

 せっかく、いただいたお接待の品々だが、これを持って病院へ戻れないので、みんなに分配してしまったが、奥方が少しは私にも残しておいて欲しかったと叱られた。これも反省その④かな。

 

 今日の掲示板はこれ。「何もかもは出来なくても 何かひとつはきっと出来る。」というもの。(岡本肇/新日本カレンダー) より。「やりたいことはたくさんあるんだけど・・・」。だけど、行動できない人がいる。話を聞いてみると、時間がないとか、経験がないとか、能力が足りないとか、出来ない理由が次々とでて来るもの。でももう少し詳しく話を聞いてみると、一度に大きなことをやろうとしているのだとわかってくる。普段まったく運動していない人が、「マラソンに興味があってやってみたいけど、とても出来そうにない」と言うのである。そりゃ、いきなりフルマラソンとかは無理というもの。でも何もしなければいつまでたっても出来ないままだ。まずは、今すぐにできる何か小さなことを見つけることが大事。夢や目標に近づくために、今日できるほんの小さなことだ。それを積み重ねていきことにしよう。毎日やることはたくさんあるだろうが、ほんの小さなひとつのことなら出来るはず。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


こいのぼり 風に任せた 身だから

2018年05月05日 | 自然ありのままに

 香川県の5日は、高気圧に覆われて晴れていた。東かがわ市から丸亀市までやってきたが、おおむね晴れていたように思う。明日の6日は、気圧の谷や前線の影響で次第に雲が広がり、夜遅くには雨が降る見込みなのだとか。

 

 今朝は朝の四時半に目覚め、5時過ぎには出かける用意をして、5時半には病室を出た。久々の「外泊許可」がおりたのだ。短いお休みを堪能しなくてはと早めに病院を出た。

 

 ところが、予約してあるフェリーボートは9時25分発。なんがなんでも早すぎた。朝の7時過ぎには高松空港近く。そんなに早くては弟の準備ができないだろうからと、満濃池やらまんのう町経由で高松空港までえ逆戻りして時間かせぎ。8時過ぎに弟を乗せて9時前に丸亀港へ。

 

 連休のせいか、家族連れが多く乗り込んでいたが、ふと見ると、二男の「よっくん」も車で島に帰るらしい。今の時期は田植えのはずが、早めに切り上げて島に向かうらしい。兄弟三人が島でそろうことなんて久しぶりだ。

 

 久々に車も人も満載してしわく丸は定刻に丸亀港を出た。

 

 島の家はこの通り・・。そんなに多くはないが草まみれ。早速に三男の「たっくん」が草刈りを開始。二男の「よっくん」は、掃除機を組み立て、室内の掃除から、テレビの設置、洗面所のドアノブの交換なんぞ。

 

 私は島のプロパンガス屋さんに行って、ガスの注文をするが、店長は不在。それでは困るというと、親戚の方が、「うちの予備タンクを貸してあげる」というのを、それを買い上げることで決着。ボンベを運んできて接続してくた。島の人の親切に感謝感激、雨あられ・・・。

 

 ということで、10時過ぎからの午前中で、予定の作業は終了した。草刈りも、テレビの設置もガスボンベ交換も・・・。あとはゆっくりと昼食タイム。

 

 私が病人だから(そういうときだけ、病人とは言わないでと奥方に言われるけど)、草刈りは弟におまかせだ。ペースメーカーには草刈り機のエンジン音とかエンジンの火花が危ないとか言われていることもあるし。

 

 おかげで周囲はさっぱりとした。この黒いベスト姿は二男の「よっくん」。

 

 こうして、夕方までに島の家周辺はさっぱりとした。あ、正面の大きいガスボンベが、今日、つけてもらったもの。おかげであたたかいお風呂にも入れそう。久々の・・・、一か月ぶりのお風呂かも。途中で何回かのシャワーはあったけれど。

 

 今日の掲示板はこれ。「一度しかない人生だから 自分の道を自分らしく生きたい。人間らしく。自分らしく。」というもの。相田みつをさんの言葉らしいが確証はない。たった一度の人生であれば、「自分らしく、人間らしく、生きたい」というのが、多くの人の願いだろう。私も自分の道を自分らしく生きて行きたいと思う毎日であるのだが、「人間らしく」とはどういうことなのか、「自分らしく」というのはどういうことなのか。この「自分」が分かっていないことに気付いてうろたえている・・・。

 

 じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


初夏ひとつ 暮れて明日が まだ見えぬ

2018年05月04日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 

 5月4日(金曜日)晴れ 111-58-72  36.2  99%  61.45Kg 

 今日もいい天気だが、全くのオーダーはない。点滴もなければ注射もない。採血もなければX線検査もない。私はここで何をやっておるんじゃろうかい・・とばかばかしくなる。動けないのならば仕方がないが足は自由だし歩行も問題ない。

 

 明日から「外泊」だもんで「外泊届」を書いて出してきた。明日の朝食からキャンセルだから早めに出しておいた。明日は午前6時出発の予定。途中、下の弟の家、綾歌町に寄るので、余分に時間をとっておいた。島行きのフェリーボートは限られている。早めに丸亀港に着きたい思いからである。一階の警備員さんに尋ねると、「夜間にここから出るのは自由だそうだが、入るには警備員の許可がいるらしい。そうでないと鍵があかないらしい。

 

 昼休みに、けぇず電機に行ってきた。マイ・体温計を買うためだった。ここでは、体温計は貸してくれるが、酸素計と血圧計は看護師さんのお役目というか、個人貸与までにはならないそうだ。そこで、マイ・血圧計、マイ・酸素計、マイ・体温計の三点セットをそろえてみた。明日からの島の生活用にも必要じゃないかと。

  

 こんな患者も珍しいじゃろう。そこまでの意気込みを示しておかないと。帰りに、緊急用のヘリポートを探したが見当たらぬ。うろうろしているとクラクションを鳴らされた。

 

 市内にある「白鳥動物園」に向かう車列の群れ・・・。みんな、GWの遊び場探しだ。狭い町道(現・市道)は車であふれている。あぶないあぶない・・。路地を抜けて病院に戻ってきた。

 

 今日は珍しく奥方が来た。ついでにくっついて、孫のなぎちゃんがやってきた。なぎちゃんのお目当ては「おこづかい」。おいおい、病人からお小遣いをせしめるのかい・・。「そういうときだけ病人だとは言わないで・・」とか。

 

「じいじは入院していてもお布施をいただいてるんだから・・・」と、奥方がいらぬ情報漏洩・・・。企業秘密だぞ、それは。

 

 そろそろと、明日の準備でも始めるとしようか。

 

 今日の掲示板はこれ。「晴れた日と 雨の日があって ひとつの花が咲くように 悲しみも苦しみもあって 私の人生が深くなる」というもの。

  「悲しみの意味」

   冬があり夏があり
   昼と夜があり
   晴れた日と雨の日があって
   ひとつの花が咲くように

   悲しみも苦しみもあって
   私が私になっていく
                   星野富弘

 「雨はイヤだ。」と言う人もいれば「恵みの雨」と喜ぶ農家の方もいる。病気をしたからこそ健康のありがたさがわかったり、空腹だからこそ、一つのおにぎり が最高のご馳走だと感じたり、辛く悲しい思いをしたからこそ、人のここころの痛みに寄り添えたりするように、悲しみも苦しみもあって私が私になっていく。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


花牡丹 悪も汚れも 知らぬまま

2018年05月03日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 5月3日(木曜日)晴れ 126-77-60  36.4  98%  61.40Kg 

  病院は今日から4連休モード。だから、看護師さんも4人か5人かの休日モード。それでも部屋替えとかでバタバタやっていた。

 

 いつだかに高松の病院に転院するとかで退院したおじさんがいたが、数日ほどで舞い戻ってきた。高松病院へは入らずに自宅で静養していたらしいが、庭掃除をしていて急に動けなくなって診察に来たら、即入院となって、元の病室の元のベッドで寝ている。

 

  私も似たようなものだなぁと、同病相憐れむ・・・という感じ。病名も同じで、「心不全憎悪」である。これを、ここの看護師さんたちは、「ぞうあく」と発音していた。医学用語的には「ぞうあく」なんだろうか。一般的には「ぞうお」なのだが・・・。

 

 改めて聞いてみると、「「しんふぜんぞうお」とは言いません。「しんふぜん・ぞうあく」です」と言われた。「ぞうお」よりも「ぞうあく」が業務用語らしくは聞こえるなぁ。

 

 そういえば、お正信偈にも「いっしょう・ぞうあく・ちーぐーぜー」だったな。「いっしょう・ぞうおー ・・・」とは読まないなな。

 

 懸案というほどのことでもないが、お大師まいりの人用に、歩きだと立石、江之浦、釜の越あたりを歩くマップを用意し、全体を歩く用に島全体のマップを用意した。それと、島の軽トラ用のガソリンと、私の車にもガソリンを入れて準備完了。

 

 この病院でも必需品のようなものが「心電図モニタ」である。赤・黄・緑の三本の電線が出た送信機で、ここでは、これをつけていて、ナース・ステーションで監視している。このため、患者の心臓に異常があればすぐさまにナースが駆け寄って来る仕組みになっている。

 

 一方、患者としては、病棟フロアから一歩出れば、電波が途絶えて行方不明になるので、すぐさま、捜索されることにもなるので、一階の売店や屋外に出ようものならすぐさま探知されてしまう。ま、電池切れとか、電極外れ・・・ということが多いのが実態。売店へ行こうが、屋外を散歩しようが捜索されることはまずない。

 

 その心電図モニターの電極から微弱な電気が流れていて、これが皮膚炎を起こしてかゆくなってしまう。医大も含めて、もうかれこれ、二か月、60日以上にもなるので皮膚炎はひどくなってきた。そこで、夜間は外して寝ていたが、最近は横着をこいて、わざと装着を拒否してきた。すると、「もう、いいです」というドクターの鶴の一声。今日からは心電図モニタなしである。

 

 普通の患者さんの場合、点滴が外れて、心電図モニタが外れたら「退院」なのだが、それはない。私の場合は、ここにいることが大事なのである。

 

 今日の掲示板はこれ。「それでいい それがいい あるがまま ないがまま」というもの。今、この時代の国家や個人に「あるがまま」を説くのはすでに無理なのだろう。ある状態の自分が「あるがまま」と思って暮らしていて、 それが行き詰まった場合、人にはそれ以上の逃げ場がなくなってしまう。「あるがまま」で駄目なら、どうやっても駄目だと思い込むだろう。「あるがまま」の虚ろさを知り、さらには「ないがまま」という人生の本質的「無意味」に触れた上で、仮に進むべき「一つ」を選びとらなければならないのだと思う。だからこ そ、例えば何かの役に立ったり何かを成し遂げることに人生の意味を感じる、という「仮の目標」が重要になってくる。しかもその場合、「仮の」と深く認識す ることが更に大切である。「仮の一つ」を信じて進むことを仏教では「方便」と云うが、それは人生そのものの虚構性に対する冷徹な眼差しの対極に生まれる、一種の熱気ではないだろうか?その熱気によって一途に進むのが通常の人生かもしれないが、それで挫折したら、また「ないがまま」というニュートラルに戻って 出直せばいいのじゃなかろうか。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


藤の花 湿ったこころが よく乾く

2018年05月02日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 5月2日(水曜日)晴れ 115-68-75  36.4  100%  61.75Kg 

 今日の穿刺は延期。連休明けにまたもドレーンをやるらしい。同じことをやってもなあと思う。胸水を抜いても抜いてもだめなのだ。もっと、以前の問題だと思うが、ドクターは、それには「水分を控えろ」という一点張り。そうじゃないだろうと思えてならん・・・。

  

 今日も、論文の修正。追加をやって日が暮れた。

 

 昨日、銀行で通帳記載してから通帳が行方不明。車の中も探して探したが見つからぬ。あきらめて、再発行か、ごみを捨てた場所に戻ろうかと考えていたが、古い昔のものと思っていた通帳こそが新しいものだと判明、安堵、安堵の一安心。

 

 古い過去の通帳なんぞごみでもかまわない。それがまた、引き出しから出てきた。案ずるより産むがやすしみたいなことだった。

 

 おかげで何度も駐車場まで歩いて行って、いい運動にはなった。それに、リハビリで廊下を三往復したので3、600mは歩いた計算。

 

 はやてもなぎも、むすめたちも連休モードに入ったらしい。病院も明日からは4連休モード。しずかな夜になってきた。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生いい時もあれば悪い時もある 悪い時にはもうこれ以上悪くならないし、辛い時にはちょっと我慢していれば大丈夫」というもの。岡崎朋美(本名:安武朋美【旧姓:岡崎】1971年9月7日 )は元スピードスケート選手。都留文科大学特任教授長野オリンピック・スピードスケート女子500メートル銅メダリスト。所属は富士急行。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


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