ここ10年ほど、お盆の入りの今日8月13日には檀家になっている寺にある納骨堂で住職からお経をいただいた後、少し離れた公営墓地にある我が家の墓参りをすることが恒例となっている。この寺の境内にある納骨堂には両親および夭折した姉弟の遺骨が納められていて、実のところ墓地には墓石こそあれ中には何も納められていない。墓は母が亡くなって数年後に父が建てたもので、納骨堂に収められているのに何故わざわざ建立したのか、父も6年前に他界したので今となっては聞くこともできないが、何事にも慎重だった父のことだから万一のことでも考えたのかもしれない。父が長年この寺の総代を務めていたこともあって、今日納骨堂に行くと住職はすぐにこちらに声をかけてくれた。
墓地では姉、妹、弟と4人で、強い陽射しの照り付ける中、簡単な掃除の後で花を供えるとそれまでの殺風景な墓石がにわかに華やかに、賑やかに見えてきた。墓誌には亡くなった4人の名前が刻まれているだけでここには何も入ってはいないのだがそれでもやはりここは特別な場所。建立してからもう50年近く経つが数年前に一度修理をしたせいか古びた感じはない。そもそも墓というものは時の流れから隔離されたようにそんなに古びて見えたりはしないのかもしれない。
自分に宗教心があるのかと尋ねられたら自信を持っては答えられないと思う。自ら無宗教だと公言する友人もいる。また、無宗教ということで一切の宗教的な行事を行わず、遺族が海に散骨した友人もいる(また、その遺灰の一部で奥様は指輪を作ったという話を聞いた!)。しかし、自分はやはりこの寺の世話になり、ここに納骨されるのだろうと思う。
普段は身近にはない墓守というような言葉、あとどのくらい務めることになるのか。きょうだいの間では話すこともあまりない墓参りの帰り道、ふとそのことが頭をかすめた。