パソコン
2011-06-09 | 日記
久々の更新である。
パッタリと更新が途絶えてしまい、どうしたんだろうなあと思われた方も多いのではなかろうか。
タネを明かせばパソコンの故障である。
家のパソコンは買って5年ぐらいになるか、徐々に調子は悪かったがついに壊れてしまった。
買い換えの時期なのだろう。
使える物は直して直して徹底的に直し、その物が摩耗して形にならないぐらいに使うというニュージーランドの開拓精神もパソコンには通用しない。
だが、壊れました、ハイそうですか、では新しいのを今すぐ買いましょう、というわけにもいかない。
失業者のボクにはそんな余裕はないし、それをするにはまず我が家の大蔵大臣(女房)に直訴しなくてはならない。
生憎、大蔵大臣はオークランドに出張でしばらく留守である。
ないならないで何とかならないだろうか?一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
女房は仕事用ではあるが自分のパソコンがあるので全く困らない。
パソコンがなくて困るのはボクと娘だけだ。
いっそのこと、これを機会にネットもメールも無し。
ブログもホームページも全て止めちまう。
連絡は電話か手紙のみ、という時代に逆らった生き方をしてみようか、などと思ったりもした。
しかしそれはそれで大変なことになるのは目に見えている。
なので、今あるもので何とかやってみることにした。
修理に持っていき、一度は使える用になったが再びダメ。
カバーを外し、中をガチャガチャやってみるとなんとか立ち上がった。
だが機械の機嫌をそこねるとすぐに止まってしまう。
こうなるともうお手上げ、コンセントを抜くしかないのだが、こんな終了の仕方が良いわけはない。
電源を立ち上げるのだって、ボタン一つでポンというわけにはいかない。
カバーを外し、メモリーの辺りをガチャガチャとやり、コンセントを差し込み、そして手を合わせお祈り。これ大切。
そしておもむろにスイッチを入れる。
うまく立ち上がってくれる確率は3回に1回。
立ち上がってくれない時はあきらめて数時間後もしくは翌日にトライ。
電源が入らないときは「やるな」ということだろう。
そんな時は庭仕事をしたり、家の掃除をしたり、料理をしたり、なにかとやることはいくらでもある。
うまくコンピューターが立ち上がったとしても、いつ止まってもおかしくない状況である。
ネットを見ていて突然止まることはしょっちゅうだ。
次回に電源が入る保証はない。
ひょっとすると今回が最後かもしれない。
そのままお陀仏、「おさらばえ~」ということもありえる。
当然、長い文章などはある程度書いたら下書きに保存する。
そんな一期一会の気持ちでパソコンを使っているわけだ。
そうすると自然と感謝の気持ちもわく。
「電源入ってくれてありがとう」
「ちゃんと送信できて、ありがとう」
当たり前の事だが、当たり前に行っている時にはありがとうという気持ちは生まれない。
不思議なものだ。
当たり前が当たり前で無くなったときに、はじめて人間は当たり前の有り難さを知る。
これは全ての物事に共通することではなかろうか。
ふう、なんとかこの文を書く間、生きていてくれた。
ありがたや、ありがたや、なのである。
パッタリと更新が途絶えてしまい、どうしたんだろうなあと思われた方も多いのではなかろうか。
タネを明かせばパソコンの故障である。
家のパソコンは買って5年ぐらいになるか、徐々に調子は悪かったがついに壊れてしまった。
買い換えの時期なのだろう。
使える物は直して直して徹底的に直し、その物が摩耗して形にならないぐらいに使うというニュージーランドの開拓精神もパソコンには通用しない。
だが、壊れました、ハイそうですか、では新しいのを今すぐ買いましょう、というわけにもいかない。
失業者のボクにはそんな余裕はないし、それをするにはまず我が家の大蔵大臣(女房)に直訴しなくてはならない。
生憎、大蔵大臣はオークランドに出張でしばらく留守である。
ないならないで何とかならないだろうか?一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
女房は仕事用ではあるが自分のパソコンがあるので全く困らない。
パソコンがなくて困るのはボクと娘だけだ。
いっそのこと、これを機会にネットもメールも無し。
ブログもホームページも全て止めちまう。
連絡は電話か手紙のみ、という時代に逆らった生き方をしてみようか、などと思ったりもした。
しかしそれはそれで大変なことになるのは目に見えている。
なので、今あるもので何とかやってみることにした。
修理に持っていき、一度は使える用になったが再びダメ。
カバーを外し、中をガチャガチャやってみるとなんとか立ち上がった。
だが機械の機嫌をそこねるとすぐに止まってしまう。
こうなるともうお手上げ、コンセントを抜くしかないのだが、こんな終了の仕方が良いわけはない。
電源を立ち上げるのだって、ボタン一つでポンというわけにはいかない。
カバーを外し、メモリーの辺りをガチャガチャとやり、コンセントを差し込み、そして手を合わせお祈り。これ大切。
そしておもむろにスイッチを入れる。
うまく立ち上がってくれる確率は3回に1回。
立ち上がってくれない時はあきらめて数時間後もしくは翌日にトライ。
電源が入らないときは「やるな」ということだろう。
そんな時は庭仕事をしたり、家の掃除をしたり、料理をしたり、なにかとやることはいくらでもある。
うまくコンピューターが立ち上がったとしても、いつ止まってもおかしくない状況である。
ネットを見ていて突然止まることはしょっちゅうだ。
次回に電源が入る保証はない。
ひょっとすると今回が最後かもしれない。
そのままお陀仏、「おさらばえ~」ということもありえる。
当然、長い文章などはある程度書いたら下書きに保存する。
そんな一期一会の気持ちでパソコンを使っているわけだ。
そうすると自然と感謝の気持ちもわく。
「電源入ってくれてありがとう」
「ちゃんと送信できて、ありがとう」
当たり前の事だが、当たり前に行っている時にはありがとうという気持ちは生まれない。
不思議なものだ。
当たり前が当たり前で無くなったときに、はじめて人間は当たり前の有り難さを知る。
これは全ての物事に共通することではなかろうか。
ふう、なんとかこの文を書く間、生きていてくれた。
ありがたや、ありがたや、なのである。