あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

餅は餅屋

2011-06-28 | 日記
勘の鋭い人は気づいていると思うが、そう、新しいパソコンを買ったのである。
以前使っていたパソコンの調子が悪くなり、ガチャガチャいじったりお祈りをしたりして何とか使っていたが、いよいようんともすんとも言わなくなり新規購入に踏み切った。
お店に行き現物を見たりしたが、新しい物を買ってもデータの移し変えなど面倒くさい作業が待っている。
しかも古いパソコンは動かない。
それならばここに住んでいる日本人のプロに一括で頼むことにした。
今はまだ使えるディスプレイとキーボードはそのまま使って、本体だけ新しく組んでもらった。
これならば使えるものはとことん使う、という開拓精神にも反しない。
古い本体の使える部品はその人が使ってくれることだろう。
ゴミも最低限で済む。
結果から言うと、最初からこの人に頼めば良かったというものだった。
新しい本体はお祈りをしなくてもサクサク動き、以前と同じようにしかもスピードアップして使えるようになった。
スピードが速すぎてそれを使う人間が追いつかないような状況である。
それでいてかかったコストは新品よりも安い。
僕もハッピー。その人も仕事になってハッピー。新しいパソコンも(たぶん)ハッピー。まだ使える物もゴミにならなくてハッピー。
幸せが誰かの不幸せの上に在るのでなく、すべての人や物が幸せになる『みんなハッピー』というボクの信条にもあう。
とてもよろしい。

一時はデータの移し変えも、自分でやってみようと思ったが、それをするには知識も必要である。
素人がいろいろ試行錯誤しながらできないことはなかろうが、それに費やすエネルギーは小さくない。
ボクがあれやこれや何時間もかけてできないことが、その道の人の手にかかると5分で出来てしまう。
自分がそれを行うエネルギーと、お金というエネルギーを天秤にかけてみるとお金のエネルギーのほうが小さく効率は良い。
その人にとってはそんな作業はなんてことないもので、それに費やすエネルギーはボクのそれに比べはるかに小さいものなのだ。
そこでお金エネルギーが回り、ひとつの仕事が成り立つ。
やはり餅は餅屋なのである。
餅に対する正当な報酬というものもある。
これが目玉が飛び出るほど高いとなればボクも考えるが、今回のように支出を抑え自分で納得ができる料金でお金を払い、結果に満足する。
そこには感謝の気持ちが生まれる。
そして出てくる言葉は「ありがとう」なのだ。
高いなあと思いながらお金を払うときに、ありがとうという言葉は出てこない。
支払う側が納得のいく結果を得られる時に自然に出てくる言葉がありがとうなのだ。
だからCIAの長官でもゴルゴ13が依頼を受けてくれたときに「ありがとう、ゴルゴ13」と言っている。
これは依頼主と仕事請負人との信頼関係があって成り立つことだ。

そう考えてみると、僕がガイドをした時に、お客さんがありがとうと言ってくれるのもそれにあてはまるのだと思う。
ボクにとって、ガイドするコースを歩くのは日常茶飯事、なんてこともないことだ。
お客さんは安くないお金を払うが、それに見合う結果を得て満足して1日を終わる。
ニュージーランド旅行の中の1日を満喫して過ごすわけだ。
そうなると自然にありがとう、という言葉が出る。
この言葉は決して強制されて出る言葉ではない。
あくまで自然に心の奥から湧き出る言葉だ。
お互いにありがとうと言い合う時、場の雰囲気はほのぼのしたものになり、人間関係もうまくいく。
そこにはエネルギーの交流があり、互いの精神を高めあう。
そのエネルギーとは愛である。
愛という言葉にすると陳腐なものなりがちだが、それはエネルギーであり波動でありお金であり気持ちである。
この世は愛の上に成り立っている。
だがやっぱり愛という言葉を出すと、何かちょっと恥ずかしいような照れくさいような。時には偽善的で宗教がかった感じにもなる。
なのでボクはエネルギーという言葉をよく使う。
言葉で表現しきれないものというのも存在するのだ。


愛ありき 餅屋の餅に ありがとう







コメント (4)
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