ツアーの時にお客さんと話をしていて、話題が中国人の事に触れることがある。
そんな時、かなり多くの人が嫌悪感をあらわにする。
すると場の空気はどんよりと重くなる。
人が人を嫌いになる時、人は嫌な気を発する。
そしてほとんどの人が、自分が嫌な気を出している事に気がつかない。
確かに中国人のふるまいは誉められたものではない。
そこらじゅうにゴミを捨てるわ、大声で喋るわ、レストランでは人のテーブルを覗き込む。
レンタカーに乗せれば運転はヘタクソ、そのくせ直線では150キロでぶっ飛ばし、カーブの途中で車を停め記念撮影なぞしている。
金に物を言わせ傍若無人の振る舞いをする、人が多い。
だが他の人の事が言えるか日本人?
バブルの時にどういう事をやっていた。
僕は28年前、クィーンズタウンのお土産屋で働いていたが、シープスキンがそれこそ飛ぶように売れた。
当時はニュージーランド観光の走りで、大型バスを連ねて走るような、そんなツアーも多かった。
今でこそ、日本の喫煙者は携帯灰皿を持っているが、当時そんな物使う人はなくタバコのポイ捨ては当たり前だった。
ヨーロッパでのブランド物の買い物ツアーなどはさぞかしすごかったのだろうし、アジア諸国への売春ツアーもよく聞いた。
自分がそれに参加していないからと言って、自分は関係ないとは言わせない。
民族の恥というものは多かれ少なかれ自分にも関係はある。
それを棚にあげて、中国人だからと偏見を持つのはどうかと思う。
第一、その中国人に個人で実害を受けている人がどれくらいいるのか。
山小屋のように観光業の商売をやっていて実害を受けた人が中国人を嫌いになるのは理解できる。
でも自分は被害にあっていないのに「テレビで言っていたから」とか「友達の友達が被害にあった」とか「話に聞いた」とかそういうレベルの人がどれくらいいるのだろう。
そしてそういう情報は意図的に操作されていることも多い。
洗脳というのはされている人が気づかないから洗脳なのだ。
旧正月の期間、クィーンズタウンにも中国人が溢れた。
街に入る交差点ではウロウロするレンタカーに腹を立てた人が鳴らすクラクションが終日続いたそうな。
人の良いニュージーランド人もさすがにうんざりという顔で中国人を見る。
やはりバランスの問題で、あまりに多くの人が同時期に集まったり移動したりするとろくなことがない。
それにしても当の中国人はそうやって嫌われているのに気がついているのだろうか。
あまりの無邪気さに可哀そうになってしまう。
僕が見ている中国像とは、可哀そうな国で可哀そうな民だ。
天に向かってツバを吐けば自分に落ちてくる。
今はまだ落ちてこないがそのうちに必ず落ちてくる。
それに気づかずにツバを吐き続けているのが今の中国だ。
可哀そうだがそれもまた自分がやっている事なので仕方なかろう。
若い頃、中国を旅したことがある。
長距離列車で一般の人と一緒に旅をした。
同じコンパートメントで一緒になったおばちゃんが親切にいろいろな物を分けてくれたり、いろいろと教えてくれた。
ああ、中国の人ってやさしいんだなあと思ったのだが、その優しいおばちゃんがある駅で駅員相手に鬼のような形相でケンカをしていた。
何に対してかは分からないが、すごい剣幕で言い争っていた。
この変わりようは何か。
自分の家族、友達、知り合いにはものすごく親切でとても厚くもてなすが、それ以外にはケンカ腰であったり冷たかったり。
その輪は時には家族であったり、時には自分の所属する社会であったり、時には友達であったり、その状況によって大きくなったり小さくなったりする。
それが最大になったものが国という感覚か。
そこでは線の内と外というように、常に境界線がある。
輪は時と状況で大きさは変わるが、常にその輪の中で自分が真ん中にいる。
それが中華思想だ。
そこに常にくっついているものがエゴなのだ。
『自分さえよければいい』というエゴは自分を中心とする輪が大きくなれば『自分の家族さえよければいい』というものになり『自分の友達さえよければいい』『自分の所属する社会さえよければいい』そして『自分の国さえよければいい』となる
それがお互いの国であれば戦争だし、輪が小さければケンカ、言い争いだ。
線の内にいれば心地よい関係だが、それがいつ線の外に放り出されるか分からない。
基本、他人は信用できないというような不毛な関係を作る。
だから親から子へ伝えられる言葉は「人に騙されるより人を騙せ」だ。
そして金が全ての拝金主義の国がある。
あーあ、孔子の教えはどこへいっちゃったんだろうね。
日本と同じで古い世代は考えが固く簡単には変わらないだろうが、若い世代で今一度考え直し自分を見つめ自分の国を見つめ、人として真っ直ぐに生きていこう、という人はいないのだろうか。
だがそれにしても、未だ天に向かってツバを吐き続け、民族としてのカルマを増やしている状態では灯りも見えないな。
近い将来、中国は失脚する。
痛い目にあうだろう。
その時に「ざまあみろ」と言うか「辛い思いをしたな」と労わるか。
自分の魂の成長がそこで試される。
その想いは自分自身だけが知る。
そんな時、かなり多くの人が嫌悪感をあらわにする。
すると場の空気はどんよりと重くなる。
人が人を嫌いになる時、人は嫌な気を発する。
そしてほとんどの人が、自分が嫌な気を出している事に気がつかない。
確かに中国人のふるまいは誉められたものではない。
そこらじゅうにゴミを捨てるわ、大声で喋るわ、レストランでは人のテーブルを覗き込む。
レンタカーに乗せれば運転はヘタクソ、そのくせ直線では150キロでぶっ飛ばし、カーブの途中で車を停め記念撮影なぞしている。
金に物を言わせ傍若無人の振る舞いをする、人が多い。
だが他の人の事が言えるか日本人?
バブルの時にどういう事をやっていた。
僕は28年前、クィーンズタウンのお土産屋で働いていたが、シープスキンがそれこそ飛ぶように売れた。
当時はニュージーランド観光の走りで、大型バスを連ねて走るような、そんなツアーも多かった。
今でこそ、日本の喫煙者は携帯灰皿を持っているが、当時そんな物使う人はなくタバコのポイ捨ては当たり前だった。
ヨーロッパでのブランド物の買い物ツアーなどはさぞかしすごかったのだろうし、アジア諸国への売春ツアーもよく聞いた。
自分がそれに参加していないからと言って、自分は関係ないとは言わせない。
民族の恥というものは多かれ少なかれ自分にも関係はある。
それを棚にあげて、中国人だからと偏見を持つのはどうかと思う。
第一、その中国人に個人で実害を受けている人がどれくらいいるのか。
山小屋のように観光業の商売をやっていて実害を受けた人が中国人を嫌いになるのは理解できる。
でも自分は被害にあっていないのに「テレビで言っていたから」とか「友達の友達が被害にあった」とか「話に聞いた」とかそういうレベルの人がどれくらいいるのだろう。
そしてそういう情報は意図的に操作されていることも多い。
洗脳というのはされている人が気づかないから洗脳なのだ。
旧正月の期間、クィーンズタウンにも中国人が溢れた。
街に入る交差点ではウロウロするレンタカーに腹を立てた人が鳴らすクラクションが終日続いたそうな。
人の良いニュージーランド人もさすがにうんざりという顔で中国人を見る。
やはりバランスの問題で、あまりに多くの人が同時期に集まったり移動したりするとろくなことがない。
それにしても当の中国人はそうやって嫌われているのに気がついているのだろうか。
あまりの無邪気さに可哀そうになってしまう。
僕が見ている中国像とは、可哀そうな国で可哀そうな民だ。
天に向かってツバを吐けば自分に落ちてくる。
今はまだ落ちてこないがそのうちに必ず落ちてくる。
それに気づかずにツバを吐き続けているのが今の中国だ。
可哀そうだがそれもまた自分がやっている事なので仕方なかろう。
若い頃、中国を旅したことがある。
長距離列車で一般の人と一緒に旅をした。
同じコンパートメントで一緒になったおばちゃんが親切にいろいろな物を分けてくれたり、いろいろと教えてくれた。
ああ、中国の人ってやさしいんだなあと思ったのだが、その優しいおばちゃんがある駅で駅員相手に鬼のような形相でケンカをしていた。
何に対してかは分からないが、すごい剣幕で言い争っていた。
この変わりようは何か。
自分の家族、友達、知り合いにはものすごく親切でとても厚くもてなすが、それ以外にはケンカ腰であったり冷たかったり。
その輪は時には家族であったり、時には自分の所属する社会であったり、時には友達であったり、その状況によって大きくなったり小さくなったりする。
それが最大になったものが国という感覚か。
そこでは線の内と外というように、常に境界線がある。
輪は時と状況で大きさは変わるが、常にその輪の中で自分が真ん中にいる。
それが中華思想だ。
そこに常にくっついているものがエゴなのだ。
『自分さえよければいい』というエゴは自分を中心とする輪が大きくなれば『自分の家族さえよければいい』というものになり『自分の友達さえよければいい』『自分の所属する社会さえよければいい』そして『自分の国さえよければいい』となる
それがお互いの国であれば戦争だし、輪が小さければケンカ、言い争いだ。
線の内にいれば心地よい関係だが、それがいつ線の外に放り出されるか分からない。
基本、他人は信用できないというような不毛な関係を作る。
だから親から子へ伝えられる言葉は「人に騙されるより人を騙せ」だ。
そして金が全ての拝金主義の国がある。
あーあ、孔子の教えはどこへいっちゃったんだろうね。
日本と同じで古い世代は考えが固く簡単には変わらないだろうが、若い世代で今一度考え直し自分を見つめ自分の国を見つめ、人として真っ直ぐに生きていこう、という人はいないのだろうか。
だがそれにしても、未だ天に向かってツバを吐き続け、民族としてのカルマを増やしている状態では灯りも見えないな。
近い将来、中国は失脚する。
痛い目にあうだろう。
その時に「ざまあみろ」と言うか「辛い思いをしたな」と労わるか。
自分の魂の成長がそこで試される。
その想いは自分自身だけが知る。