あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

マオリ 2

2015-04-11 | 過去の話
隣にはダニエルとエレナのカップル、そしてダニエルの友達のロニー、マオリの3人が住んでいる。
3人ともパケハの物差しで言えばとんでもなく太っている。
だが白人の病的な太り方と違う、健康的に太っているとでも言おうか。
これがマオリの血なのだろう。
彼等も数十年後立派なマオリのオジサンオバサンになっていくのだ。
ダニエルは図体と髭もじゃの顔に似合わずクリクリした目を持っている。そのアンバランスさが可愛い。
たまに日本の歌『瀬戸の花嫁』をマオリ調で歌う。お母さんに教えてもらったそうだ。
♪セトワーヒグレテーユーナーミコーナーミー。
こんなのは日本とマオリの文化の産物などと呼んでもいいのだろうか。
ダニエルと名コンビなのがロニー。
彼はベーシストなのだが、ベースを弾く人に多い落着いた雰囲気が全く無い。
マオリの唄には日本の民謡みたいに合いの手が入る。
ロニーは合いの手が好きで、いつも歌の合間に陽気に叫んでいる。
彼のベースギターの前面にはびっしりとマオリの模様が彫刻されている。芸術的な彫りだ。
「ロニー、これどうしたの?自分で彫ったの?」
「違うよ。親父にやってもらった」
「へえ、すごいねえ。こんな彫りは時間がかかるでしょう。丸1日ぐらいかかった?」
「全然。ちょいちょいって15分ぐらいでやっちゃったよ」
「え~?15分?」
彫るところを見てみたいものだ。
ロニーは近々ここを去り北島へ帰る。代わりにダニエルの兄ナイロがやってくる。
出会いは偶然であり、別れは必然なのだ。
僕もヘナレも彼等の唄が大好きで、彼等が友達を呼んでパーティーをやると「ダニエル!もっと大きい声で歌え。聞こえないぞ」と野次をとばす。
ヘナレの家は彼等の家より一段高い所にあるので、自然彼等を見下ろすようになる。
寝る時はベッドルームの窓を開け、ヤツらの唄を聞きながら寝る。最高のBGMだ。
ニュージーランドではノイズコントロールというものがある。
パーティーなどで夜遅くまで騒いでいる家へ行き「もしもし君達ちょっとうるさいよ。近所から苦情がきてます。もうちょっと静かにしなさい」と言ってくれる人だ。
「ノイズコントロールに電話しようぜ。『あのう、隣の家なんですけど、もうちょっとボリューム上げるように言ってくれませんか』ってな」
「ワハハハ。そりゃいいや」
もちろん僕等が彼等の家へ行き、唄を聞かせてもらうことも多い。
僕は37才、ヘナレは35才。彼等とはひとまわり以上年が違う。
言葉には出さないが、彼等の立振舞いで何となく年上の人への敬意があらわれていて居心地が良い。
クリスマスの日には朝からバーベキューである。ラム肉、牛肉、ソーセージ、目玉焼きそしてサラダを皿に山盛りにしてガツガツ食う。手掴みで骨に付いている肉を歯で削ぎ落とす。骨の髄をチューチューと吸う。
パケハの社会では眉をひそめるような食べ方だが、ここでは見ていて気持ちが良い。
物を食べるという全ての生き物に必要な事。これを若い彼等にあらためて教えてもらった。そんな気分で僕もモリモリと食べた。
ダイエット?そんなのどこかの誰かが言っている事だろう。俺達には俺達の食い方がある。
マオリの血は強い。

クィーンズタウンは湖に面した街だ。
その対岸にヒドゥンアイランドという島がある。
隠れ島というその名の通り、クィーンズタウンからは背景に隠れてしまい、どこに島があるのか全く分からないが、一段高い所へ上れば島をはっきりと見ることができる。
ある休みの日、ヘナレが言い出した。
「いい天気だなあ。ボートで島でも行かないか?」
「ボートがあるのか、行こう、行こう」
彼のボートは近所の友達のガレージに置いてある。
ボートといってもサーフレスキューに良く使う、小さいゴムボートにエンジンがついたやつだ。
4人も乗れば一杯になってしまうが僕等にはこのサイズで充分。
ヘナレが言い出してから30分後、僕等はヒドゥンアイランドに来た。
ヘナレは魚を探し先に歩いていった。
彼はフィッシングガイドをするぐらいの腕前だ。僕とは格が違う。
僕も一時期釣りをはじめた事があった。
2年間がんばったあげく、釣果3匹という結果を残し自分には釣りのセンスが無い事を悟った。
いつの日かカヤックを手に入れたときには再び始めるかもしれないが、今の自分には山歩きの方が楽しい。
僕は座るのに手頃な岩を探し、腰を下ろした。
今まで行ったあちことの山々が別の角度で見える。
そこからこの島を見た事を思い出し、イメージを立体化して自分をその中に置く。楽しい時間だ。
そしてまた、この場所へ来てこの湖を創った氷河の大きさを感じる。体感というやつだ。
こんな場所ではセルフエンターテインのできない人はダメだ。
『何も無い所』としか映らない。
自らを楽しませる術を持った人には、ボーっと山を眺める、本を読んだり文を書いたりする、ひたすら雲を眺める、『人生とはなんぞや』と考える、波の音を聞きながら昼寝をする、俳句をひねる、などなどやることはいくらでもある。
視界の片隅に一つの山がとびこむ。マウントクライトン、去年登った山だ。
去年のクリスマス、クィーンズタウンは浮かれだった人で溢れ、街中が騒然としていた。
あまのじゃくな僕はクリスマスの日に誰とも会いたくなく、その山に登った。
このルートは地図にも載っていない。
頼りない踏み後をたどり、急なガレ場をトラバースして山頂に着いた。
眼下には山上湖が白い雪をのせてじっとたたずみ、反対側にはワカティプ湖が真っ青な空を映し、大きく蛇行していた。
その日僕は希望どおり誰とも会わずに、自分だけの時を過ごした。
その時のトラバースした斜面が正面に見える。
二つの点で自分の居た場所が確認できると嬉しい。
例えば、木曽御岳の山頂に登り、そこから乗鞍を見る。この二つの山は高原を挟んで立っているのでお互いに良く見える。後日乗鞍に登り、御岳を見渡せば『あそこに登ったんだ』という楽しみがあるだろう。
この手の楽しみは自分で歩いた人にしか分からない。
ヘリなどを使えばもっと簡単にその場に立つことはできるが、こういった感動は味わえない。
そのためには時間と労力が必要なのだ。時間と労力の大きさに比例して感動は大きくなる。
その日の夜、ヘナレと天気予報を見る。予報は無風快晴。
彼が尋ねた。
「明日は仕事はあるのか?」
「いいや、休みだ」
「じゃあ、明日の朝もう一度行ってみないか?」
「よしきた」
夜のうちに支度を済ませて、次の朝7時前に家を出た。
「じゃあ今朝の目的は島でコーヒーを飲む。これでどうだ?」
もちろん異議は無い。
ボートで数分、あっという間に島に着き、湯を沸かしコーヒーをいれる。
昨日きたばかりだが、時間が変われば雰囲気も変わる。飽きる事は無い。
予報どおり無風快晴。朝日が湖を照らす。
早起きは3文の得、ではないが、この為なら早起きする価値はある。
面倒臭い、とベッドから出ないのは楽だ。しかしこの感覚は味わえない。
それがライブ、生でしか感じることが出来ないものだからだ。
この感覚を味わう為に僕は生きる。
遠くで子供の声がする。見るとカヤックに乗った10歳前後の子供が7人ほどこちらに向かってきた。
パドルさばきはぎこちないが全員楽しそうだ。そりゃそうだろう、こんな場所でこんな時間だ。
カヤックの一団は島に上陸。それぞれに島を歩き、去っていった。
付き添いのお父さんが後からゆっくりとボートで追う。
ここの子供は幸せだ。大人がおせっかいをやかない。
子供の自主性に任せ、何かあった時には手を貸す。
子供が子供らしく育つには、大人が大人でなければいけない。
自然の中で大人に行動力が無ければ、説得力は無い。
こんな環境で育つとヘナレのようになる。
アウトドアの達人一丁できあがり、というわけだ。
帰り道でヘナレが言った。
「時計を見ろよ。まだ十時前だぞ」
わずか3時間、まさに朝飯前の散歩がてら島へ行く。
僕達はたっぷり密度の濃い時間を過ごした。

コメント
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