家の台所の流しに立つと、目の前の窓から外がよく見える。
家の前の通りが緩やかにS字に曲がっていて、赤っぽい葉を茂らせた街路樹が並んでいる。
ボクはここから見えるこの道の風景が好きだ。
そんな通りに週に1回、道の両脇にプラスチックの入れ物が並ぶ。
毎週木曜日はゴミの日である。
クライストチャーチのゴミ収集はとても合理的だ。
各家庭に3つ、フタが色違いのコンテナ(容器)がある。コンテナは市で用意してくれた物だ。
緑色はオーガニック。
台所で出る生ゴミ、庭で出る芝生を刈ったものや雑草など土に還るものはこちら。
たぶんどこかでボカシを使って分解しているのだと思う。
黄色はリサイクル。
ガラスびん、ペットボトル、空き缶、紙などリサイクルできるものはこれに入れる。
その他のゴミは赤色のコンテナ。
子供でも分かる分別のシステムだ。
緑色は毎週、赤と黄色は各週の収集で、ある週は緑と赤の日、次の週は緑と黄色といったぐあいである。
その日には通りが全てその色になるので間違えることもない。
それを集めるトラックも赤、黄、緑色に塗り分けられている。
ゴミを考える上で一番気になるのは台所の生ゴミであろう。
我が家では生ゴミは庭で堆肥にしているが、全ての人がそれをできる訳ではない。
放っておけば腐って臭くなるし、虫だって寄ってくる。
市で普及された容器はフタもしっかりしていて虫も入らない。
週に1回の収集ならば腐敗する前に持っていってくれる。
リサイクルはどこかでまとめて細かく分別するのだろう。
リサイクルできる物は全てこの容器に入れる。
各家庭でさらに細かく分別するのを考えるとシステムは複雑になる。
これぐらいの分別のシステムがいいのだろう。
リサイクルとその他のゴミは基本的に腐る物はないので2週間に1回で充分だ。
合理的である。
コンテナには車輪が付いていて、傾けてガラガラ動かし家の前へ出す。
専用のトラックが来て、特殊なアームでガチッとコンテナを掴み持ち上げ、上からガサガサとゴミをトラックに入れる。
元の場所にコンテナを置いて、次の家にといった具合である。
このシステムだと働く人がゴミに接触しない。
合理的だ。
ある時、トラックがゴミを集めるのを見ていた。
家の前に止まって作業が終わった時にドライバーが話しかけてきた。
「どこから来たんだ?」
「日本だ」
「アリガトー」
ボクは笑いながら言い返した。
「どうもありがとう」
妻が言った。
「働く人に悲愴感がないわね」
確かにそうだ。
ゴミといった人間の生活から切り離せないもの、それでいてあまり人がやりたがらない仕事につきものも悲愴感は無い。
働く人がにこやかに生き生きと仕事をしている。
以前は人の手でトラックにゴミを入れていた。
運転する人とゴミを集める人、二人でペアになって仕事をしていた。
その作業は見ていても『大変だなあ』という想いを持った。
リサイクルだって以前はトラックを運転する人、集める人、トラックの中でビンと缶と紙に分別する人、と3人1チームでやっていた。
細かい分別作業を1カ所でまとめてやる、新しい機械の導入、各家庭にコンテナーを配るなどシステムを変えることにより、人が費やすエネルギーを減らす事ができるし、働きやすい環境ができる。
税金をこうやって合理的に使うのならば文句は無い。
このシステムで欠点があるとすれば、コンテナの中身が見えないので別の物を入れても分からないということだろう。
だがコンテナの大きさは普通に生活していれば充分な大きさだし、広報活動により各家庭で最低限の分別を促すことが出来る。
落ち葉の時期や木の枝を大量に切ったときには緑に1回で入りきれないが、そんな時は自分でゴミ捨て場に持っていくシステムもある。
昔話で村の人が持ち寄りパーティーでワインを持ってきてブレンドしたら水だった、という話がある。
自分1人ぐらいという考え、エゴがあるとこうなってしまう。
分別だってあまり細かく押しつけられたらやらない人だって出てくるだろう。
だが3種類位の分別なら誰でもできるはずだ。
それさえもやらないなら人間失格である。
行政がきちんと受け皿を用意してくれて、個人や各家庭がそれに沿って生活をすれば社会はずいぶんとすっきりする。
大人の社会とはこういう事を言うのだろう。
以前読んだ本でゴミ収集の話があった。
坂本信一著 『ゴミにまみれて』
日本のゴミ事情を現場からの視点で書いた本で、もう長いこと我が家の本棚に収まっている。
もう悲愴感の固まり、のような本だが、日本という国をあらわしていると思った。
ゴミのことで日本とニュージーランドを比較しても意味はない。
このシステムがどんなに良いものだとしても集合住宅が多い日本では不可能だ。
人口がこれくらいのニュージーランドだからできるわけで、それを違う環境で押しつけることは全く無意味なのだ。
ここは土地がたくさんあるので埋め立てができるが、日本ならばまず焼却しなければならない。分別のシステムだって変わってくる。
所変われば・・・なのである。
台所で洗い物をしていると通りの向こうからゴミの車が来るのが見えた。
なんとなくピンと来た。
以前からゴミを集めている所を写真に取りたいと思っていたのだ。
今がその時だ。
カメラを持って通りに出た。
トラックは作業をしながらゆっくりと近づいてくる。
『どうか今日一日、このゴミを集めている人が気持ちよく仕事ができますように』
トラックが来るまでボクは心の中で唱えた。
緑色のトラックが家の前まで来た。
ボクは手を挙げて挨拶をしたら運転席から陽気な声が聞こえてきた。
「オハヨーゴザイマース」
いつかアリガトーと言ってくれたあの兄ちゃんだ。
作業の様子をカメラにおさめたボクに彼は言った。
「シャシン、20ドル」
そして笑いながら次の家へと去っていった。
こういうのもいいもんだ。
それにしてもこのコンテナの色、どこで見たっけかなあ?
家の前の通りが緩やかにS字に曲がっていて、赤っぽい葉を茂らせた街路樹が並んでいる。
ボクはここから見えるこの道の風景が好きだ。
そんな通りに週に1回、道の両脇にプラスチックの入れ物が並ぶ。
毎週木曜日はゴミの日である。
クライストチャーチのゴミ収集はとても合理的だ。
各家庭に3つ、フタが色違いのコンテナ(容器)がある。コンテナは市で用意してくれた物だ。
緑色はオーガニック。
台所で出る生ゴミ、庭で出る芝生を刈ったものや雑草など土に還るものはこちら。
たぶんどこかでボカシを使って分解しているのだと思う。
黄色はリサイクル。
ガラスびん、ペットボトル、空き缶、紙などリサイクルできるものはこれに入れる。
その他のゴミは赤色のコンテナ。
子供でも分かる分別のシステムだ。
緑色は毎週、赤と黄色は各週の収集で、ある週は緑と赤の日、次の週は緑と黄色といったぐあいである。
その日には通りが全てその色になるので間違えることもない。
それを集めるトラックも赤、黄、緑色に塗り分けられている。
ゴミを考える上で一番気になるのは台所の生ゴミであろう。
我が家では生ゴミは庭で堆肥にしているが、全ての人がそれをできる訳ではない。
放っておけば腐って臭くなるし、虫だって寄ってくる。
市で普及された容器はフタもしっかりしていて虫も入らない。
週に1回の収集ならば腐敗する前に持っていってくれる。
リサイクルはどこかでまとめて細かく分別するのだろう。
リサイクルできる物は全てこの容器に入れる。
各家庭でさらに細かく分別するのを考えるとシステムは複雑になる。
これぐらいの分別のシステムがいいのだろう。
リサイクルとその他のゴミは基本的に腐る物はないので2週間に1回で充分だ。
合理的である。
コンテナには車輪が付いていて、傾けてガラガラ動かし家の前へ出す。
専用のトラックが来て、特殊なアームでガチッとコンテナを掴み持ち上げ、上からガサガサとゴミをトラックに入れる。
元の場所にコンテナを置いて、次の家にといった具合である。
このシステムだと働く人がゴミに接触しない。
合理的だ。
ある時、トラックがゴミを集めるのを見ていた。
家の前に止まって作業が終わった時にドライバーが話しかけてきた。
「どこから来たんだ?」
「日本だ」
「アリガトー」
ボクは笑いながら言い返した。
「どうもありがとう」
妻が言った。
「働く人に悲愴感がないわね」
確かにそうだ。
ゴミといった人間の生活から切り離せないもの、それでいてあまり人がやりたがらない仕事につきものも悲愴感は無い。
働く人がにこやかに生き生きと仕事をしている。
以前は人の手でトラックにゴミを入れていた。
運転する人とゴミを集める人、二人でペアになって仕事をしていた。
その作業は見ていても『大変だなあ』という想いを持った。
リサイクルだって以前はトラックを運転する人、集める人、トラックの中でビンと缶と紙に分別する人、と3人1チームでやっていた。
細かい分別作業を1カ所でまとめてやる、新しい機械の導入、各家庭にコンテナーを配るなどシステムを変えることにより、人が費やすエネルギーを減らす事ができるし、働きやすい環境ができる。
税金をこうやって合理的に使うのならば文句は無い。
このシステムで欠点があるとすれば、コンテナの中身が見えないので別の物を入れても分からないということだろう。
だがコンテナの大きさは普通に生活していれば充分な大きさだし、広報活動により各家庭で最低限の分別を促すことが出来る。
落ち葉の時期や木の枝を大量に切ったときには緑に1回で入りきれないが、そんな時は自分でゴミ捨て場に持っていくシステムもある。
昔話で村の人が持ち寄りパーティーでワインを持ってきてブレンドしたら水だった、という話がある。
自分1人ぐらいという考え、エゴがあるとこうなってしまう。
分別だってあまり細かく押しつけられたらやらない人だって出てくるだろう。
だが3種類位の分別なら誰でもできるはずだ。
それさえもやらないなら人間失格である。
行政がきちんと受け皿を用意してくれて、個人や各家庭がそれに沿って生活をすれば社会はずいぶんとすっきりする。
大人の社会とはこういう事を言うのだろう。
以前読んだ本でゴミ収集の話があった。
坂本信一著 『ゴミにまみれて』
日本のゴミ事情を現場からの視点で書いた本で、もう長いこと我が家の本棚に収まっている。
もう悲愴感の固まり、のような本だが、日本という国をあらわしていると思った。
ゴミのことで日本とニュージーランドを比較しても意味はない。
このシステムがどんなに良いものだとしても集合住宅が多い日本では不可能だ。
人口がこれくらいのニュージーランドだからできるわけで、それを違う環境で押しつけることは全く無意味なのだ。
ここは土地がたくさんあるので埋め立てができるが、日本ならばまず焼却しなければならない。分別のシステムだって変わってくる。
所変われば・・・なのである。
台所で洗い物をしていると通りの向こうからゴミの車が来るのが見えた。
なんとなくピンと来た。
以前からゴミを集めている所を写真に取りたいと思っていたのだ。
今がその時だ。
カメラを持って通りに出た。
トラックは作業をしながらゆっくりと近づいてくる。
『どうか今日一日、このゴミを集めている人が気持ちよく仕事ができますように』
トラックが来るまでボクは心の中で唱えた。
緑色のトラックが家の前まで来た。
ボクは手を挙げて挨拶をしたら運転席から陽気な声が聞こえてきた。
「オハヨーゴザイマース」
いつかアリガトーと言ってくれたあの兄ちゃんだ。
作業の様子をカメラにおさめたボクに彼は言った。
「シャシン、20ドル」
そして笑いながら次の家へと去っていった。
こういうのもいいもんだ。
それにしてもこのコンテナの色、どこで見たっけかなあ?
いい話だったんでリンクというか、チェックさせてもらいました。よろしくで~す。
ん~信号ねえ。それもあったな。
でもさ、もっと身近にあったような・・・。
なんか細長いヤツ。
気のせいかなあ・・・。
Bubblesさん
お久しぶりです。
チェックありがとう。
今年も来ていたんでしょうか?
いつかゆっくりと会いたいですね。
なんだろう?身近にあった??
あまりマジメに考えてもらうと困るんですが・・・。
流線型の、ジャマイカのボブスレーみたいなヤツです。ハイ。
ちなみにこちらではラスターの棺桶などと呼ばれたりしています。