あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

何故僕らは野菜を育てるのか。 家庭菜園をする理由。

2024-02-03 | 


庭で野菜を育て始め十数年になる。
自分が若い時にはまさか自分がそんなことをするなんて思いもしなかったが、なんとなく今までやってきて、たぶんこれからも死ぬまでやり続けることだろう。
何故自分は野菜を作るのだろうか。
自分が野菜を作らなくても生きていける。
ちゃんと働いて、自分の時間と労働力を資本家に売って代償に金を貰えば、その金で野菜は買える。
世の中には自分で野菜を作っていない人の方がはるかに多い。
生産者と消費者が分かれることにより、社会を維持する効率が上がる。
分業は人類の歴史を見ても社会の発展に欠かせない。
例えば日本で言えば江戸という消費型の大都市ができ、それを支える生産社会が周囲にできた。
生産と消費が分かれ、さらに陸運や海運という流通システムが進んだ。
生産者と消費者をつなぐものは金であり、金融のシステムも発展していった。
漠然と、本当に漠然とだが、そうやって社会が進化したとも言える。
では何故その流れに乗らずに自分は野菜を作るのか?
物事を論理的に考えることで、自分の内側を観ることができる。
あるポッドキャストでうまく言語化したものがあったので、それを元に自分なりに考えてみた。




家庭菜園をやる動機は一つだけでなく、複数の動機から成り立っている。
それぞれの動機が占める割合は人によって違う。
先ずはつらつらとその動機を挙げてみよう。
・お金の節約の為
・美味しい物が食べたいから
・安全で健康な物を食べたいから
・絶対的な善行
・社会的意義
・見栄 世間体
・健康の為
・楽しい 面白いから
ざっと思いつくのはこんなところかな。
ではそれぞれに自分なりの考えを述べてみる。




先ずはお金の節約の為に家庭菜園をする。
これは何も間違っていないし、自分のできることで生活費の支出を減らすということを古今東西人間はやってきた。
ただしお金の節約を最優先にしている人の場合、長くは続かないような気がする。
逆を返して言えば、お金があるならやらないということだ。
よく人に言われるのが「卵や野菜にお金がかからなくていいですね」というセリフだが、そこに関わる労働力や時間や様々な支出を考えると、自分で作っているからと言って完全にタダというわけではない。
人がいかに物事の一面だけをみて全体を把握するかという話でもある。



次に挙げたのが美味しい物を食べたいから。
僕の場合はここがかなりの割合を占める。
基本的に食いしん坊で凝り性なので、美味しい卵かけご飯を食べたいという理由で鶏を飼い始めた。
取りたてで新鮮な野菜や卵の美味さは作った人の特権である。
作る人だから知る、野菜や果物の一番美味い瞬間というものがあるのだ。
そして似た話で安全で健康な物を食べたい。
これは美味しい話に繋がるが、食の安全という観点で自分が作った物ならそれがはっきり見える。
これも家庭菜園という少量多品目だからこその話でもある。
自分のところではキャベツを作っているが、数が少ないので青虫などは自分で探し出して鶏のエサにしてしまう。
だが見渡す限りのキャベツ畑でそれができるかと問われれば答えは否である。
そうなったら薬をまくしかない。
たまに化学肥料や農薬を全否定する人がいるが、今の社会はそういう物事の上に出来上がっている。
全てをオーガニックにして今の世界の人口を養えるとは思えない。
僕個人で言えば否定も肯定もしない。
自分で作っていない野菜は八百屋で買うが、作っている農家には敬意を払うというところだ。



次に挙げたのが絶対的な善という概念。
善は良い物であり悪は悪い事なので良い事をしましょう、という勧善懲悪的なおかつ単純な二元性で社会はできているわけではない。
この人にとって良い事は別の人にとって悪い事という例えはいくらでもあるし、「人は善い行いをしながら悪い事をして、悪行の中で善い行いをするものだ」と鬼平も言っている。
歴史を学んで分かったことだが、ある出来事がこの時代では良かったが別の時代では悪いこととなりさらに次の時代では良くなるなんてこともある。
つまり良い悪いという概念は、時代や社会や立場によってコロコロ変わるものなのだ。
そんな中で、人間が食べる物を生産するという行為自体は何の後ろめたさもない絶対的に正しい事であり、良いことであり善行なのだ。
家庭菜園で野菜を作っていると言えば、全ての人に褒められ、けなされたことは一度もない。
まるで神様が後押ししてくれるような心地良さ、それが絶対的な善なのであり、それを行う快感のようなものがある。



社会的意義。
これは善と重なるところもあるが、自分がそれをすることによって人に与える影響があるという話。
白馬に住むカズヤ宅や北海道のガイドの山小屋宅でも庭の畑で野菜を作っているが、モデルになったのは我が家の畑だと言っていた。
自分だって人がニワトリを飼っているのを見て「ああ、これならうちでもでもできそうだなぁ」とイメージが湧いた。
そのようにまだやっていない人に、やる勇気を与えるという一面もある。
とかく人は勝手に「そんなのむずかしいんじゃないか」というハードルを作るが、そのハードルを下げる役割とも言えよう。
友達からそういう話を聞くと、まあ自分がやっていることも単なる自己満足ではなく、社会的意義もあるのかと納得するのだ。



はいそして見栄や世間体。
「こういうことを自分はやっているんですよ。どうです、すごいでしょう」というような見栄は自分にもある。
でもそれが全くないとしたらそれはそれで人間臭くなくてつまらないじゃないか。
誰もがそういう想いを持っているから、SNSでも家庭菜園のコミュニティもあるし、庭自慢みたいな投稿もある。
「みんなもっと褒めて、もっと認めて!」と承認欲求の固まりになったら嫌味だが、ほどほどにそういう気持ちを持つ分には人間らしさという感じで良し。これまたバランスだな。



健康の為。
人は土に触れることで免疫力が高まる、という話をどこかで読んだことがある。
そういうこともあるかもな、と漠然と思った。
最近ではエビデンスを出せとか科学的根拠は?とか言う輩が多いが、なんとなくそう思うというのは理由としてありだと思う。
そして適度な運動は体に良いのはわかりきっている。
これまた程度の問題でもあるが、気持ち良く働くのは精神的にも良い。
これが仕事として農業をやるとなれば話は別で、時にやりたくない作業をしたり働き過ぎで体調を崩すこともあるかもしれない。
だがたかが家庭菜園、いやいややるとか自分の体調を崩してまですることではなかろう。
嫌ならやらなきゃいい、あくまで自分の気持ちでという精神的な健康面はある。



最後に楽しいから面白いから
ある時にうちの畑を見た人が羨ましそうに言った。
「ずいぶん面白そうな事をやっているなあ」
その人は農業関係で働いているが、最近ではシステムを回す仕事が増えて実際に現場での仕事は少ないと言う。
農業に関わる人が畑を見れば、その人の考え方、実力、行動力、果ては生き方や世界観まで見えるだろう。
僕が畑をやっているのも面白いからというのが最大の理由である。
自分の目の届く範囲で色々な実験をやっているような感覚だ。
時に上手くいくし時に上手くいかない。
上手くいかない時にはどうしてかと考えたり、情報を探したりという自主的な勉強もする。
上手くいった時には嬉しいし美味しいし、自然に大地に感謝をする感情が芽生える。
そういうの全てひっくるめて面白いのである。
人間誰しも嫌いな事はやりたくないし、楽しい事はいつまでも続けていられる。
だけど生きていくためには嫌いな事もやらなくてはならないのも事実だが、そのバランスをとりながら人は生きていく。
自分が楽しくて、なおかつそれが世のため人のためになるならこんなすばらしい事はない。
人が行動を起こすのは常に複合的な理由がある。
畑をやるのも理由はたくさんあり、その割合も人により様々であるし、同じ人でも時間が変わればそれも変わる。
こうやって構造的に物を考えると、自分が今どれぐらいの位置にいるんだろうと俯瞰で物を見ることができる。
そんな事をぼんやりと考えながら、たぶんこれからも野菜を作り続けるのだろうな。




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