元治元(1864)年7月11日、佐久間象山が木屋町三条上ルの路上で河上彦斎らに暗殺される。享年53歳。
象山は、信州松代藩士で、登用されたのは彦根藩十代藩主・井伊直幸の息子・幸専が藩主だった時代ではなく、その養子で松平定信の息子・幸貫の時ですので直接彦根藩に関わる事は殆どありません。
あえて探すなら、井伊直弼が幕政に参加しはじめた頃に老中だった阿部正弘が何かと気にかけていた学者として直弼の耳にも入っていたと言うくらいでしょうか?
しかし、幕末を扱ったドラマなどで深く歴史を追求しているものでしたら象山の口から彦根城の言葉が出てきます。そしてこれが象山暗殺の原因となるのです。
前の年の八月十八日の政変や、この年の祇園祭に起った池田屋事件などで追い詰められていた尊王攘夷派の不満が京都の町の中で日に日に大きくなっていました。
そんな京都の街中を白馬に乗せた西洋鞍に跨って闊歩している一人の男は、あまりにも無用心だったと言うしかありませんね。
その男は佐久間象山。
この頃、長州藩士が朝廷を襲って天皇を拉致する計画があったと言う噂があり、象山は「天皇を守るために彦根城に行幸する事」を進言したと言われています。
象山が元々開国論者であった事・天皇を彦根に移す計画、そして堂々過ぎる京都での態度に怒りを覚えた刺客・河上彦斎らによって木屋町三条上ルの路上で襲われたのでした。
象山は、最初に斬りかかられた時に馬を走らせて逃げようとしたが、馬の前に彦斎が立ちはだかって落馬。
刀を抜いて振りかぶった処で彦斎に斬り下げられ後ろから彦斎の同志に刺し貫かれて絶命したのです。
彦斎はこの前から人斬りとして有名でしたが、この時「初めて人を斬ったと思った」と後述しています。
ちなみに、象山は開国論者でありながら黒船来航時には徹底抗戦論を幕府に提出しています。
この意見書は無視されますが、もしかしたらこの後に大きな戦略を秘めていたのかも知れませんね。
象山は、信州松代藩士で、登用されたのは彦根藩十代藩主・井伊直幸の息子・幸専が藩主だった時代ではなく、その養子で松平定信の息子・幸貫の時ですので直接彦根藩に関わる事は殆どありません。
あえて探すなら、井伊直弼が幕政に参加しはじめた頃に老中だった阿部正弘が何かと気にかけていた学者として直弼の耳にも入っていたと言うくらいでしょうか?
しかし、幕末を扱ったドラマなどで深く歴史を追求しているものでしたら象山の口から彦根城の言葉が出てきます。そしてこれが象山暗殺の原因となるのです。
前の年の八月十八日の政変や、この年の祇園祭に起った池田屋事件などで追い詰められていた尊王攘夷派の不満が京都の町の中で日に日に大きくなっていました。
そんな京都の街中を白馬に乗せた西洋鞍に跨って闊歩している一人の男は、あまりにも無用心だったと言うしかありませんね。
その男は佐久間象山。
この頃、長州藩士が朝廷を襲って天皇を拉致する計画があったと言う噂があり、象山は「天皇を守るために彦根城に行幸する事」を進言したと言われています。
象山が元々開国論者であった事・天皇を彦根に移す計画、そして堂々過ぎる京都での態度に怒りを覚えた刺客・河上彦斎らによって木屋町三条上ルの路上で襲われたのでした。
象山は、最初に斬りかかられた時に馬を走らせて逃げようとしたが、馬の前に彦斎が立ちはだかって落馬。
刀を抜いて振りかぶった処で彦斎に斬り下げられ後ろから彦斎の同志に刺し貫かれて絶命したのです。
彦斎はこの前から人斬りとして有名でしたが、この時「初めて人を斬ったと思った」と後述しています。
ちなみに、象山は開国論者でありながら黒船来航時には徹底抗戦論を幕府に提出しています。
この意見書は無視されますが、もしかしたらこの後に大きな戦略を秘めていたのかも知れませんね。