須磨寺駅の近くにある平重衝とらわれの地から道なりに行くと、須磨寺があります。
ここは、一ノ谷の戦いで討たれた平敦盛の菩提寺でもあります。
この為に、敦盛に関する物がおおくあります。一番の見どころは、敦盛と直実の一騎打ちを再現した源平の庭です。
また敦盛の首を洗ったという池と、義経が首の検分のために腰をかけたという松もあります。
当然、敦盛の首塚もあります。
首塚の隣りには、敦盛の800回忌を記念して再建された三重塔が建ちます。
そして、絵馬にも敦盛が描かれているのです。
宝物殿には、敦盛の鎧や愛用していた青葉の笛などを観ることができます。
また、須磨寺は南北朝時代に起こった湊川の戦いで足利義直が軍勢を入れた地でもあるのです。
(この話は『平清盛』には直接関係ないですが…)
そんな須磨は『源氏物語』にも登場します。
兄であり帝でもある朱雀帝の妃・朧月夜の君と逢瀬を重ねた光源氏は、それが発覚して自ら須磨に行き蟄居します。源氏の大きな失脚でした。
須磨では、月にかかる松を見上げるなどして過ごした光源氏。その光源氏が住んだ場所の批准地になっているのが源氏寺との異名を持つ現光寺です。
光源氏が見たという松もあります。
物語の中とはいえ、『源氏物語』には、モデルになった人物がいたり、それらしい批准地があるなど空想を越えた現実の楽しみ方もできるんですね。
そんな須磨を出て、平清盛が一時期都を置いた福原に向かうのですが、その道中でもう2か所だけ一ノ谷の戦いの史跡を訪れました。それが平忠度の腕塚と銅塚です。
平忠度は、清盛の弟(忠盛の六男)で和歌の名手でもある貴公子でした。一ノ谷の戦いでは源氏方の岡部忠澄と戦って優位に立つのですが、忠澄の家臣に腕を斬られ、そのまま首を差し出したのです。
その斬られた腕塚があります。
腕塚から300mほど東には胴塚もあるのです。
平忠度は、“ただのり”という名なのですが、それと同時に薩摩守という官職も持っていました。この事から乗り物をタダ乗りすることを薩摩守というギャグが古くから語られています。
そして前田慶次郎が、関ヶ原の戦いの後に京から米沢まで移動する時に記していた道中日記に、琵琶湖で舟に乗っていた慶次郎たちに船頭が薩摩湊(彦根市薩摩町)で休憩することを告げ、慶次郎が「薩摩なら、この船をタダにしろ」との冗談をいったという記録もあるのです。
ここは、一ノ谷の戦いで討たれた平敦盛の菩提寺でもあります。
この為に、敦盛に関する物がおおくあります。一番の見どころは、敦盛と直実の一騎打ちを再現した源平の庭です。
また敦盛の首を洗ったという池と、義経が首の検分のために腰をかけたという松もあります。
当然、敦盛の首塚もあります。
首塚の隣りには、敦盛の800回忌を記念して再建された三重塔が建ちます。
そして、絵馬にも敦盛が描かれているのです。
宝物殿には、敦盛の鎧や愛用していた青葉の笛などを観ることができます。
また、須磨寺は南北朝時代に起こった湊川の戦いで足利義直が軍勢を入れた地でもあるのです。
(この話は『平清盛』には直接関係ないですが…)
そんな須磨は『源氏物語』にも登場します。
兄であり帝でもある朱雀帝の妃・朧月夜の君と逢瀬を重ねた光源氏は、それが発覚して自ら須磨に行き蟄居します。源氏の大きな失脚でした。
須磨では、月にかかる松を見上げるなどして過ごした光源氏。その光源氏が住んだ場所の批准地になっているのが源氏寺との異名を持つ現光寺です。
光源氏が見たという松もあります。
物語の中とはいえ、『源氏物語』には、モデルになった人物がいたり、それらしい批准地があるなど空想を越えた現実の楽しみ方もできるんですね。
そんな須磨を出て、平清盛が一時期都を置いた福原に向かうのですが、その道中でもう2か所だけ一ノ谷の戦いの史跡を訪れました。それが平忠度の腕塚と銅塚です。
平忠度は、清盛の弟(忠盛の六男)で和歌の名手でもある貴公子でした。一ノ谷の戦いでは源氏方の岡部忠澄と戦って優位に立つのですが、忠澄の家臣に腕を斬られ、そのまま首を差し出したのです。
その斬られた腕塚があります。
腕塚から300mほど東には胴塚もあるのです。
平忠度は、“ただのり”という名なのですが、それと同時に薩摩守という官職も持っていました。この事から乗り物をタダ乗りすることを薩摩守というギャグが古くから語られています。
そして前田慶次郎が、関ヶ原の戦いの後に京から米沢まで移動する時に記していた道中日記に、琵琶湖で舟に乗っていた慶次郎たちに船頭が薩摩湊(彦根市薩摩町)で休憩することを告げ、慶次郎が「薩摩なら、この船をタダにしろ」との冗談をいったという記録もあるのです。