彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

水口岡山城 第1次発掘調査説明会

2013年03月03日 | 史跡
水口岡山城で破城の跡が出たとニュースになりました。
その現地説明会を聞きに行ってきました。

水口岡山城は、東海道の抑えのために天正13年(1585)に中村一氏によって築城されました。天正18年に豊臣秀吉が天下を統一すると増田長盛が5年、長束正家が5年の計10年間豊臣家五奉行に名を連ねることになる二人が城主をします。
伝承では石田三成が4万石で入り、ここの城主時代に1万5千石で島左近を召し抱えたという話がありますが、水口岡山城を三成が治めていた可能性はほぼないです。
そんな水口岡山城は、もともとここに大岡寺があった(今は山の麓に建っている)事から、水口の岡山の城という意味で今はこう呼ばれていますが、昔の正式な呼び名はわからず、「水口の城」や「甲賀の城」と呼ばれていたそうです。

遺物の中には築城前の瓦もありました。

写真の左が室町時代前期、真ん中と右は室町後期の物らしいですが、大岡寺との関わりはまだわからないそうです。
そして水口岡山城の瓦も出てきました。
 
金瓦は出てこなかったそうですが、本丸はこれからなので、もしかしたらとの期待もありますね…

今回の大きなメインは大手枡形虎口が石垣造りであった痕跡と、そこが破城されていた実態です。
破城とは、城が廃城になったあとで利用されないように軍事施設を壊す方法です。大坂冬の陣の後で大坂城が丸裸にされたのもその一つです。
そんな大手枡形虎口の石垣
 
一段の下辺の石垣と、そこから広がる敷石があり、奥には石垣の基礎になる栗石が残り、手前には石垣に使っていた大きめの石が無理やり崩されています。
石垣の間に詰めたのか? 建物の名残か? 瓦も挟まっていました。

敷石は石畳のように敷かれていたようで、階段状ではなくバリアフリーだったのではないかとのことでした。

ちなみに、想定される石垣の高さより石が少ないため、どこかに持って行って利用した可能性はあるとのことでした。
また、石の質がまだ未調査なのでどこの石かは確定できないそうですが、この山では栗石は採れても、石垣に使える物は採れないそうです。

道の反対側の発掘

ここにはあからさまに人口の地層も見えました。


もう一か所の発掘地点は伝西の丸の曲輪
 
もともと岩石が見えたので、石垣があるのではないかと掘ってみたら岩しかなく、切岸にしていたことが分かったそうです。
しかもこの岩は崩れやすく発掘で少し触っただけでも崩れるものだったそうです。
逆に言えば崩れやすいから守りに適しているのではないかとも考えてしまいました。

今回の発掘で、水口岡山城が石垣を使っていたこと、そして東海道や城下とは反対側の石垣はそのまま残っているのに対して、城下側(人の目に触れる部分)は徹底的に壊していることから、悪用されないためであると同時に、権力者が変わったことの象徴ではないかとのことでした。
コメント
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