福井市新田塚町 新田塚



南北朝時代を代表する新田義貞は、鎌倉に攻め入って北条得宗家を滅ぼしたこともあり、名将だと思われがちですが、その用兵は素直すぎて策はなく戦いには弱い武将でした。
そのため、楠木正成や北畠顕家など軍略に優れた武将が討死した後に南朝を背負いながらも北陸の戦線を後退し続けるしかなかったのです。
そんな中、藤島城を救うべく燈明寺と言う場所に出陣した時に斯波高経軍と戦うこととなり、この地で義貞は討死しました。
暦応元年(建武5年・1338)閏7月2日のことでした。
明暦2年(1656)、この地の田の中から「元応元年八月」(1319年)の銘が刻まれた兜が発見され、福井藩主松平光通(松平家は新田義貞の子孫を称している)が、これを義貞の兜と認定して4年後に「暦応元年閏七月二日新田義貞戦死此地」との石碑を建立し、以来新田塚と呼ばれています。


今は、この石碑をお堂が囲っています。




