以前も書いた事があるのですが、僕の持っている史料の中に武士の名刺があります。
昔の名刺は今のように大きさや材質が統一されていた訳ではなく、紙や木片など様々であり、名刺交換をするというよりも、訪問先の主人が不在の時に置いておくなどの使い方がされていました。
さまざまな文書などをまとめて購入したときに見つけたのが「太田備後守家来 青木権之丞」と書かれたものでした。
いきなり江戸時代の武士から名刺を渡された気分になり、どんな人物かを調べたいと思っていたのですが、まず手掛かりは「太田備後守」です。
これは、天保の改革や井伊直弼政権で老中を勤めた太田備後守資始だとわかりました。
…となると、幕末の掛川藩士と言うことになります。
古文書の束の中からは、秋葉神社のお札を包んだ青木某(読めない)の名前もありましたので一緒に掛川に持ち込んで調べることにしたのです。
まず、掛川城天守のガイドさんに聞いたら「太田氏に備中守はいるけど、備後守は居ない」と一蹴されてしまいましたが、図書館に幕末の藩士名簿があると教えて下さいました。
そして図書館で相談すると、名簿を調べて下さいました。
確かに「青木権之丞」は藩士の中にいて、代々同じ名を使っていたこと、どの時代の権之丞かは分からないけど大目付に就いた人物が居ること。
もう一つの史料の青木某は「青木源太兵衛」と書かれていて、たぶん親子(源太兵衛の方が家長か)。源太兵衛は代々「番頭」「槍奉行」「物頭」「小屋奉行」を務めていたこと。
そして、維新後に掛川藩が千葉に転封になったときは青木家は68俵の俸禄しかないため大目付の家とは思えずどこかの時期に何かやらかしたのではないか?とのことでした。
幕末期の藩士ならば史料があるかと思ったのですが、明治維新後に徳川宗家が入ったために駿河や遠江の大名は軒並み転封させられて史料も持って行ったり処分されているとのことでした。
ちなみに、転封自体が急なので移転先の藩士達は寺や庄屋などの所に間借りしたそうで、青木源太兵衛と権之丞も牛熊村の龍□院に仮住まいをしたことまではわかりました。
まだ何もわからないには等しいかもしれませんが、実在した人物であることや地位などがわかったことは大きな前進だと思いたいです。