彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

5月22日、北畠顕家討死

2020年05月22日 | 何の日?
建武5年(1338)5月22日、北畠顕家が討死しました。
大河ドラマ『太平記』では後藤久美子さんが演じた美男子イメージが強いですが、21歳で南朝に殉じて亡くなったことでの悲劇の若武者であったこともイケメンイメージを上げているとは思います。

しかし、顕家は普通の武将だったわけではなく、二回も東北から関西まで攻め上がった名将だったことは間違いありません。
16歳のときに「陸奥守」に任じられて、父の北畠親房とともに国府多賀城に入って東北地方を治めて行きます。

三年の治世の末に、足利尊氏が後醍醐天皇に反発して京を支配したことから多賀城から京まで一気に進軍して尊氏を追い出しました。尊氏は九州まで逃れて再起を計ることなります。
再び多賀城に戻り、霊山に拠点を移動したものの二年後にまた京に返り咲いた尊氏を攻めることになります。二度目のときはすでに楠木正成が亡くなっていて北陸にいた新田義貞と呼応しての進軍のはずでしたが、義貞は次男の義興を派遣したのみでした。それでも霊山をでた顕家は関東の足利氏の拠点を混乱に追い込み、鎌倉を守る斯波家長を討っています。

二度目の上洛戦では、東北からの連戦の果てに、関ヶ原で3回行われた戦いの一つである、青野ケ原の戦いで勝利を収めますが、黒血川を守る佐々木道誉らの軍を前に奈良に逃れ、河内の戦いで高師直らと戦い、討死したのです。

顕家が戦った地に阿倍野神社が建ち、




近くの北畠公園にお墓があります。









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