元暦2年(1185)7月9日正午ころ、京都で大地震が起こりました。
この地震については鴨長明が『方丈記』の中で触れていますので、その内容を中心に紹介します。
その記事は『方丈記』の真ん中あたりに、「また、同じころかとよ」の出だしで書かれています。
簡単に内容を書きますと、
「すごい大地震があり、山は崩れ、川は埋まって、琵琶湖は傾斜し湖水が陸に上がった。京では寺の建物が倒壊し残った物はなかった。建物が倒れる音は雷と同じだった。家の中にいるとつぶされるので外に出ると亀裂が走る。翼が無いので飛ぶこともできず、人間であることがむなしかった。そして何よりも恐ろしい物は地震だと痛感した。
ある武士の子どもは、遊んでいる時に倒れてきた土塀に潰され、目などは両方とも一寸も飛び出していた、父母は嘆き悲しんでいて、勇敢な武士でも人目を幅まらずに悲しむ姿は気の毒だった。
この激しい揺れはすぐに止まったが、その後も何度も揺れた。これは普段なら驚くくらいの地震だった。大地震の直後は1日に2.30回くらい揺れた。10日、20日と過ぎると1日に4.5回、2.3回と減り、1日おきになり、2.3日に1回となったが3ヶ月は揺れが続いた。
仏教では、火水風はいつも災害を起こすが、地は変化しないと思っていた。昔、斉衡年間(854~857)に大地震があって東大寺の大仏の首が落ちるということがあったそうだが、その地震も今回の激しさには敵わないだろう(斉衡2年に地震で落下、原因は首の重み)。
今回の地震を体験した人々は、みんなあじなきこと(「つまらない」と訳すそうですが、ちょっと疑問が…)と話し合ったので、煩悩は薄れるかと思ったけれど、月日が流れると大地震のことや、それによって世を儚いと思ったことを言う人はいなくなった」
と、記されています。
最近の研究では、この地震は琵琶湖西岸断層によって堅田辺りを震源とした地震とされていてマグニチュード7.4と推定されています。
記録にあるように、延暦寺の建物や法勝寺、南大門などが倒壊し、宇治川の宇治橋が落ちて1人が溺れ死んだそうです。
滋賀県教育委員会が行った平成20年塩津港遺跡の発掘調査で、琵琶湖の北部に位置する塩津港遺跡から5体の木像神仏が見つかりました。
その後の調査で、この木像神仏は、海運の安全を願って琵琶湖に向かって建てられていた神社がこの地震で流されて、その時に埋まった物だとわかったのです。
堅田辺りを震源とした地震によって、琵琶湖を南北に横断する津波が起こり、それによって神社が倒壊したことを示す災害の目撃者でもあったのでした。
鴨長明は、それほどの大地震で余震が3ヶ月も続いた大惨事でありながら、時間が過ぎると人々の話題になることが無くなったと嘆いています。
京都地震が1185年、この地震の3ヶ月前に壇ノ浦で平家が滅亡し安徳天皇が非業の死を迎えたために、平家の怨霊とも騒がれた地震でしたが、『方丈記』が書かれた建暦2年(1212)ではそんな状態だったのです。
30年も満たない間に記憶から薄れてしまう大震災。これをどのような教訓として生かすかも大きな課題のように思えますね。
この地震については鴨長明が『方丈記』の中で触れていますので、その内容を中心に紹介します。
その記事は『方丈記』の真ん中あたりに、「また、同じころかとよ」の出だしで書かれています。
簡単に内容を書きますと、
「すごい大地震があり、山は崩れ、川は埋まって、琵琶湖は傾斜し湖水が陸に上がった。京では寺の建物が倒壊し残った物はなかった。建物が倒れる音は雷と同じだった。家の中にいるとつぶされるので外に出ると亀裂が走る。翼が無いので飛ぶこともできず、人間であることがむなしかった。そして何よりも恐ろしい物は地震だと痛感した。
ある武士の子どもは、遊んでいる時に倒れてきた土塀に潰され、目などは両方とも一寸も飛び出していた、父母は嘆き悲しんでいて、勇敢な武士でも人目を幅まらずに悲しむ姿は気の毒だった。
この激しい揺れはすぐに止まったが、その後も何度も揺れた。これは普段なら驚くくらいの地震だった。大地震の直後は1日に2.30回くらい揺れた。10日、20日と過ぎると1日に4.5回、2.3回と減り、1日おきになり、2.3日に1回となったが3ヶ月は揺れが続いた。
仏教では、火水風はいつも災害を起こすが、地は変化しないと思っていた。昔、斉衡年間(854~857)に大地震があって東大寺の大仏の首が落ちるということがあったそうだが、その地震も今回の激しさには敵わないだろう(斉衡2年に地震で落下、原因は首の重み)。
今回の地震を体験した人々は、みんなあじなきこと(「つまらない」と訳すそうですが、ちょっと疑問が…)と話し合ったので、煩悩は薄れるかと思ったけれど、月日が流れると大地震のことや、それによって世を儚いと思ったことを言う人はいなくなった」
と、記されています。
最近の研究では、この地震は琵琶湖西岸断層によって堅田辺りを震源とした地震とされていてマグニチュード7.4と推定されています。
記録にあるように、延暦寺の建物や法勝寺、南大門などが倒壊し、宇治川の宇治橋が落ちて1人が溺れ死んだそうです。
滋賀県教育委員会が行った平成20年塩津港遺跡の発掘調査で、琵琶湖の北部に位置する塩津港遺跡から5体の木像神仏が見つかりました。
その後の調査で、この木像神仏は、海運の安全を願って琵琶湖に向かって建てられていた神社がこの地震で流されて、その時に埋まった物だとわかったのです。
堅田辺りを震源とした地震によって、琵琶湖を南北に横断する津波が起こり、それによって神社が倒壊したことを示す災害の目撃者でもあったのでした。
鴨長明は、それほどの大地震で余震が3ヶ月も続いた大惨事でありながら、時間が過ぎると人々の話題になることが無くなったと嘆いています。
京都地震が1185年、この地震の3ヶ月前に壇ノ浦で平家が滅亡し安徳天皇が非業の死を迎えたために、平家の怨霊とも騒がれた地震でしたが、『方丈記』が書かれた建暦2年(1212)ではそんな状態だったのです。
30年も満たない間に記憶から薄れてしまう大震災。これをどのような教訓として生かすかも大きな課題のように思えますね。