保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

シリーズ「こんな会社があったのか?」~保津川観光ホテル~

2018-02-27 10:14:10 | 保津川下りものがたり
JR亀岡駅北口から望むと、コンクリート造りの古びた建物が目に留まる。

この建物は昭和33年(1958)に保津川下りの乗船施設として建設された「旧保津川観光ホテル」だ。

戦後日本の復興をいちはやく察知し、大型観光時代がやってくると確信していた
当時の保津川下り社長・川本直水氏(京聯自動車社長)は、
350年の伝統ある舟下りとして知られる保津川下りが、
必ず観光舟下りとして「日本を代表する観光施設」になると読み、
その戦略として本社機能を備えた「保津川下り乗船場兼ホテル」を建設した。

同ホテルの開業式には、政財界や芸能界からも多数来賓が招かれ盛大に行われた。

1Fは保津川下りの乗船券売り場と待合室を整備し、乗船客は階段状の護岸を利用して
スムーズに保津川へ降りることができ、岸に付けてある舟に乗り込んだ。

2~3Fには、エントランスやホテルスペース、レストラン、浴場などが設置され、4Fには宴会場まであった。

昭和30年代では最も先進的な複合型レージャ施設といえるだろう。

戦後、観光大衆化の流れのなか、保津川下りも一般に開放され「誰でも楽しめる舟下り」のイメージを確立していく。


この保津川観光ホテルは京聯から阪急電鉄に譲渡されたが、昭和45年に阪急が撤退したことで
その後は亀岡商工会館として使用されていたが、今は閉館され固く扉を閉ざしている。過去の栄光を語ることなく・・・

シリーズ「こんな会社があったのか?」~船頭という実践者が創った企業・保津川下りものがたり~「船、陸を走る!」

2018-02-26 13:33:28 | 保津川下りものがたり
<船、陸を走る!>
保津川流域にあった舟下り会社を合併し「保津川下り」を設立した川本直水氏は、
江戸時代から350年間、続けてきた嵐山からの「曳上げ舟」作業を非効率だとし、
木炭トラック車による回送を思いつく。

一代で起業した川本氏ならでは斬新な発想と行動力により、
昭和23年から保津川下りの高瀬舟を載せたトラックが、
嵐山から亀岡間を行き来することになる。

それまでは嵐山でお客様や荷物を降ろすと、舟の舳先を上流へ向け、
船頭が細い綱で舟をくくり、亀岡目指して川を上って帰っていた。
距離にして16㎞、上流の亀岡までは約50mの高低差がある。
しかも保津峡の中は急流部が多くて、舟を曳き上げる作業を強靭な体力を必要とした。
足もとの草鞋も破れててくるため、2足以上の準備をして作業にあたった。
いずれにしても曳上げる4人の船頭にとっては「行は極楽、帰りは地獄」の
ようなキツイ仕事だった。

川でしか見たことのない舟が、トラックに載せられ、国道を走るという奇妙で不思議な光景は、
京都の人々の話題となり「船、陸を走る!」と大々的に伝えられた。

このトラック輸送により、舟の回送時間が大幅に短縮化され、回転率があがり、
その後、増加していく団体ツアーを主流としたマス・ツーリズム時代への対応を可能にした。

陸に舟を走らせたことで、保津川下りは大勢の観光客を送客することできるようになり、
「観光舟下り」として安定した事業基盤を築いていくのである。

シリーズ「こんな会社があったのか?」~船頭という実践者が創った企業・保津川下りものがたり~

2018-02-25 08:35:14 | 保津川下りものがたり
第二次大戦後、戦地から多くの船頭が帰ってきたところで、
タクシー会社京聯の創設者・川本直水氏は、それまで保津村、山本村など流域の村々で
別々に運営していた通船事業を合併し法人化に成功した。
ここに「保津川下り」という統一した名称が誕生する。

タクシー運転手から一代で起業化し、観光バス会社タクシー会社を設立した
立志伝の人・川本氏は、政界、財界、芸能界に持つ幅広い人脈を活かして
「観光保津川下り」を日本国内に発信した。

時代は高度経済成長の追い風もあり、観光業に大型団体バスツアー(マス・ツーリズム)形態が生まれ、
京都観光の中での、保津川下りの知名度を不動のものにしました。

しかし、保津川下りの他に様々な事業展開を拡大していた川本氏だったが、資金不足に陥り、
保津川下りは、昭和39年、阪急電鉄株式会社に売却され、船、船頭ごと大資本の配下に組み込まれることとなる。

*写真は旧乗船場に併設されていた保津川観光ホテル(旧亀岡商工会館)の宿泊客が、浴衣姿で乗り込む模様が撮影されている。

保津川の源流に「日本一」の三本杉

2017-12-06 08:54:52 | 保津川下りものがたり
保津川(桂川)の源流にあたる京都市左京区花背の大悲山に立つ「峰定寺の神木・三本杉」
が、なんと「日本一高い木」だということが判明しました!

これは林野庁がドローンを飛ばして測量し判ったもので、高さ62.3mあったとのこと。

それまで日本一だといわれていた愛知県新城市のカサスギ(59.6m)を
2.7mも上回ったと発表されました。

それだけではなく、三本杉のうち、2本目も60.7mあり、
一位と二位をこの大悲山の三本杉が
独占するかたちとなりました。

以前、保津川の源流を求めて、大悲山の奥地に足を踏み入れた時、
その巨大さな三本杉に度肝をぬかれた衝撃を思い出します。

細い小川となった源流の横に、「白鷹龍王」と掘られた石碑があり、
石段を数段登ると巨大な三本の杉を束ねる台根がむき出しなっている。

太古の大地から沸き起こる息吹きを感じる恐るべし杉です。
「古くより修験者の修行場として知られる大悲山ある秘境の寺・峰定寺。
その神木して崇められる三本杉。

保津川の源流ツアーを企画して、秘境の地へ「日本一」の杉を見にいきたいですね!

文化財保護法制定の記念日に考える保津川の遺産

2017-08-29 12:24:05 | 保津川下りものがたり
今日8月29日は『文化財保護法』が施行された日です。

文化財の保存・活用と国民の文化的向を目的として昭和25年に法整備されました。

日本の歴史が生んだ宝であり、国民の財産である文化財はまさに国家のアイデンティティーをあらわすもので、
大切に守り、未来永劫継承していく必要があるでしょう。

私たち保津川下りも今年、411年継承している操船技術が無形民俗文化財に指定されました。

しかし、平安の時代から水運通行の為に川の中に作られた「水寄せ」や「石積み」、
また、江戸時代の舟運通行の為に角倉了以が作った「綱道」は崩壊の一途をたどっています。

同時期に宇治川に作られた伏見の「太閤堤」は発見され、僅かに2年で国の史跡指定を受けたのに比べ、
今も現役で機能している保津川の「水寄せ」などはその歴史的文化的価値を見出されることなく、
崩壊の時を待っています。

この評価の差はどこにあるのでしょう?

私たちも水寄せの部分的補強を続けていますが、大自然の威力を前に、あまりにも微力です。

綱道に至っては、もう使用する目的がないことから、風化するにまかせています。

文化財を守るとはどういうことか?その価値基準は一体なのなのか?文化財保護委員としてまた研究者として、
そしてなにより実践者として思考し行動していきたいと強く感じる「文化財保護法」記念日なのです。

保津川・思い出の場所「山本浜」

2017-08-08 12:44:38 | 保津川下りものがたり
嵯峨野トロッコ列車の亀岡駅前に広がるリバービューは江戸時代から舟運の湊で栄えた場所。
今でも当時と同じく「山本浜」と呼ばれています。

まだ、船頭修行中の頃、この浜の前を一所懸命に竿を差しながら下っていくと、
その山本浜から手を振る親子がいました。

まだ、3歳くらいの子供を連れた若いお母さん。

浜から「お父さん~」という子供の声が。

そう、この親子連れは、私の妻と息子でした。

当時はこの浜の近くに住んでいて、よく舟が下っていくのを見に来ていたようです。
その息子も今では20歳を超えた成人。

月日は流れは急流のように早いものです。

でも、この浜の姿は変わらず、あの頃へと引き戻してくれます。

<~ものがたり~保津川を下った人たち。英国国王ジョージ5世>

2016-09-29 14:39:28 | 保津川下りものがたり
<~ものがたり~保津川を下った人たち。英国国王ジョージ5世>

保津川下りに最初に乗船した外国人はイギリス皇孫のアルバート・ヴィクターとジョージ(後のジョージ5世国王)兄弟だ。
明治14年(1881)11月5日から9日までの5日間、兄弟で京都旅行を楽しんでいる。
保津川下りに乗船したのは11月7日で、随行した皇太子達の秘書ジョン・ドルトンはその著書『軍艦バッカンテの巡航』で
その時の様子を克明に記録に残している。
王子たちは、午前9時に京都七条大宮から保津川の急流に向けて出発。
人力車の長い列を連ね、山陰街道から老ノ坂峠を越え、亀岡の山本浜(今のトロッコ列車亀岡駅付近)から
保津川下りに乗船した。
12時30分に山本浜に到着し、待機していた⒒艘の船に、人力車と車夫も一緒に乗り込んでいる。
その著書には、保津川下りの乗船体験も記録されている。
一文を抜粋する。
「その急流は、高い木で覆われた渓谷の間を曲がりくねって走っており、いっぱい日光の中、
紅葉と光のコントラストが溢れていた。岩の周りには水が渦巻き、流れが突出しており、
何度も前方に障害物が現れた。しかし、船首に一人の男たちが上手に竿を使いながら船を操って、
障害物をこえて行った。ある場所では、大きな水しぶきが船壁を超えて入ってきた。
その場所は2つの岩の間が非常に狭く、船の船幅より少し大きいくらいだった。
急流や一風変わった水の流れなど、とてもうきうきする場所がいくつかあった。」

保津川下りは王子たちの日本観光において、強烈な印象を残した思い出となったことが伺える。

また、この時の保津川下りの費用も記録されている。
予約は13艘だったが、実際は11艘が下った。
1艘が4円で、キャンセル料1艘80銭とある。
当時の首長の給料がだいたい1ヶ月6円ぐらいだから、当時、保津川下りは
今では考えられない程のかなり高価な乗り物だったようだ。

ちなみに、この時、京都で接待をつとめたのは、琵琶湖疎水計画を立案実行した北垣国道京都府知事だった。
北垣は当時、嵯峨の角倉了以邸跡を別邸としていたのも何かの因縁だろか。

英国王子兄弟の保津川下り乗船は、母国英国はもちろんヨーロッパ各国に知られ、
「日本に保津川という急流を下る川舟がある!」ことが知られる。

このとき弟だったジョージは兄アルバートが若くして急死したことから、王位継承者となり
のちのジョージ5世として、第一次世界大戦やロシア革命という時代の荒波を
乗り越え、名君の誉れ高き国王となった。

英国王室と保津川下りの関係は、王子たちが保津川下りを体験以降、和45年のマーガレット王女ご乗船まで続き
「英国王室に愛された舟下り」として英国内に知られることとなる。