保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

武道の本質を思考する。ある夢からの気づき。

2013-01-17 10:57:59 | 空手・格闘技
昨日、夢をみた。

バスに乗っていると、ひとりの男が乗り込んで来てバスをジャックしたのだ。
男の手には斧が握りしめられていて、周りの乗客を恫喝している。

手に汗を握る緊張感が体に伝わる。

男は「自分の降りる停留所を言え!」といい、「そこで降ろしてやる」と話した。
すると「次に降ります」とひとりの女性が手をあげた。
停留所が近づくと「じゃ、降ろしてやるから来い」と前の出口へ促す。
恐る恐る前へ歩き出す女性。顎で出口へ進む様に促す男。

乗客の目はこの動きへ集中した。

バス停が近づいてきた。男が運転手へ「止めろ」と命令した。
バスは停留所に停車した。「行け!」と男が言うと、女性は急いで出口へ向かった。
その時である、男の手が振り落とされた。女性は出口の側に倒れ込んだ。

バスの中に悲鳴があがった。泣き声も聞こえてきた。男は「うるさい!」と一喝。
車内は一瞬に硬直状態となる。みんなが男と目を合わさない様にと下を向いている。

この状態を何とかせねば、と感じた私は、相手を押さえ込む技を頭の中で巡らせた。
「チャンスをみて、飛び出そう」と思っている私なのだが、体がなかなか動かない。
そんな時、「次に降りる奴は誰だ!」と男が叫ぶ。今度は誰も手を上げない。
次のバス停は近づいていた。焦る気持ち、なかなか動かない体・・・


その時、目が覚めた。夢だと気づき、ホッと気が抜け、安堵した。

テレビや映画の見過ぎだと、笑われそうな変な夢だったが、ここに武術の理があることに気づいた。

人の身体の動きがいかに‘心’に左右されるかということを。

相手が素手なら、ひとりの暴漢を押さえ込むことなど、武術で数多くの戦いを経験した者なら
なんら躊躇することなく行動に移すことは容易なことだろう。
しかし、相手が手斧という武器を持っているだけで、すぐに行動に移すことができず、
犠牲者を出してしまった。
また、その目の前で起こった事実が、さらに行動へ鎖をつけるが如く
動くことができないのだ。

道場でひとつの実験をしたことがある。

組手練習で、いつもの様に相手に正拳攻撃をしてもらう。
受け手はなんなく、その攻撃を受け交わす。
何度繰り返しても、受け手は攻撃をかわし捌く。

そこで、今度は先の尖った鉛筆を攻撃する人に持ってもらい、
同じようにまっすぐの攻撃をしてもらった。
ポイントは「本気で刺すつもりで」と攻撃してもらうこと。

すると、先程まで難なく受け返していた受け手の体を大きく、後ろに逃れ
上手く受けの動きをすることができないのだ。

「攻撃の軌道には変化がないのだから、先ほどの受けで大丈夫だから」と指示しても
受け手は何回しても、体が逃げ腰になり、上手く受けることができない。

これは何を意味するか。

人間の身体は、頭が命令しても、必ずそのように動くことができないということだ。
頭から指令を出しても、身体は、武器が体に与える恐怖を知っているので
逃げてしまい、対応できないのだ。

これでは命の危険が考えられる究極の状態下で、全く対応できないことを教えてくれる。

しかし、である。

武道は本来、命のやり取りの中で生まれた技のはずだ。
刃の中で負けることは即死に直結している究極の状態で生まれた身体文化だ。
次もなく、リベンジもない。リセットできない状況で、先人はいかに戦い、
そして生き残る技を残していったのか。

武道の極意に心技体という表現がある。

体に技を覚えさせ、その修行の過程の中で養った‘心’で使用する。

この極意を習得するために生まれ、先人が残したものが「型」であると考える。

型は、先人の命のやり取りの中から生み出され、死なないための究極の完成形だといえる。

それを繰り返し反復練習することで、ねばり強さ、息の深さを身に付け
自然体から平常心へという‘心’を涵養する。
型の反複という鍛錬は、量は質へと転嫁し、いかなる状況でも変わることなく、
対応できる戦う技術を習得させる。

型鍛錬は、無意識と意識の境を往復する。
通常は無意識に行っている動作に対し、型を導入することで動作を意識化するものだ。
この意識間の往復練習により、無意識に行う非効率な動きを意識化することで修正し
型を通じて合理的な動きを習得する。さらに練習を続けることで、その動きは
意識的に行わなくても、動けるようになる。

その心身の鍛錬が、刃の下もくぐり抜けられる技となる、

これこそが、武の先人が身につけていた本物の武道の真髄だと考えるのだ。

頭が命令を下していると意識している間は、型を体まで染み込ませる鍛錬が少なく、
技化までたどり着いていない証拠だ。だから動くことができないのだ。

心技体とは、いかなる状況でも平常心で動ける境地を目指すものであり、
武の本質が凝縮された表現なのだ。

日本人が生み出した身体文化である武道の深さを知ると、心がワクワクして楽しい。

この目標に向かって、より一層、精進を進めたい。

武道はなんて面白く素晴らしいものなんだろう。

大雪に思う・・・天の恵み。

2013-01-15 08:50:10 | 船頭の目・・・雑感・雑記
全国各地で成人式が行われた昨日、北・東日本を中心に大雪が続いている。
これらの地域では、車が立ち往生したり、公共交通機関がマヒするなど
雪による様々な被害が出ているという。

これらの地域の方々には十分、注意して対応していただきたく思う。

いつからか雪は生活の基盤を揺るがす厄介ものになってしまった感がある。
テレビでも「大雪で都市機能がマヒ」「雪により各地で被害」などネガティブな
報道ばかりが目立ち、雪を楽しむ視点は観ることができないのは残念な気がする。

私たち大人はいつから「雪」を厄介なもの感じる様になったのか?

子どもの頃、雪が降ればワクワクしたものだ。
雪合戦に雪だるま、豪雪の時はカマクラまでつくったり、雪降り独特の遊びを考えて
日常とは異なる自然環境を楽しめた。

白い空間に包まれた静寂な風景の美しさにも、息をのんだ。
純白という色に魅せられた。

まさに雪は「天からの恵み」だった。

私たちの舟下りでも雪は多くの恵みを与えてくれる。
舟を流すにはなにより川の水位の安定が重要だが、冬のあいだに
山々に降り積もった雪が、春の近づきと共に徐々に溶け出し
‘雪どけ水’となり、春から必要な水の恵みを施してくれている。
そしてまた、この水こそが我々の日々生きる生活基盤を担っている
のは紛れもない事実である。

雪山は天然のダムの役割を果たしているのだ。


機能的な生活が当たり前となった現代社会の中で、
雪を楽しむ余裕をなくしてしまったお互いであるが
しばし、心のチャンネルを「自然の営みと恵み」という
真実に合わせてみて、雪を楽しむ感性を持ちたいものだと
思うのである。


戦国時代の観光業。大事なことを思案する。

2013-01-12 21:20:22 | 京都大学
リーマンショック以来、深刻化した世界不況。
日本も同じく、不景気の中で消費は冷え込み、回復の兆しはなかなか見えてこない。

特に我々観光業の分野でも厳しい競争が始まっている。
日本各地で地方経済の衰退を受け「まちおこし」という名の
地域資源を利用した観光スタイルを創出して、
新たな生き残り策を模索している。
まさに日本観光業は激戦、戦国時代を真っ只中にあるといっていい。
しかしながら、日本の訪日海外旅行者の数はまだまだ、世界規模では多いととはいえず、
日本人の旅行にかける消費のパイも減少することすらあれ、増えてはこない。
つまり、縮小もしくは横バイ状態のパイを、大型娯楽施設や地域間で奪い合う時代に入っているのだ。

こんな時代に、どうすれば観光企業は生き抜くことができるのか?
巷には東京ディズニーランドなど大型のテーマパークから自然・風土・伝統を活かした地域着地型など
様々なスタイルの観光・旅行が溢れている。

一般論でいうと「需要に比べて商品の供給が上回っている。」
商品の価格やサービスの向上など図ったところで簡単に売れる時代ではない。
「最先端」「厳選素材」「伝統の製法」などと宣伝文句を並べたところで、
目の肥えた今の消費者の心はなかなか動かせないのだ。
そんな中で低価格路線も得策とは思えない。
現代のデフレ経済下で、価格競争に参加することは結局、自らの首を絞めることになる。
では、広告宣伝に経費をかければいいのか?これも違う。
今の高度情報化社会の目覚しい進展の中で、世の中にはいたるところに広告が溢れている。
二番煎じや、ありきたりのものでは誰にも見向きもされない。
まして、宣伝広報は結局、大手企業が有利であり、広告経費競争にも自ずと限界がある。

こんな時代にどうすれば、自社の商品が売れるのか?自社は生き残れる策はあるのか?
私には今、明確な答えを持っている。
ここでは明らかにすることはできないが、どんな会社にも視点を変えることで、
必ずその答えにたどり着くことができる。

あとはやるか、やらないか、リーダーの選択と決断はもちろん、
従業員の意識の改革と行動にかかっているというえよう。


2013年の幕開け。新年あけましておめでとうございます。

2013-01-06 17:05:14 | 船頭
新年あけましておめでとうございます。

旧年中は「保津川下りの船頭」ブログをご覧ください誠にありがとうございました。

2004年から始まったこのブログも、今年でなんと、9年目を迎えることになります。

振り返って見るとその間、保津川下りにも、また私個人にも、予想だにしない様々な出来事が起こり、
幾多の忘れ難い歴史を刻んできました。一年として何事もない年、変化のない年はないと気づきます。

今年2013年の幕が開きました。果たして今年は、どんなドラマが描かれていくのか?

その姿の少しでも、このブログにしっかり「記録」していけたら素晴らしいと思っている次第です。

今年も、よろしくお付き合いの程、お願い申し上げます。


豊田 知八