保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

1200年、保津川水運のすべてを京都大学で研究。

2018-04-27 17:28:57 | 京都大学
1200年以上続く保津川水運。

筏流しから現代の保津川下りまで、京の都の造営にはじまり観光事業に至るまで、

その歴史と操船技術、船頭の生活や風俗の研究を京都大学で計画しています。

全時代的に渡って蓄積された川と流通の文化は、日本でも類を見ないでしょう。

着地地の嵯峨嵐山から支流の集落清滝も入れて、いずれ一冊にまとめる予定。

また、現在、保津川下りを運営する「保津川遊船企業組合」も
2年後の2020年には設立50周年を迎えます。

京都大学東南研の研究に組み込んで社史も編集できれば喜ばしい。

やるなら後世に残せる一冊にしたい。

持続可能な世界の構築へ。SDGsを学ぶ。

2018-04-13 15:07:12 | 京都大学
書店巡りでgetした「ビジネスパーソンのためのSDGsの教科書」(日経BP社発刊)

以前、環境省の勉強会で発表者を任された時、所属するNPO法人プロジェクト保津川の原田禎夫代表理事(大阪商業大学准教授)に
「SDGs(持続可能な開発目標)について教えて貰ったのがきっかけで、興味を持ちました。

2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2016年~2030年の15年間で達成するために掲げた目標です。

「持続可能な」という意味とは、例えば、現代社会の生活基盤に大きな影響力を持つ石油資源は、
先進国に加え、経済発展著しい途上国に必要な大量消費により、石油が枯渇すると持続できないため、
持続可能な社会ではないということ。
また海洋汚染が広がる社会は水産物資源(漁業など)が持続できないため、持続可能な社会ではないといえます。

こうした社会構造を続けていく先には、地球環境を汚染・略奪が絶えず、永続的に繁栄することはできないと
いうことを、やっと世界の英知が気づき始めたのです。

この世界的規模の大きな動きの中で、我々のような「企業人としてSDGsにどのように対応し、経営に位置付けるのか?」
視点で執筆されていることが、この本を購入した動機でした。

観光という仕事に従事する者としては、多文化理解や人権・平等・平和などのグローバル教育の推進の他に、
自然や文化の保護・保全、また食や雇用の最適なバランスの確保など各目標項目にどの様に協力できるのか?を考えたい。

そしてゴールとなる「持続可能な発展」が成し遂げられることで、旅行者という交流人口がどの様に増えるのか?

もちろんリスクも見積もながら、その上で新たなビジネス機会の創出を生むことができれば、
それは一企業のみならず、地域、国の枠を越え、世界にとっても価値あることだと考えます。


その思想と枠組みの基礎を学ぶため、今夜は読書に勤しむことにします。

京都大学東南アジア研究所・設立50周年記念サイトが開設されました。

2015-10-10 18:41:09 | 京都大学
私がお世話になっている京都大学東南アジア研究所が今年、創立50周年を迎えます。

記念してサイトが開設されましたのでご覧頂ければ嬉しく思います。

企業運営にどっぷり浸かる日常の中、学術的な視点と刺激与えてくれ、好奇心を沸き立たせてくれる大切な場所です。

保津川下りの東南アジアへの道はここからはじまる!かもしれません~


記念サイトホームページ アドレス

http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/2015/10/20151009-2/

戦国時代の観光業。大事なことを思案する。

2013-01-12 21:20:22 | 京都大学
リーマンショック以来、深刻化した世界不況。
日本も同じく、不景気の中で消費は冷え込み、回復の兆しはなかなか見えてこない。

特に我々観光業の分野でも厳しい競争が始まっている。
日本各地で地方経済の衰退を受け「まちおこし」という名の
地域資源を利用した観光スタイルを創出して、
新たな生き残り策を模索している。
まさに日本観光業は激戦、戦国時代を真っ只中にあるといっていい。
しかしながら、日本の訪日海外旅行者の数はまだまだ、世界規模では多いととはいえず、
日本人の旅行にかける消費のパイも減少することすらあれ、増えてはこない。
つまり、縮小もしくは横バイ状態のパイを、大型娯楽施設や地域間で奪い合う時代に入っているのだ。

こんな時代に、どうすれば観光企業は生き抜くことができるのか?
巷には東京ディズニーランドなど大型のテーマパークから自然・風土・伝統を活かした地域着地型など
様々なスタイルの観光・旅行が溢れている。

一般論でいうと「需要に比べて商品の供給が上回っている。」
商品の価格やサービスの向上など図ったところで簡単に売れる時代ではない。
「最先端」「厳選素材」「伝統の製法」などと宣伝文句を並べたところで、
目の肥えた今の消費者の心はなかなか動かせないのだ。
そんな中で低価格路線も得策とは思えない。
現代のデフレ経済下で、価格競争に参加することは結局、自らの首を絞めることになる。
では、広告宣伝に経費をかければいいのか?これも違う。
今の高度情報化社会の目覚しい進展の中で、世の中にはいたるところに広告が溢れている。
二番煎じや、ありきたりのものでは誰にも見向きもされない。
まして、宣伝広報は結局、大手企業が有利であり、広告経費競争にも自ずと限界がある。

こんな時代にどうすれば、自社の商品が売れるのか?自社は生き残れる策はあるのか?
私には今、明確な答えを持っている。
ここでは明らかにすることはできないが、どんな会社にも視点を変えることで、
必ずその答えにたどり着くことができる。

あとはやるか、やらないか、リーダーの選択と決断はもちろん、
従業員の意識の改革と行動にかかっているというえよう。


先祖が生きた里・清滝と私の「ものがたり」をつづる。

2011-12-15 09:06:34 | 京都大学
京都市右京区にそびえる霊山・愛宕山の麓にひっそりと佇む山峡の山里が嵯峨‘清滝’です。

‘ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里 
水の清滝 夜の明けやすき’

と歌人・与謝野晶子の「みだれ髪」にも詠われ,徳富蘆花や梶井基次郎、田宮虎彦、織田作之助
など名前をあげればきりがないほど多くの文人たちが愛した里が清滝です。

現在の集落の原型が形成され出したのは江戸初期より。
その時期、庶民の間で盛んとなった愛宕山信仰の参詣者が利用する宿場として栄えました。

そしてこの清滝こそ、私のルーツ、先祖が住んだ地であます。

我が家に残る由緒書をみると、江戸時代元禄年間に大阪の和泉州から
この清滝の地に移り住んできて、愛宕詣りの方々を対象に
「泉屋」という屋号の「茶店」を開いておりました。

茶店とは今でいう「カフェ」。

全国各地からお越しになる愛宕参詣の人々が旅の疲れを一時休めるためや
愛宕山参詣登山から下山された方々が一服する「カフェ」を経営していたのです。

愛宕名物の蒸し菓子「しんこ」の茶店としても繁盛したそうです。
「しんこ」とは米粉に熱湯をかけて練り、砂糖入れて蒸す親指くらいの
小さな団子で、両方の端を指でつまみ‘ひねり’を付けるのが特徴です。
名称の由来は、愛宕山岳信仰の‘しんこう’からつけられたとも、また
新しい粉で‘しんこ’と付けられた」との諸説があります。
今では奥嵯峨の鳥居本で茅葺き屋根の料理屋を開かれている「平野屋」さん
などが喫茶メニューで出されているので、食べられ方もおられると思います。
あれは清滝の茶店の名物だったのです。


写真にみえる茅葺きの建物が、清滝に住んでいた当時の我が家です。
建てられたのは江戸時代中期といわれ、家の資材となる材木は、
清滝川上流の高雄の山から切り出した木を筏に組んで流してきた丸太を
使用して建てられました。
構造は今の南丹市美山にある茅葺き民家と同じ「丹波合掌造り」で、
家の柱は綺麗に製材されカンナがけ施されていたそうです。

間口となる表玄関を中央部に広く取り、左右には室内同様の床机を置き、
お客さんに一服してもらえるようなスペースとして使用していました。

また、我が家は綿の産地・泉州出身ということで「ますや」や「鍵屋」
といった旅館に宿泊される方の寝具のレンタル業も兼業していたとのことです。
なかなか、商才があったんですね~ちょっと感心です。

この家は、昭和41年に我が家が京都市北区衣笠に引っ越してから「清滝民芸館」
という室町時代からの江戸時代の古い農具や民具を展示する民俗博物館として
約20年近く開業されていましたが、閉鎖後、残念ながら取り潰されました。


当時、茶店とは女性の仕事でした。
店頭に立ち、通行する人の呼び込みから、食事や菓子、お茶の
調理から接待まで、家族の女性陣が賄いました。

男はというと、殆どが山仕事です。
自分の持山や管理山へ入り、木を切り出し、山中にキンマ道を整備して
川へ落とした木を筏を組んで嵐山の木材屋まで流すといった山作業を
すべて一括で担っていました。
もちろん、日々の薪、シバの調達や炭焼きも男性の仕事。
そして季節によっては山菜採りや松茸刈り、猪猟も男の仕事で
農耕地のない山峡の集落の民の貴重な食料源でもあったのです。

私の祖父も第二次大戦前から戦後までの混乱期、清滝集落を流れる
清滝川(保津川の支流)で、材木を嵐山まで流す筏士をして、
茶店が開店休業状態となった家族の生活を支えた時期もありました。

先祖が、清滝川から保津川を筏で流し、同じ保津川という
‘川で生きていた’こと、また茶店という当時では最先端の観光業に
携わり‘おもてなし’の心で仕事をしていたことが、
同じ川での観光業をしている自分となんとも「深い因縁」を感じずにはいられません。

江戸時代から愛宕信仰の参詣者で賑わった清滝の隆盛は、昭和4年の
嵐山と清滝を結ぶ愛宕山鉄道とカーブルカーの開通で全盛期を迎えます。
愛宕山山頂にはホテルと遊園地が開業され、スキー場まで整備されました。
休日には大変な人出で、愛宕鉄道はケーブルカーとともにピストン運転で
対応するほどの賑わいをみせていたのです。
また、愛宕山スキー場がオープンする冬には、遠方からもスキーヤーが訪れ、
ケーブルカーの駅前には長蛇の列ができていたといわれています。

しかし、第二次大戦の戦火が激しくなった昭和19年、愛宕鉄道はケーブルも
含め全線廃止となり、線路レールなどは軍備資材として転用するため撤去され、
鉄道のトンネル(今の清滝トンネル)は軍事工場として使用する為、封鎖されました。

以後、鉄道は復旧されることなく、訪れる人の減少から茶店や旅館は
次々に姿を消し、それまでの隆盛が幻の様な鄙びた静かな里として
今に至っております。

唯一、毎年7月31日に行われる「愛宕千日詣り(まいり)」には
一昼夜かけて山頂の愛宕神社に参拝される登山客が1万人以上も
来られれ、往時の賑わいを蘇らせてくれます。

私も家族も、清滝の衰退にあわせるように京都市内へ移り住むことになった訳
ですが、今こういうかたちで清滝という故郷を見つめ直す機会を貰えたことに
感慨深いものを感じます。

この集落が、私という「出た者」をどのような形で迎え入れてくれるか?

清滝と私の‘ものがたり’をこれからも綴っていこうと思います。




愛宕山の麓を流れる神秘な美しさ漂う川・「清滝川‘ものがたり’」序章

2011-12-11 21:43:29 | 京都大学
保津川の支流に[清滝川]という山峡を流れる美しい川があるのをご存知でしょうか?

清滝川は京都市の北西部を南流する川で、京都市右京区京北町の飯森山を水源とし、
愛宕山東麓を南に縫いながら保津川へ合流する延長21kmの川で、
源流近くの集落・大森付近を除いては、盆地らしいところを流れることがなく、
まさに山の中の川です。

清滝川の谷幅は、保津川よりひとまわり狭く、V字に切り立った渓谷でありながら
断崖がなく、どこか山の優しさを感じさせる川風景で、京都でも最も‘美しい川’
ともいわれています。

上流部には川端康成の小説「古都」の舞台になった北山杉の産地・中川があり
中流域からは高雄・槇尾、栂尾の三尾の峰を縫い、川沿いの山地には
日本最古のお茶の栽培地にして世界文化遺産でもある高山寺や
空海ゆかりの寺・神護寺などもある仏教修行の谷川でもあります。
川は下流域である愛宕山参詣登山口の集落・清滝を抜けると、
民家のない峡谷へ入り、約2キロほどで本流・保津川へ注ぐ。

仏教修行の谷川は、平安時代から修験道の修業場・愛宕山への入口では
「俗から聖」へと身を清める結界水垢離場としての性格も兼ねていたので
どこか神秘的なムードを感じさせます。

その清らかな流れと風情が、日本初の自然派作家である徳富蘆花や与謝野鉄幹・晶子夫妻を
はじめ梶井基次郎、織田作之助などの文人墨客に愛され、作品の中でも紹介されています。


これら文豪が常宿とした「ますや旅館」(上の写真左側の建物)は、今も清滝集落に
唯一現存する旅館として営業されており、数多くの人間ドラマの記憶をとどめています。

また、流域を山に囲まれている清滝川は、保津川と同様に筏流しが盛んに行なわれました。

平安時代の歌人・俊恵法師や鎌倉時代の天皇・後嵯峨院の歌に、
清滝川を流す筏のことや筏士のことが詠われています。

上流の小野郷や中川から相当量の材木が清滝川を小筏や「丸太一本流し」で移出され、
高雄~清滝集落付近から筏に組まれ、保津川を経て下嵯峨の材木屋へ搬入されていました。


初夏のゲンジホタルの乱舞と秋の紅葉の美しさは「関西一」との定評があり、
春にはアマゴ、夏に鮎つりで賑わう京都有数の景勝地を象徴する川なのです。

私は現在、この清滝川と清滝集落を、京都大学・生存基盤ユニットの実践研究地として
自然・歴史・文化の潜在力再生への強い関心を持って取り組んでいます。

京都で最も美しい山峡の川・清滝川と京都最強のスピリチュアルスポット
である清滝集落にまつわる自然や人々の‘ものがたり’を
このブログでも紹介していきたいと思っています。

同志社大学の学生さんが保津川の筏組み調査に来られました。

2011-09-07 23:51:38 | 京都大学
今月の10日に保津川河川敷で開催される「保津川筏復活プロジェクト2011』を前に今日、
同志社大学の学生さんが、亀岡市の文化資料館へお越しなり、筏の組み方と構造などの
事前調査をされました。

調査協力として筏の指導には同プロジェクトリーダーである
河原林洋京都大学東南アジア研究所・研究員(保津川遊船企業組合所属)が担当、
私が助手を務めながら、実物の保津川筏をつくり、構造等の実地講義を致しました。

学生さんたちはNPOプロジェクト保津川の理事でもある早田和仙氏(同志社大学専任講師)
の講座クラスの皆さんで‘実学’に主眼を置いて学ばれています。

今日は、市文化資料館のガレージをお借りして実物の筏を2連(2つ)組み講座です。
丸太を並べ、カスガイの入れ方や藤蔓の結び方など実際の組み方の解説と体験までをしてもらいました。

筏を組むことはもちろん、木を藤蔓でくくるなんて作業は初めてのこと、
みなさん、慣れない手つきで悪戦苦闘しながらのチャレンジです。
特に筏の舵となる「カジボウ」の組み方は複雑で何度も失敗しながらやり直します。
わからないところは熱心に質問しながら、熱心に作業に取り組まれる姿は好感が持てました。


筏は約1時間ほどで完成。保津川を実際に流れていたスタイルの筏2連ができあがりました。

出来上がった筏を前に、学生から構造や将来展望など様々な質疑が出されました。
河原林研究員と私でわかることは丁寧にお答えさせたいただきました。


完成後、筏はバラシて、元の丸太に戻します。
そして、杉皮などで散らかったガレージを、みんなでお掃除して今日の事前調査の講座を終了いたしました。


さて、10日はいよいよ本番!保津川へ筏を浮かばせます。

今日お越しなった学生さんたちは、そこで今度は筏に乗る体験をされる予定です。

草の根国際会議が保津町で開催!

2011-02-26 09:23:17 | 京都大学
日本を含めアジアでの自然環境を重視した農村開発の可能性を探る
「文化と歴史そして生態を重視したもう一つの草の根の農村開発に関する国際会議」
が26、27日の二日間、亀岡市保津町「心凛愛荘」で開催されます。

会議には私の上司である安藤和雄京都大学・東南アジア研究所准教授が今日、
鈴木玲治同研究所助教が明日、講演並びに報告をされます。

時間のある方はお越しください。私は明日、出席予定です。

http://hozugawa.cocolog-nifty.com/blog/files/201022627.pdf←ここを見てね!

京都大学・生存研ユニットの定例研究会に出席。

2010-09-27 23:59:28 | 京都大学
先週末、滋賀県守山市にある京都大学・生存基盤科学研究ユニット
「守山フィールドステーション」で開かれた「定例研究会」に出席してきました。

この定例研究会は、京都大学東南アジア研究所・実践型地域研究推進室に
設けられた滋賀県守山、朽木、そして京都府亀岡の京滋地域拠点室に
所属する研究者が一同に集まり、現在進めている調査・研究の報告を
行う会で、守山フィールドステーションの研究施設において
月一回のペースで開かれています。

このブログをお読みいただいている皆さんは、少し驚かれるかもしれませんが、
実は保津川遊船の船頭から河原林 洋氏と私の二人が京大・東南アジア研究所の
研究員として勤務しており、地元亀岡・丹波・京都市右京区を主に、地域の課題や
問題点を導き、克服、解決にむけた実践スタイルの地域研究を進めています。

今月は滋賀県朽木フィールドステーションで進められている
「伝統の焼畑農法による山間地の生産力増進研究」の発表で、
今夏実施した焼畑作業の方法及び成果に関し、実践技術の解説と
土壌学の視点から科学的検証の報告も行われました。

それまで生産力が低かった急傾斜地である山肌の実験地を、笹や杉枝を
塗して燃やし、作物が育つ土壌力を生み出すといわれる焼畑農法。
火が消えた後、温かい内に鍬を入れ起耕し、播種をただちに行うことで、
貧困だった土壌が活性化され、ヤマカブラや大根など大量に採取できる農地
に生まれ変わったのです。しかも、肥すらいらない。
この研究が今後、進んでいけば、これまで、農地として生産性の低い地と
考えられてきた山間地が生まれ変わり、過疎化による放置林や耕作放棄地
が増えている日本の山間地に人の関心を呼び込み、後継者となる若い世代を
呼び戻すことで再生をはかることもけして夢ではないでしょう。


近年の地球環境問題は近代科学文明による成長の限界を予感させ、
今後、人類の生存基盤を確保するために、地方と都市をつなぐ
循環型社会の再生を真剣に模索必要がある時代に入っているとも
いえなくもないです。

そんな時代に、各地域で長い時間をかけて蓄積された、生存するために
必要であった知恵や技術、営みを調査研究し、実践による再生を試みる
ことは、過去を未来へつなげる作業でもあると考えます。

大学では、既成の学問的な枠にとらわれず、自由な発想をもとに、
従来の個別学問を基にする普遍化した地域研究から、地域オリジナルの
個性や先人、現住民が培う問題克服力や解決力に重点を置いた新しい
地域研究の道筋を確立していくことを、この生存基盤科学研究ユニット
には期待しているのです。

私も船頭と研究員という全く異なる二つの仕事をこなしていく訳ですが、
好奇心と向上心を忘れることなく、先人の船頭が舟の曳き上げ作業の時に
綱道を歩くに必要であった‘二束のわらじ’をしっかり履き切って
歩いていきたいと思っています。

大学の地域貢献度ランキングに保津川筏復活プロジェクトを推薦!

2010-09-21 23:59:11 | 京都大学
先日、日本経済新聞社から「大学の地域貢献度ランキング」企画に関する
アンケート調査依頼が京都大学宛てに送られてきたことを受けて、
同大学生存基盤科学ユニットから「保津川筏復活プロジェクト」を
「一押し地域貢献プロジェクト」として推薦していただくことになりました。

京都に都が造営される頃から、丹波の材木を都へと運んだ保津川の筏。
1200年間続けられ、その時々の都の整備に欠かすことができなかった
保津川筏も鉄道や車の発達により、姿を消して約60年。

丹波・亀岡地域の経済はもちろん文化や貴重な歴史を有しながら、
人々の記憶から忘れ去られ様としていた筏を、今も同じ川で仕事をしている
保津川の船頭たちが復活させたのが、この「保津川筏復活プロジェクト」です。

復活までの動機や経緯については、過去このブログでも詳しく紹介してきたので
興味のある方はバックナンバーをクリックして頂きたく思いますが、
京都を代表する川の一つである桂川の流域文化を象徴し、丹波の上流から京都市内の
下流域間の地域と人をつなぐものとして「筏」に焦点を当ててきました。

筏の復活は、桂川流域間の人々だけではなく、京都大学をはじめ、京都府や
嵐電、東映、松竹さんなどの企業や車折神社さんのご協力もあり、
多くの市民の心をもつなぐビックプロジェクトに成長してきました。

このたび、京都大学が推進している数あるプロジェクトの中から
「保津川筏復活プロジェクト」を、日経新聞社に推薦いただいたことは
同大学がこのプロジェクトへ高い評価をして下さっている証拠でもあり、
誠に光栄に感じる次第です。

この期待にお答えできる様に私も、保津川船頭の同志でもあり、筏プロジェクトの
リーダーでもある河原林 洋京都大学研究員のサポートをしっかりしていきたいと
思っているところです。

さあ、果たして日経新聞社は「保津川筏」にどれくらいの評価を付けて下さるか?
今から、とても楽しみです。