京都市右京区にそびえる霊山・愛宕山の麓にひっそりと佇む山峡の山里が嵯峨‘清滝’です。
‘ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里
水の清滝 夜の明けやすき’
と歌人・与謝野晶子の「みだれ髪」にも詠われ,徳富蘆花や梶井基次郎、田宮虎彦、織田作之助
など名前をあげればきりがないほど多くの文人たちが愛した里が清滝です。
現在の集落の原型が形成され出したのは江戸初期より。
その時期、庶民の間で盛んとなった愛宕山信仰の参詣者が利用する宿場として栄えました。
そしてこの清滝こそ、私のルーツ、先祖が住んだ地であます。
我が家に残る由緒書をみると、江戸時代元禄年間に大阪の和泉州から
この清滝の地に移り住んできて、愛宕詣りの方々を対象に
「泉屋」という屋号の「茶店」を開いておりました。
茶店とは今でいう「カフェ」。
全国各地からお越しになる愛宕参詣の人々が旅の疲れを一時休めるためや
愛宕山参詣登山から下山された方々が一服する「カフェ」を経営していたのです。
愛宕名物の蒸し菓子「しんこ」の茶店としても繁盛したそうです。
「しんこ」とは米粉に熱湯をかけて練り、砂糖入れて蒸す親指くらいの
小さな団子で、両方の端を指でつまみ‘ひねり’を付けるのが特徴です。
名称の由来は、愛宕山岳信仰の‘しんこう’からつけられたとも、また
新しい粉で‘しんこ’と付けられた」との諸説があります。
今では奥嵯峨の鳥居本で茅葺き屋根の料理屋を開かれている「平野屋」さん
などが喫茶メニューで出されているので、食べられ方もおられると思います。
あれは清滝の茶店の名物だったのです。
写真にみえる茅葺きの建物が、清滝に住んでいた当時の我が家です。
建てられたのは江戸時代中期といわれ、家の資材となる材木は、
清滝川上流の高雄の山から切り出した木を筏に組んで流してきた丸太を
使用して建てられました。
構造は今の南丹市美山にある茅葺き民家と同じ「丹波合掌造り」で、
家の柱は綺麗に製材されカンナがけ施されていたそうです。
間口となる表玄関を中央部に広く取り、左右には室内同様の床机を置き、
お客さんに一服してもらえるようなスペースとして使用していました。
また、我が家は綿の産地・泉州出身ということで「ますや」や「鍵屋」
といった旅館に宿泊される方の寝具のレンタル業も兼業していたとのことです。
なかなか、商才があったんですね~ちょっと感心です。
この家は、昭和41年に我が家が京都市北区衣笠に引っ越してから「清滝民芸館」
という室町時代からの江戸時代の古い農具や民具を展示する民俗博物館として
約20年近く開業されていましたが、閉鎖後、残念ながら取り潰されました。
当時、茶店とは女性の仕事でした。
店頭に立ち、通行する人の呼び込みから、食事や菓子、お茶の
調理から接待まで、家族の女性陣が賄いました。
男はというと、殆どが山仕事です。
自分の持山や管理山へ入り、木を切り出し、山中にキンマ道を整備して
川へ落とした木を筏を組んで嵐山の木材屋まで流すといった山作業を
すべて一括で担っていました。
もちろん、日々の薪、シバの調達や炭焼きも男性の仕事。
そして季節によっては山菜採りや松茸刈り、猪猟も男の仕事で
農耕地のない山峡の集落の民の貴重な食料源でもあったのです。
私の祖父も第二次大戦前から戦後までの混乱期、清滝集落を流れる
清滝川(保津川の支流)で、材木を嵐山まで流す筏士をして、
茶店が開店休業状態となった家族の生活を支えた時期もありました。
先祖が、清滝川から保津川を筏で流し、同じ保津川という
‘川で生きていた’こと、また茶店という当時では最先端の観光業に
携わり‘おもてなし’の心で仕事をしていたことが、
同じ川での観光業をしている自分となんとも「深い因縁」を感じずにはいられません。
江戸時代から愛宕信仰の参詣者で賑わった清滝の隆盛は、昭和4年の
嵐山と清滝を結ぶ愛宕山鉄道とカーブルカーの開通で全盛期を迎えます。
愛宕山山頂にはホテルと遊園地が開業され、スキー場まで整備されました。
休日には大変な人出で、愛宕鉄道はケーブルカーとともにピストン運転で
対応するほどの賑わいをみせていたのです。
また、愛宕山スキー場がオープンする冬には、遠方からもスキーヤーが訪れ、
ケーブルカーの駅前には長蛇の列ができていたといわれています。
しかし、第二次大戦の戦火が激しくなった昭和19年、愛宕鉄道はケーブルも
含め全線廃止となり、線路レールなどは軍備資材として転用するため撤去され、
鉄道のトンネル(今の清滝トンネル)は軍事工場として使用する為、封鎖されました。
以後、鉄道は復旧されることなく、訪れる人の減少から茶店や旅館は
次々に姿を消し、それまでの隆盛が幻の様な鄙びた静かな里として
今に至っております。
唯一、毎年7月31日に行われる「愛宕千日詣り(まいり)」には
一昼夜かけて山頂の愛宕神社に参拝される登山客が1万人以上も
来られれ、往時の賑わいを蘇らせてくれます。
私も家族も、清滝の衰退にあわせるように京都市内へ移り住むことになった訳
ですが、今こういうかたちで清滝という故郷を見つめ直す機会を貰えたことに
感慨深いものを感じます。
この集落が、私という「出た者」をどのような形で迎え入れてくれるか?
清滝と私の‘ものがたり’をこれからも綴っていこうと思います。