保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

《京都伝説紀行 愛宕山に棲む大天狗・愛宕太郎坊》

2020-08-08 16:57:50 | シリーズ・京都を歩く
保津川下りが出航して最初に説明するのが「愛宕山」です。

標高924m。京都市内最高峰の高さを有し、山頂には愛宕神社が鎮座しているこの山には、
飛鳥時代より摩訶不思議な伝説に彩られています。



平安京から怨霊や魑魅魍魎が出入りする「天門」と呼ばれる西北の方角にそびえることから
「妖怪鬼神の棲む所・神門」として恐れられていました。

その妖怪鬼神を束ねるのが、仏の命により3000年以前から愛宕山に棲みついている
「大天狗・愛宕太郎坊」なのです。



時は飛鳥時代、大宝年間(701~704)に、修験の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)と愛宕山開山の祖・泰澄が、
山裾の清滝から愛宕山を登ろうと十七町(約300m)にある大杉の前で祈祷をしていると、
にわかに天地が広がり、天竺(インド)の大天狗・日羅(ニチラ)や中国天狗の首領・是界(ゼカイ)とともに、
九億四万余の天狗を引き連れた愛宕太郎坊が姿を現したのです。

太郎坊は二人に対し
「我らは先き二千年に、この霊山会場に仏の付属をうけ、大魔王となって山を領有し、
群生を利益するであろう」と語って姿を消したといいます!

お告げに従い二人は、愛宕権現太郎坊天狗を祀り、許しを得て
朝日峰・大鷲峰・高雄峰・龍上峰・賀魔蔵峰の5岳を置き、
朝日峰(現愛宕神社)に神廟を立てました。

これが愛宕山開山の始まりです。

大杉は今も現存し、雷が落ちて焼け焦げた空洞となる姿は神秘を感じさせ、

隣接する清滝四所明神の火燧権現(ひうちごんげん)とともに、
修験者や山伏をはじめ参詣者の信仰を集めています。

1177年、京の街の3分1を炎上させた大火災が起こり、太極殿は消失しました。

都人はこの火災を「太郎坊焼亡」と名付け、火を司る「迦倶槌命」を
太郎坊と同一視し祟りを恐れました。


その後、愛宕山は「火伏せの神様」として信仰を集めました。

事実、京都の町で火事が起こると、大杉に隣接する火燧権現が

「ガタガタ」と音を立てて揺れたという伝説が残っています。

#修験者#愛宕山#大天狗#都人#大杉

京都再発見の旅 古代京都の遺跡・嵯峨嵐山編

2020-06-30 13:41:09 | シリーズ・京都を歩く
京都らしさを最も感じれる場所と聞かれたら、私は迷うことなく「嵯峨嵐山」と答えます。
これは私の仕事場に嵐山が入っているから・・・ではありません。
この地こそ、京都を京都たらしめた場所だと思っているからです!

この地に都・平安京が築かれるずっと前。当時の首都・奈良から見てこの地は
山々の裏「山背(やましろ)」と呼ばれた原野でした。(諸説あり)

5世紀末にこの地に移住していた古代豪族「秦氏」は、氾濫を繰り返す暴れ川「葛野川(桂川)」を
当時最先端の土木工法を駆使して治めます。そして今の渡月橋のやや上流部に堰堤を築きました。

これが「葛野大堰」で、今も嵐山の水風景を形成している「一ノ井堰」です。

さらに、この大堰の下流部に「中島」を築き、川の流れを本流と用水に分流させ、
川の水位を高めて多量の水を灌漑用水としてを原野に注ぎ込み、
嵯峨や松尾、桂など流域地域に豊かな農耕地帯を生み出しました。

この事業は中国四川省に現存する世界遺産「都江堰」と築造原理と景観がそっくりのことから、
秦氏が大陸から伝わる技術を有していた一族ということがわかります。

秦氏の技術は水田に適さない土地に水路をひき、灌漑用水として稲作を可能にして
古代京都は大いに発展していたのです。

秦氏の実力に期待した桓武天皇は、奈良平城京から長岡京、
さらに平安京造都の具体的なプランを構築することが可能となったのです!

この嵯峨嵐山の地、そして古代、この地に勢力を持っていた秦氏がなければ、
平安京はもちろん世界最寿の首都・京都は存在し得たでしょうか?

そして後年、同じくこの地に生まれ、秦氏に強烈にリスペクトしていた人物こそ、角倉了以なのです。

古代に中国大陸や朝鮮半島との技術と文化を取り込みながら、独自の文化や生活様式を築いた秦氏が
造りし地・嵯峨嵐山。ここに残る一ノ井堰、渡月橋、中島などすべての風景がそのまま今も現存する、古代京都の遺跡なのです!

だからこそ、京都にとっても文明と歴史、文化の原点を伝える貴重な場所だと確信しています。

今、嵐山には日本国内から訪れる人が徐々に増えてきています。ぜひ、この嵯峨嵐山が、古代京都の風景を今に残し、
新都造営という壮大な夢に賭けた人々の鼓動を感じながら旅をしていただきたいと願っています。

大枝山に棲む酒呑童子を探しに・・・

2020-06-29 09:36:51 | シリーズ・京都を歩く
スポーツ新聞を読んでいると「原田龍二、自宅で怪奇現象続々!」という記事が目に留まりました。
TV「世界の何だコレ、ミステリー」で座敷わらし調査始めてから、頻繁に不思議な現象が起こるとのこと。

近年の人々が妖怪や怪異への関心は異常に強くなっています!
このミステリーチェイサー原田龍二さんが探索する妖怪・座敷わらしシリーズもTVの人気コーナーです。

そんなご時世ですが、私の地元亀岡と西京区の境に位置する大枝山の頂上には、
つい先日まで日本妖怪研究の第一人者・小松和彦先生が大将を務めた
国際日本文化研究センターがあるのも何かの因縁でしょうか?

そう、この大枝山の老ノ坂峠には、昼でも不気味な霊気が漂う「首塚大明神」が祀られています。
ここに祀られているのが、日本三大妖怪と呼ばれる「酒呑童子」です。
平安時代に丹波大枝山を棲み家としていた伝わる酒呑童子。
夜な夜な都に現れては金銀財宝を強奪し、婦女子をかどわかすなどの
悪行三昧で、当時の都人を恐怖に陥れていました。
そこで武勇に長けた源頼光率いる四天王に酒呑童子討伐の命が天皇から発せられ、
源頼光らは大江山千丈ヶ嶽に攻め上り、苦心の末、酒呑童子とその一派を征伐しましたとさ。
平安の世の都人は日本海に繋がる西の方角に対して、神経質なほど恐れを抱いていたといわれてます。

妖怪伝説も多く伝承されているのです。そういえば保津川の流れも西から都へ注がれていますね。
「最先端の技術や情報も、邪悪なものも、西から訪れる~」

今度は原田龍二さんと一緒に、京都や丹波の妖怪ミステリーを探訪する企画をしたい~
これまで見えなかった‘何か’が見えるてきたりして・・・

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 宝筐院

2018-11-29 12:11:28 | シリーズ・京都を歩く
嵯峨嵐山で一番、紅葉がきれい!と呼び声高い宝筐院。

平安時代に白河天皇の祈願によって建立された勅願寺で建立当初の名は善入寺といいいました。 #

鎌倉時代までは代々皇族が住職を務める寺院でしたが、南北朝時代に南朝と北朝の争いに巻き込まれ、
廃寺同然に。その後、夢窓疎石の高弟・黙庵周諭禅師(もくあんしゅうゆぜんじ)が
臨済宗の寺院として復興させました。

黙庵に深く帰依していた室町幕府・二代将軍の足利義詮は、寺院の伽藍再興整備に尽力しました。

また、同寺に、四条畷の合戦で北朝の大軍と戦って討ち死した楠木正行(くすのきまさつら)が
眠っていることを知り、政敵ではあったが、人柄を尊敬していた義詮は、
自分の死後、正行の隣に葬って欲しいと遺言を残します。

その遺言はかなえられ今も並んで境内に眠っています。

赤に朱、橙など色とりどりの紅葉を回遊式庭園で巡ることができるほか、
障を開けて額縁絵で見る紅葉は見事です。

美しい紅葉と武将同士の友情と宿命に、思いを馳せて訪れるのも嵯峨野流ですね。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 愛宕念仏寺

2018-11-28 16:27:11 | シリーズ・京都を歩く
愛宕とかいて「おたぎ」とよむこのお寺は、奈良時代末期、聖武天皇の娘・称徳天皇が
京都・東山の地に愛宕寺として創建しました。

しかし、平安時代初期に近くを流れる鴨川の洪水ですべてが流失し、
廃寺になっていたものを醍醐天皇の命により
天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興しました。

いつも念仏を唱えていた千観は民衆から「念仏聖人」と呼ばれていたことから「愛宕念仏寺」となりました。

空也上人との邂逅を得て「何ごとも身を捨ててこそ、仏道」との言葉を授かり、
その後、民衆の苦難に対し、身を捨てて救済にあたりました。

お寺は大正時代に嵯峨の地に移築されました。

その寺の再興を祈念して「境内を阿羅漢の石像をで満たそうと、
昭和54年から信徒や参拝者からの寄贈により、10年かけて1200体の阿羅漢を集め、
平成3年に「千二百羅漢落慶法要」を厳修しました。

様々な表情をする小さくて可愛い阿羅漢の石仏が「インスタ映え」すると、奥嵯峨人気のお寺となっています。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 小倉山二尊院

2018-11-26 09:09:00 | シリーズ・京都を歩く
小倉山麓に建つ二尊院は、天台宗の寺院で、
正式には小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)といいます。

創建は平安時代初期、嵯峨天皇の勅により慈覚大師が建立したと云われています。

鎌倉時代に法然の高弟だった湛空らが再興した後、応仁の乱で全焼した本堂を公家・三条西実隆が再建しました。

本尊の「発遣の釈迦」(人の誕生時に現れる)と「来迎の阿弥陀」(人の寿命が尽きるとき極楽浄土へ迎えに来る)
の二如来像を、伽藍で並び拝することから、二尊院の名前で呼ばれています。

総門から入り、参道をもみじの木々が覆っている風景は「紅葉の馬場」と呼ばれ、
紅葉の名所として知られています。

この総門は、慶長十八年(一六一三)に伏見城にあった薬医門を、
角倉了以によって移築・寄進されました。

山腹には角倉了以をはじめ角倉(吉田)一族の墓があり、保津川下りにも縁の深いお寺です。

また奥には百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所もあり、平安時代から江戸時代まで、
景勝地・嵯峨の歴史変遷に思いを馳せることができるお寺です。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?嵯峨鳥居本

2018-11-25 14:43:41 | シリーズ・京都を歩く
お伊勢に七たび 熊野に三たび、愛宕さんには月まいり」
と江戸時代の民衆にうたわれた京都・愛宕山。

その山頂にある愛宕神社へ参道を「あたご道」といい、愛宕詣りへ向かう人で賑わう街道でした。

あたご道沿いには行き交う旅人をもてなす宿や茶店が軒を連ねていたと伝わります。

その400年前の風情を残す地域が奥嵯峨・鳥居本です。「一ノ鳥居」が建つ
鳥居本地域には「鮎茶店・平野屋」さんと「鮎の宿・つたや」さんが、
今も当時と変わらぬ佇まいでお店を構え、観光客のおもてなしをされています。

平野屋さんでは愛宕名物の蒸し菓子「しんこ団子」が人気です。

米粉に熱湯をかけて練り、砂糖入れて蒸す親指くらいの小さな団子。

両方の端を指でつまみ‘ひねり’を付けるのが特徴です。

愛宕山の参道がつずれ折れの曲がりくねった道であることから、このひねりが付いたと云われています。

奥嵯峨のまち歩きで疲れた足休めに、茅葺屋根の古民家の風情を楽しみながら
しんこ団子と抹茶で癒すのもいいですね。

この辺りは1979年に国の重要伝統的建造物群保存地区としても選定されています。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?化野念仏寺

2018-11-24 15:44:12 | シリーズ・京都を歩く
京都には「野」がつく地名が多くありますが、古い京都本によると
「野」のつく地名の場所は「葬送の場」だったといいます。

奥嵯峨にあるこの「化野(あだしの)の念仏寺」もそのひとつ。
元々古来より葬送方法は風葬…つまり遺骸をそのまま、この野原に捨てていました。

嵯峨小倉山麓の地、愛宕山の参道沿いのこの野に、約千百年前に野ざらしになっていた土葬仏を
弘法大師が智山如来寺という寺を建立し、埋葬して石仏を作って死者の霊を慰めました。
その後、法然上人の常念仏道場となり、念仏寺と称されました。

散乱し埋没していた多くの無縁仏の石仏は明治36年ごろに境内に集められ、
賽の(さい)河原に模して「西院の河原」と名付け現在の姿になったといわれています。

ちなみに我が家先祖の墓も‘この念仏寺’にあります。
あだしの」って珍しい呼び方は、儚さ、虚しさの意味で、
漢字では「化野」と書き「生」が化して「死」となり、
この世に再び生まれ化る事、極楽浄土に往来する願いを込めた意味だそうです。

奥嵯峨がかもし出す、静寂感は人の生死という聖俗の境をあらわしているからかもしれませんね。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?清涼寺

2018-11-23 16:30:08 | シリーズ・京都を歩く
「嵯峨釈迦堂」の愛称で親しまれる清涼寺は、
源氏物語の主人公・光源氏のモデルと言われる源融が建立した
山荘・棲霞観(せいかかん)の跡地であり、物語の中で「嵯峨野の御堂」として登場します。

光源氏は、紫の上の目を盗み、大堰川のほとりに住んでいた明石の君との逢瀬を楽しんでいました。

以前、明石の夜に弾いた琴の音としらべを聞きながら、「あの頃と変わらず愛おしい」と詠んでいます。

数々の女性と浮名を流した源融は、晩年この「嵯峨野の御堂」で過ごし、
生涯を終えました。稀代のプレイボーイ・源融の墓は多宝塔の裏にひっそりと立ち、
悠久のときを見守っています。

釈迦堂の呼び名の由来は「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」
が釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」が祀られていることから付いた名です。



秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?落柿舎

2018-11-21 13:41:47 | シリーズ・京都を歩く

のどかな田園風景の中にポツンと佇み、鄙びた藁葺屋根がなじむ素朴な草庵が落柿舎です。

往時の風情が感じられる、なんとも心が安ぐ庵ですが、もともとは京の富豪が建てた豪華な別荘を、
松尾芭蕉十哲の弟子の一人 向井去来が1686年に譲り受けたもの。
その後、別荘を取り潰し、簡素な隠棲所にしました。

昔、庵の周囲を40本の柿の木が覆っていて、ある商人が立木ごと柿を買い取ろうとしたところ、
夜中に風が吹いて全ての実が落ちて破談になったことから「落柿舎」と名づけられたそうです。

去来は「柿主や こずえはちかき あらし山」と詠みました。今は柿の木も少なくはなりましたが、
紅葉にまじり、実る柿の木を愛でながら去来への思いを馳せてみるのもいいですね。


1691年(元禄4年)春、この庵に松尾芭蕉が滞在して「嵯峨日記」を著しています。

のんびりと物思いに耽るのにもってこいの庵です。