保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

江戸時代の数学が開いた日本の近代化と角倉一族

2020-09-06 08:39:28 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
日本では小学校2年になると算数の時間にかけ算を学びますね。
そして、かけ算の勉強といえば「九九」の暗唱です。
「ニニンガシ、二サンロク~ククハチジュウイチ」で終わる暗唱方法。皆さん、子供の頃、覚えさせられましたね~

でも、この暗唱を覚えたおかげで、実社会のあらゆる場面で役立っていることは間違いないところです。
九九を学んだ事だけでも、教育の大事さがよくわかります。
どうやら日本ではこの「九九」という計算方式を平安時代の教育に取り入れています『口遊』(970年源為憲)
貴族の子弟はみなこの「九九」を暗唱して覚えていました。

とはいえ、庶民にはまだまだ馴染みのなかった数式で、それが「和算」と呼ばれ庶民の間に普及したのは江戸時代からでした。
そして、その和算の普及に大きく貢献したのが、角倉一族の一人吉田光由(みつよし)でした。

光由は慶長三年(1598)に京都嵯峨で生まれました。
子供の頃から数学に興味を持ち、当時京都で「天下一割算」という看板を掲げ私塾を開いていた数学者・毛利重能に
弟子入りし数学を学ぶとともに、当時、活躍していた一族の雄・角倉了以とその子素庵の影響を強く受けていました。
特に京都でも知られた文化教養人の素庵とは親しく、保津川や高瀬川の開削など土木技術の基礎となる数学の知識は不可欠であったため、
素庵は光由の数学研究の支援をするとともに、一緒に研究を続けていたと伝わっています。
こうして光由は、研究していた明の数学書「算法統宗(さんぽうとうそう)」をもとに、実経済や商売、
また建設土木に役立つ実用書として寛永四年(1627)「塵劫記(じんこうき()」を執筆したのです。
書籍の中には九九の暗唱方法やねずみ算の例題、そろばんの使い方をはじめ、円周率や√(ルート)といった
高等な数学計算式も示されていたというから、驚きます!

また、数の単位も兆の上の、京や穣、溝~不可思議~大数といった今では想像もつかない単位まで表式にまとめています。
こんな難しそうな数学書が、江戸時代初期には貴族・武家階層だけではなく、
あらゆる階層の人たちの一家に一冊あったというから、超ベストセラーの実用書だったのです!

光由はその後、兄・光長と、高地の地形から慢性的な水不足に苦しむ北嵯峨の農地へ水を送るため、
山間部にある菖蒲谷池(京都市右京区梅ケ畑)から隧道を掘ることで農業用水道を流し込むという大工事に着手し、成功し
光由は数学者の緻密な計算により菖蒲谷池の傾斜を完璧に測量し、池の水が最後の一滴まで流れ落ちるように隧道を設計していたのです!
険しい山々の間にトンネルを掘り、水が緩やかに農地に流れ込み続けるように設計し、完璧な土木工事を施し、
多くの農地を潤わせ、地域を潤し、北嵯峨の農民の生活を支えたのでした。
そしてこの隧道は「角倉隧道」と呼ばれ、現在も北嵯峨の農地を潤わせ続けているのです。
恐るべき角倉一族!日本人はまだまだ、本当の近世の奥深さを知らない!

※菖蒲谷池は嵐山高雄(西山)パークウェイで行くことができ、畔はBBQ会場としてにぎわっています。

角倉了以率いる朱印船「角倉船」に乗船する条件として掲げた「舟中規約・其の参」

2018-06-19 14:07:29 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以率いる朱印船「角倉船」に乗船する条件として掲げた「舟中規約・其の参」

(原文)
「上堪下与の間、民胞物与、一視同仁、況んや同国人に於いておや、況や同舟人おや、
患難、疾病、凍あれば同じく救わん。恰も独り脱れんと欲するなかれ。」


(訳)
「天と地の間にあって人間はすへて兄弟であり、
ましてや同国人や同じ船に乗り合わせる者同士においてはなおさらである。
ひとしく愛情を注くべき存在てあるから、病や飢え、寒さなど苦労をともにする時こそ、
助け合わなければならない。その苦しさから一人だけ逃げようと考えてはならない。」


角倉船は長崎から出航するのが常で、冬の北風を活かし安南(ベトナム)やカンボジア、
ルソン(フィリピン、)シャム(タイ)などアジア諸国をめざし、
翌年の春から夏にかけて南風を受け帰国するコースをとっていました。
船員には日本人だけでなく、操縦技術に優れていたヨーロッパ人を先頭に、
黒人やインド人など航海経験豊かな外国人を多数雇用し、国際色豊かな日本の船でした。
その航海の中、相互扶助の精神を徹底することで、大海原を乗り切ったのでした。

角倉了以率いる朱印船「角倉船」に乗船する条件として掲げた「舟中規約・其の弐」

2018-06-18 17:00:50 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以率いる朱印船「角倉船」に乗船する条件として掲げた「舟中規約・其の弐」

(原文)
「異域之我国に於ける、風俗言語異なると雖も,其の天賦之理、未だ嘗て同じからざるなし。
其の同じきを忘れ、其の異なるを怪しみ、少しも詐欺慢罵すること 莫れ。
彼且つ之を知らずと雖も我豈之を知らざらん哉。信は豚魚に及び、機は海鷗を見る。
惟うに天は偽欺を容れず。我か国俗を辱むる可からず。
若し他に仁人 君子に見れば、則ち父師の如く之を敬い、
以て其の国の禁諱を問い、而て其の国之風教に従え。」
(訳)
「異国とわが国とを比べれば、その風俗や言語は異なるが、天より授かった人間の本性においては
、なんの相違もない。お互いの共通するところを忘れ、違いを怪しんだり、あざむいたり、あざけったりすることは、いささかもしてはならない。たとえ先方がその道理を知らずにいようとも、 自分はそれを知らずにいても良いものか。
人のまごころはイルカにも通し、心ないカモメさえも、人のたくらみを察する。
天は人の偽りを許さないだろう。心ない振る舞いによって、わが国の恥辱をさらしてはならない。
もし異国において、仁徳に優れた人と出会ったら、これを父か師のように敬って、
その国のしきたりを学び、その他の習慣に従いなさい。」

何度もいいますが、これは16世紀後期、西欧諸国が「七つの海」を制覇する夢を持ち、
アジアなど発展途上の国に進出した時のものです。この先進性は、まさに目を見張る商業思想であり、
それを遵守させ、実践したことに世界経済史に燦然と輝く事業家として、偉大なる価値を覚えるのです。

角倉了以率いる角倉船に掲げた「舟中規約」其ノ壱

2018-06-17 07:57:07 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以率いる朱印船「角倉船」に乗船する条件として掲げた
「舟中規約・其ノ壱」

(原文)
(原文)凡そ回易の事は、有無を通して人・己を利するなり。
人を損てて己を益するには非ざるなり。利を共にすれば、小と雖も還りて大なり。
利を共にせざれば、大と雖も還りて小なり。謂う所の利は義の嘉会なり。
故に曰く、貪之を五とすれば、廉賀は之を三とすと、これを思え。

(訳)貿易の事業は一方にあって他方にないものを互いに融通し合うもので,、
相手にも自分にも利益をもたらすものである。相手に損失を与えることによって、
自分の利益を図るためのものではない。ともに利益を受けるならば、
その利は僅かであっても、得るところは大きい。利益をともにすることがなければ、
利は大きいようであっても、得るところ は小さいのだ。ここにいう利とは、
道義と一体のものである。だからいうではないか、
貪欲な商人か五つのものを求めるとき、清廉な商人は三つのもので満足すると。
よくよく考えよ。

という訳になります。今の時代は当たり前ともいえる「均等な分配」という
貿易のグローバルスタンダードですが、時は16世紀後期、西欧列強が大航海時代として
世界の海に繰り出し、アジア諸国を植民地化していった時代に、
民間でありながら世界的視野に立った「共益の精神」で貿易を実践したことは
当時の世界状況を考えると、その先見性と人間性には驚嘆いたします。

世界交易を崇高な精神で実践した日本人実業家

2018-06-16 09:42:02 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人と渡り合った豪商・角倉了以とその子素庵。

河川流通の祖であり、近世日本を代表する交易商です。

「様々な国土開発を私財で実行し、交易により日本の発展に貢献した偉大な事業を数々実施しましたが、
その素地となった精神が「利他・共生の志」でした。「人を損(す)てて己(おのれ)を益するに非ず」
と思想でした。

その思想を乗船の条件として乗員に遵守させ、ベトナムやタイ、フィリピン、台湾など
東南アジア易諸国と貿易を展開しました。

「他国に損失を与えて、自国の利益を得ようとしてはならない」との思想を
ビジネスの現場でしっかり実践してみせたことで、
対等な立場での「ビジネスパートナー」として交易相手国の信頼を得ました。

欧州諸国がアジアへ進出した16世紀後半の大航海時代に、
ここまで崇高な精神により事業を実践した角倉親子とその一族の存在を、
日本人は忘れてはならない。

その事業を引き継ぐ者としての強い信念から、
来年も諦めることなく再度「日本遺産」認定を目指していきます。

皆さんのご支援を何卒、よろしくお願いいたします。

近世京都の物流革命を構築せよ!

2018-06-08 09:49:44 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
1606年、保津川を開削し川船を開いた角倉了以は、1614年の高瀬川開削により、
京都の洛中二条と伏見を結ぶ、物流の大動脈を築きました。

この舟運整備により、保津川が流れる京都の背後地・丹波・丹後の経済圏と京都洛中経済圏、
さらに伏見の港を出入り口とする大坂経済圏をつなぐ物流ルートを構築しました。

この事業は政治の中心が江戸に移り、経済の中心が海外に開かれた海を持つ大坂に移ったことを受け、
衰退の危機にあった近世初期の京都の命運を左右するもので、
京都そのものの改造を何う一大プロジェクトでした。

河川を活かした物流革命に成功により、京都の物価は下げ止まりで安定し、
経済のみならず技術や文化も高水準に保つことができ、京都は大いに活性化し栄えました。

日本文化の源として地方各地に影響を与え続けた近世の京都は、江戸、大坂と並び3大都市として発展しました。

了以の卓越したビジネスモデルは近代化へむかう京都の礎を築いたのでした。

角倉了以が可愛がった黒猫

2018-06-06 15:05:44 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
<角倉了以と黒猫>

ご朱印船により海外貿易に乗り出した角倉了以は、
安南国までの航海の船内に黒猫を乗り込ませました。

黒猫は航海に必要な食料をネズミなどが食い荒らさないよう、
番犬ならぬ番ネコの役割を果たすとともに、猫の仕草や怯え方で、
海に吹く風の向きを読んだり、嵐の到来を予感したといいいます。

17回も渡航した「海外貿易成功の影に黒猫あり!」

その後、黒猫は角倉一族の守り主として崇められ、商売繁盛の象徴と呼ばれました。

京角倉の邸宅があった二条高瀬川沿いの家々にも、角倉繁栄の象徴となった
右手を上げた黒猫のお札を配ったと伝えられています。

そして現在、保津川遊船の乗船場に角倉了以さまがお入り込みになり、その傍らにも「黒猫」が!

これで保津川下りも「商売繁盛」間違いなし!といきたいものです

桂川(保津川)にあった、もうひとつの川船

2018-05-24 10:41:51 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
貴重な資料を発見しました!

保津川の支流・清滝川を流す船下りの写真です。

数人のお客様を乗せ、直角に近い狭い岩間を、
棹さし二人の体制で、押し流しすり抜けています。

これはかなり高度な操船技術ですね。

私が京都大学の研究で、清滝川の川船の存在を調査するまでは
その存在すら否定されていた清滝川下り。

この写真は大正末期~昭和初期の観光冊子に掲載されていたもので
「愛宕嵐峡下り」という名で紹介されています。

愛宕信仰の参詣者で賑わった嵯峨清滝の旅館・料亭の下を着船場として出航していた清滝川下り。

保津川同様、大堰川の水運史にしっかりと組み込んで桂川(大堰川)流域の川船
として水運文化を掘り起こしていきたいです。

愛宕山麓集落群を川、山、人のネットワーク化で構想構築していければ素晴らしい!

明治の少年雑誌に「角倉了以伝」を発見!

2018-05-20 12:02:30 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
明治30年に発行された少年雑誌「少年世界」に角倉了以伝が掲載されています。

「治水長者」と題した物語は、了以の生い立ちから安南国(今のベトナム)貿易や
大堰川、富士川、天竜川、高瀬川の開削と通船のことまで、
時系列にエピソードなどを加えて、かなり詳しく書かれています。

「保津川下りとして、興ある舟遊びを賃し、酒肴など載せ、
急流を追って嵯峨に下ることにおいて、誠に壮絶、快絶の遊びなり~
この舟遊び格別の値ありと云えば、四季折々忘れられぬ所と云はまし、
這も亦了以が富年の恵みうかし。」との記述も!了以の功績が、
今も多く人の生活を支え、訪れる人には癒しを与えているかも。

と紹介されています。

しかし、こんな難しい文章を明治時代の子供達が読んでいたことには驚かされます。

明らかに明治期~昭和初期にかけての国民の日本語力の高さを痛感する少年雑誌です。

荒波の海に繰り出し、外国を相手に貿易をする冒険心と激流の川の開削に挑む開拓心、
そして、、何より卓越したビジネスセンスの高さを、子供心に響くように
描かれている本です。

財代は移り変わっても「偉人に憧れる心を養うことは未来をつくることだ」
強く感じる了以伝でした。

了以伝 ばけもののような船・角倉朱印船

2018-04-22 17:59:10 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
ばけもののような船じゃ!」アジア諸国へ出港する角倉船をみた人々は叫んだ。

文禄元年(1592)天下を統一した秀吉は室町時代から続けていた勘合貿易を再開させ、
各地の商人に参画を呼びかけた。
この秀吉の要請に名乗りをあげたひとりが京都の豪商・角倉了以だった。

当時はスペインやポルトガル、オランダなど西欧諸国が世界に進出した大航海時代。
角倉家ほかに同郷の茶屋家や伏見家、堺の伊勢家らも朱印状を手に入れ、
安南(ベトナム)やルソン(フィリピン)、タイなど東南アジア貿易へ打って出た。

その中でも角倉船の豪華は当代随一で、オランダ船の倍、
中国船の4倍半という桁外れの巨大船。

全長36m、幅16mであり、乗船人員も約400人、交易品の積み荷に至っては800t以上も
詰め込める当時ではおそらく世界最大級の唐型貿易船だ。

マストを3本も備え、後部の高殿には日本人の船長とポルトガル人の航海士が乗り込み、
黒人の姿も見える。

この船は単なる交易船というだけでなく、豪華客船として旅行者を乗せており、
その利益も莫大だった。
了以は異国人でも「信」を持って接するべきという精神を貫いた。

その威風堂々たる姿は、日本人だけでなく、角倉船に乗り込む為に長崎に集まった
ポルトガル人やオランダ人、中国、朝鮮など外国人商人たちの度肝を抜いた。

「この船なら難破や海賊船の襲撃の心配も少ない。
今回の渡航に成功すれば、利益は計り知れない。

「京都には凄い商人がいたものだ。」と口々に語り、
船主である了以という存在を強く印象づけた。

歌舞伎の「天竺徳兵衛」の場面でも、徳兵衛が角倉船に乗船する様子が描かれており、
角倉船の豪華さを伝えている。

主な輸出品は銀で、日本から年間に輸出される銀の総量は
世界の年間生産数の30~40%に上っていたという。
銀は交易に際しての主要通貨だったので、日本の商人はきわめて
有利な立場になったという。

ただ、角倉船の特異性はその規模や豪華さだけでなく、
その貿易システムを支える`精神’にあった。
これについては次回に譲ろう。

角倉船の模様は現在、京都の清水寺に「角倉船・渡海船額絵馬」として奉納され、
国の重要文化財に指定されている。