保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

保津川という自然との戦いから学ぶ、共生の技術と知恵、そして心。

2012-07-30 17:20:29 | 船頭の目・・・雑感・雑記
平成7月15日未明、京都市北部と亀岡市を記録的な豪雨が襲った。
1時間に約90ミリ~100ミリも降ったという猛烈な雨は、我々の仕事場である保津峡にもその鋭い牙を剥いた。
保津川では、川幅が狭くなる渓谷部の水量が僅か1時間余りで通常の6倍以上も上昇し、
激流と化した川の流れは護岸と河床を荒らした。

翌日、雨雲が去り、川の水位が減少するにつれて、その被害状況に愕然とする。
川は巨岩が多数流石し、河床の高低も大きく変化している模様。
また、渓谷に降った激しい雨は山々をも崩し、観光列車の線路を埋め塞いだ。
遊船組合は協議の結果、7月末までの運休を決定した。
また、渓谷を走る嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車も8月上旬までの運休を決めた。

本来なら賑やかな観光客の歓声がこだまする夏休み前の保津峡は、この豪雨により静かな夏を迎えることとなった。

振り返ってみると、保津川下りの歴史は自然という川との戦いにより綴られている。
その戦いの中で気付かされるのは、自然との共生する知恵と心だ。

広大な丹波山地の谷川を多く集め、亀岡盆地のはずれ、JR山陰線馬掘駅付近から深い渓谷へ入り、
山々を縫い蛇行しながら嵐山へ流れていく間を保津川と呼ぶ。
太古、徐々に地表面が隆起し、川が長い年月をかけて侵食して生み出した
穿入蛇行(せんにゅうだこいう)のV字形の渓谷だ。
川底の侵食が隆起部を勝っていたために、流路をあまり変えることなく、
もとの蛇行形は残してはいるものの、渓谷内は川幅も狭く、流れも強く複雑なため、
自然の要害と呼ばれ筏しか流すことができない川だった。

この様な渓谷の川に、舟の通行を可能したのが、嵯峨の豪商・角倉了以・素庵親子であったことは、
ここでも何度も書いている通りだ。
記録によると、開削前の保津川は、いたるところに巨岩群があり、
その岩を除去または破砕して航路を確保しなければならなかった。
今回のように水中にある大岩は、舟に櫓を組んで、梃子を応用して除去、
また今も変わらない滑車によって引っ張り上げた。
水面に出ている巨岩は火を炊いて熱し、水をかけ破砕した。
川幅の広い浅瀬は、水寄せと呼ばれる石積みの水制工や木工沈床などを設置し水を絞り、流れをつくった。
また、小さな浅瀬は深く掘り下げ、滝のように落差の大きい瀬は、底を削って下流との差を少なくするなど、

了以たちは、当時では最先端の土木技術を駆使して、舟の航路をつくり出した。
自然のままの保津川に、人工の工法、人の手を加えて舟の通行を可能にしたのだ。
ただ、自然はいつも、人工の構造物をそのままにして許しておかない。
元の原風景への復元を望むかの様に、度々猛威を振るい構造物を押し流し、河床を埋め戻す。
その度に、舟は運航不可能に陥る。船頭は丘に上がらなくてならなかった。

私が知っているだけでも、平成7年の梅雨の豪雨や平成16年の台風23号では大増水による
巨岩流石で20日以上の運航中止。
さらに保津川開削400周年の年であった平成18年の壁岩落石での約1ヶ月にも及ぶ運航中止もあった。
自然の猛威はなにも豪雨だけではない。平成6年には日照り続きの夏となり、
大渇水による40日運航中止なども強烈な思い出として脳裏に残っている。

このような自然の無情ともいえる差配の度に、我々船頭は職を守るために懸命に戦ってきた。
そして、今回の事態もこれまで同様に、果敢な挑戦を挑んだ。
「川でいきる」ためには、自然への挑戦をあきらめる訳にはいかない。
険しい渓谷内には重機を入れることは適わなく、人の手作業・人海戦術でしか川の工事はできない。
船頭は今も昔も、了以以来から継承されている川工事の技術を駆使して、再び航路確保の川工事を行うのだ。
そして、その度に運航再開に漕ぎつけ、開削以来、406年途絶えることなく、
保津川に舟が流れる風景を守ってきた。
しかし、これは川を制し、川との戦いに勝利したのでは決してない。
もともと、自然との戦いに勝者も敗者もいない。
航路を確保したとしても、一時的に川を制したに過ぎず、また、いずれやってくる
自然の猛威の前に脆くも崩れ去ることを私たちは知っている。
結局、船頭たちは自然へ僅かの手を加えさせて貰っているに過ぎない。
自然が起こす現象を、まずは全て受け入れ、その後に先人から培ってきた伝統の知恵と技術で対応するだけだ。
そうして船頭たちは、何度も何度も川の工事、作業を繰り返し、今まで生きてきた。
自然のどんな姿もすべて受け入れ、生きるために手を加えていく。
自然の計らいで姿を自由自在に変える川と‘共生’する知恵の学びが保津川では展開されてきた。
川に生きる‘川人’たちは川があるから生きていくことができる。
その川に、少し人工の工夫を施すことで生きていくことを、期間限定付きで許されているだけだ。

自然から受ける恩恵はこの上なく大きい。
しかし、一番、恐ろしいのも自然である。
美しかった川が一転、牙を剥けば、川人の生活はたちまち窮し、最悪の場合、命すら脅かされる。

観念や想像ではなく、生活に直結する実体験として自然の恩恵と畏怖を味わい、
その両面を合わせ持つ保津川の本当の姿を一番知っているのは川人である船頭たちだろう。
だからこそ、川と人との関係性を、先人から受け継いだ知恵と技術、そして記憶の中から、
時代を超えて導きださねばならい。
独自の自然観を後世に伝えていく使命があると強く感じている。

今日から保津川下りの運航が再開する。
間違いなく今年は400年の歴史に残る年になったと思われる。
ぜひ、今回の記憶から得たものは何か?後世にしっかり伝えていかねばと思っている。

君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第6話 伊藤仁斎の巻

2012-07-25 16:27:36 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
江戸時代前期の儒学者に伊藤仁斎という人物がいる。
仁斎は京都の堀川に「古義堂」という私塾を創設した市井の学者で、
林家の朱子学に異を唱え、独自の儒学理論を構築し、その後の旧儒学批判の
基礎となる古義学派(堀川学派)の祖となった人物。

この伊藤仁斎が角倉一族の人間であることを、知る人は少ないのではないでしょうか。


伊藤仁斎は寛永4年7月20日(1627年8月30日)京都で誕生した。

保津川を開削した角倉了以の姪の子(那倍の子)に当たり、了以の子素庵にとっては従妹の子に当たる。
1662年 京都の堀川に古義堂を開く。市井の儒学者である。
 宝永2年3月12日(1705年4月5日) 死没。

仁斎は、徳川幕府の官学であった林家が論ずる「論語」「孟子」「中国古典」を含む「朱子学」の
体系的な解釈学問に対して異論を唱え、仁義について独自の論理を構築し「論語」を読み込むことで
新しい学問的境地を開いた儒学者で、終生いずれの藩にも仕官せず、町の学者として
その生涯を全うした。(1705年3月12日没)

1662年に京都堀川に「古義堂」という私塾を開き、全国各地から集まった門弟たちを指導した。
直接指導したその数、45年間で延べ3000人ともいわれ、この塾は仁斎死後も明治後期の1905年まで続いた。

仁斎は俗説となってきた天道、地道といった高邁で客観的な宇宙論を説く朱子学に疑問を呈し、
論語や孟子の原典を読み込み、その言葉が本来秘める真意を把握することに努めた。

理論だけでなく「人道」つまり人として正しく生きる為に学問が必要との思想から
日常生活の上で、主観的に実践する学問の重要性を説いた。

また、孟子の教えの核心部は「人間にとって最も大切なことは、学問と教育によって善へ導ける」
ということであり、階層の隔てなく「学問と教育の重要性」を強調した。

「人間は善に生きることが本来困難であり、誘惑の道が常にあることを自覚し、学問、勉強を怠ると堕落する」
と説く、実践主義と自由な校風が町衆に支持され、塾の門弟はどんどん増えていった。

また、仁斎は古義堂と同時に「同志会」も創設している。
俗説として流行している、禅学や老荘思想とごっちゃ混ぜにした、非儒学的な思想を介入させた
「儒学の日本化」についた研究する集まりで、月に2~3回例会を開いている。

例会ではお茶とお菓子を各自が持ち寄り、仁斎がまとめ役となり、研究者が指南役を輪番制で務めていく。

基本を音読として全員で唱和し、刷り込んでいく。
更に、指南役に当たっている者は論題を事前に作成をし、問題提起をしながら、参加者が回答する方式で
進めていく。指南役はその議論から感じたところをレポートにまとめ提出する決まりとなっていた。

「教わる者も、教える側に回ることで学ぶ」という実践授業も行っていたのだ。

その中から多くの優秀な門人を数多く配し、古義堂の学問は全国へ広がっていった。

後に流行する荻生徂徠の護国学派や石田梅岩の心学も、仁斎の思想の影響を受け誕生したともいわれる。
また、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の大石内蔵助は漢学を仁斎から学んでいたといわれる。


日本思想史にその足跡を大きく残した市井の学者・伊藤仁斎が、
角倉家から出ているとこに私は注目したい。

了以の子、素庵は日本儒学の祖といわれる藤原惺窩の門下生だった。
その友人に江戸幕府お抱えに儒学者で、朱子学の祖・林羅山がいる。

後に、その羅山が唱えた朱子学に異をとなえる仁斎だが、晩年、学者としての活動を
再開した素庵の影響を受けたことは容易に想像でき、少年期から儒学の学問的風土の
中で育ったといえる。

素庵が惺窩に頼んで作成した「舟中規約」の思想にも、強い刺激を受けていたのではないか。

了以、素庵親子の事業から生まれた思想が、その後、仁斎により
さらに実践的思想にまで昇華し、日本思想史に大きな影響を与えている。

産業、技術の分野だけでなく、道徳、生き方という思想の分野まで
近代日本に影響を与えた角倉一族の活躍。

明治維新後の歴史から封印された角倉一族の検証の必要性を強く感じずにはいられない。

仁斎の墓は、了以たち角倉一族と同じ小倉山・二尊院に眠っている。

残念・・・増水による運航中止。待ち遠しい、夏の保津川下り!

2012-07-02 08:25:17 | 保津川下り案内
いよいよ7月、夏の訪れを感じさせる陽光がまぶしい朝ですね。

こんな良好な天気にもかかわらず、残念なことに今日の保津川下りは
昨日の強雨の影響で川の水位が急上昇、増水の為運航が中止となっております。


只今、徐々に水位は減少しているものの、まだ安全運航水位に達していないとのこと。

澄み渡った青空に、緑が深まる山々の風景、谷を渡る涼やかな風。

初夏の保津峡は、一年で最もいのちが湧き立つ躍動感に包まれる季節です。

水面を照らす日の光がキラキラと輝く、幽すい境を流れる舟下りは
納涼避暑の遊びとして江戸時代から知られる京都の夏の風物詩です。

増水がひけば、豪快な水しぶきを上げて急流を下る迫力ある舟下りを体験できます。


鮎が躍り、カジカ鳴く、清く美しい夏の自然のにつつまれながら
川の迫力をからだいっぱいに体感しながら、素敵な思い出をおつくり下さい。


さて、水位ですが、この調子で減少すれば昼から運航再開が可能かも?

水位が下がるのが待ち遠しいです。


夏の保津川下り、いよいよ開幕近しです!


水位が減少するまで、もうしばらくお待ちください。



★((水位減少につき午前11時より出航再会です!)