平成7月15日未明、京都市北部と亀岡市を記録的な豪雨が襲った。
1時間に約90ミリ~100ミリも降ったという猛烈な雨は、我々の仕事場である保津峡にもその鋭い牙を剥いた。
保津川では、川幅が狭くなる渓谷部の水量が僅か1時間余りで通常の6倍以上も上昇し、
激流と化した川の流れは護岸と河床を荒らした。
翌日、雨雲が去り、川の水位が減少するにつれて、その被害状況に愕然とする。
川は巨岩が多数流石し、河床の高低も大きく変化している模様。
また、渓谷に降った激しい雨は山々をも崩し、観光列車の線路を埋め塞いだ。
遊船組合は協議の結果、7月末までの運休を決定した。
また、渓谷を走る嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車も8月上旬までの運休を決めた。
本来なら賑やかな観光客の歓声がこだまする夏休み前の保津峡は、この豪雨により静かな夏を迎えることとなった。
振り返ってみると、保津川下りの歴史は自然という川との戦いにより綴られている。
その戦いの中で気付かされるのは、自然との共生する知恵と心だ。
広大な丹波山地の谷川を多く集め、亀岡盆地のはずれ、JR山陰線馬掘駅付近から深い渓谷へ入り、
山々を縫い蛇行しながら嵐山へ流れていく間を保津川と呼ぶ。
太古、徐々に地表面が隆起し、川が長い年月をかけて侵食して生み出した
穿入蛇行(せんにゅうだこいう)のV字形の渓谷だ。
川底の侵食が隆起部を勝っていたために、流路をあまり変えることなく、
もとの蛇行形は残してはいるものの、渓谷内は川幅も狭く、流れも強く複雑なため、
自然の要害と呼ばれ筏しか流すことができない川だった。
この様な渓谷の川に、舟の通行を可能したのが、嵯峨の豪商・角倉了以・素庵親子であったことは、
ここでも何度も書いている通りだ。
記録によると、開削前の保津川は、いたるところに巨岩群があり、
その岩を除去または破砕して航路を確保しなければならなかった。
今回のように水中にある大岩は、舟に櫓を組んで、梃子を応用して除去、
また今も変わらない滑車によって引っ張り上げた。
水面に出ている巨岩は火を炊いて熱し、水をかけ破砕した。
川幅の広い浅瀬は、水寄せと呼ばれる石積みの水制工や木工沈床などを設置し水を絞り、流れをつくった。
また、小さな浅瀬は深く掘り下げ、滝のように落差の大きい瀬は、底を削って下流との差を少なくするなど、
了以たちは、当時では最先端の土木技術を駆使して、舟の航路をつくり出した。
自然のままの保津川に、人工の工法、人の手を加えて舟の通行を可能にしたのだ。
ただ、自然はいつも、人工の構造物をそのままにして許しておかない。
元の原風景への復元を望むかの様に、度々猛威を振るい構造物を押し流し、河床を埋め戻す。
その度に、舟は運航不可能に陥る。船頭は丘に上がらなくてならなかった。
私が知っているだけでも、平成7年の梅雨の豪雨や平成16年の台風23号では大増水による
巨岩流石で20日以上の運航中止。
さらに保津川開削400周年の年であった平成18年の壁岩落石での約1ヶ月にも及ぶ運航中止もあった。
自然の猛威はなにも豪雨だけではない。平成6年には日照り続きの夏となり、
大渇水による40日運航中止なども強烈な思い出として脳裏に残っている。
このような自然の無情ともいえる差配の度に、我々船頭は職を守るために懸命に戦ってきた。
そして、今回の事態もこれまで同様に、果敢な挑戦を挑んだ。
「川でいきる」ためには、自然への挑戦をあきらめる訳にはいかない。
険しい渓谷内には重機を入れることは適わなく、人の手作業・人海戦術でしか川の工事はできない。
船頭は今も昔も、了以以来から継承されている川工事の技術を駆使して、再び航路確保の川工事を行うのだ。
そして、その度に運航再開に漕ぎつけ、開削以来、406年途絶えることなく、
保津川に舟が流れる風景を守ってきた。
しかし、これは川を制し、川との戦いに勝利したのでは決してない。
もともと、自然との戦いに勝者も敗者もいない。
航路を確保したとしても、一時的に川を制したに過ぎず、また、いずれやってくる
自然の猛威の前に脆くも崩れ去ることを私たちは知っている。
結局、船頭たちは自然へ僅かの手を加えさせて貰っているに過ぎない。
自然が起こす現象を、まずは全て受け入れ、その後に先人から培ってきた伝統の知恵と技術で対応するだけだ。
そうして船頭たちは、何度も何度も川の工事、作業を繰り返し、今まで生きてきた。
自然のどんな姿もすべて受け入れ、生きるために手を加えていく。
自然の計らいで姿を自由自在に変える川と‘共生’する知恵の学びが保津川では展開されてきた。
川に生きる‘川人’たちは川があるから生きていくことができる。
その川に、少し人工の工夫を施すことで生きていくことを、期間限定付きで許されているだけだ。
自然から受ける恩恵はこの上なく大きい。
しかし、一番、恐ろしいのも自然である。
美しかった川が一転、牙を剥けば、川人の生活はたちまち窮し、最悪の場合、命すら脅かされる。
観念や想像ではなく、生活に直結する実体験として自然の恩恵と畏怖を味わい、
その両面を合わせ持つ保津川の本当の姿を一番知っているのは川人である船頭たちだろう。
だからこそ、川と人との関係性を、先人から受け継いだ知恵と技術、そして記憶の中から、
時代を超えて導きださねばならい。
独自の自然観を後世に伝えていく使命があると強く感じている。
今日から保津川下りの運航が再開する。
間違いなく今年は400年の歴史に残る年になったと思われる。
ぜひ、今回の記憶から得たものは何か?後世にしっかり伝えていかねばと思っている。
1時間に約90ミリ~100ミリも降ったという猛烈な雨は、我々の仕事場である保津峡にもその鋭い牙を剥いた。
保津川では、川幅が狭くなる渓谷部の水量が僅か1時間余りで通常の6倍以上も上昇し、
激流と化した川の流れは護岸と河床を荒らした。
翌日、雨雲が去り、川の水位が減少するにつれて、その被害状況に愕然とする。
川は巨岩が多数流石し、河床の高低も大きく変化している模様。
また、渓谷に降った激しい雨は山々をも崩し、観光列車の線路を埋め塞いだ。
遊船組合は協議の結果、7月末までの運休を決定した。
また、渓谷を走る嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車も8月上旬までの運休を決めた。
本来なら賑やかな観光客の歓声がこだまする夏休み前の保津峡は、この豪雨により静かな夏を迎えることとなった。
振り返ってみると、保津川下りの歴史は自然という川との戦いにより綴られている。
その戦いの中で気付かされるのは、自然との共生する知恵と心だ。
広大な丹波山地の谷川を多く集め、亀岡盆地のはずれ、JR山陰線馬掘駅付近から深い渓谷へ入り、
山々を縫い蛇行しながら嵐山へ流れていく間を保津川と呼ぶ。
太古、徐々に地表面が隆起し、川が長い年月をかけて侵食して生み出した
穿入蛇行(せんにゅうだこいう)のV字形の渓谷だ。
川底の侵食が隆起部を勝っていたために、流路をあまり変えることなく、
もとの蛇行形は残してはいるものの、渓谷内は川幅も狭く、流れも強く複雑なため、
自然の要害と呼ばれ筏しか流すことができない川だった。
この様な渓谷の川に、舟の通行を可能したのが、嵯峨の豪商・角倉了以・素庵親子であったことは、
ここでも何度も書いている通りだ。
記録によると、開削前の保津川は、いたるところに巨岩群があり、
その岩を除去または破砕して航路を確保しなければならなかった。
今回のように水中にある大岩は、舟に櫓を組んで、梃子を応用して除去、
また今も変わらない滑車によって引っ張り上げた。
水面に出ている巨岩は火を炊いて熱し、水をかけ破砕した。
川幅の広い浅瀬は、水寄せと呼ばれる石積みの水制工や木工沈床などを設置し水を絞り、流れをつくった。
また、小さな浅瀬は深く掘り下げ、滝のように落差の大きい瀬は、底を削って下流との差を少なくするなど、
了以たちは、当時では最先端の土木技術を駆使して、舟の航路をつくり出した。
自然のままの保津川に、人工の工法、人の手を加えて舟の通行を可能にしたのだ。
ただ、自然はいつも、人工の構造物をそのままにして許しておかない。
元の原風景への復元を望むかの様に、度々猛威を振るい構造物を押し流し、河床を埋め戻す。
その度に、舟は運航不可能に陥る。船頭は丘に上がらなくてならなかった。
私が知っているだけでも、平成7年の梅雨の豪雨や平成16年の台風23号では大増水による
巨岩流石で20日以上の運航中止。
さらに保津川開削400周年の年であった平成18年の壁岩落石での約1ヶ月にも及ぶ運航中止もあった。
自然の猛威はなにも豪雨だけではない。平成6年には日照り続きの夏となり、
大渇水による40日運航中止なども強烈な思い出として脳裏に残っている。
このような自然の無情ともいえる差配の度に、我々船頭は職を守るために懸命に戦ってきた。
そして、今回の事態もこれまで同様に、果敢な挑戦を挑んだ。
「川でいきる」ためには、自然への挑戦をあきらめる訳にはいかない。
険しい渓谷内には重機を入れることは適わなく、人の手作業・人海戦術でしか川の工事はできない。
船頭は今も昔も、了以以来から継承されている川工事の技術を駆使して、再び航路確保の川工事を行うのだ。
そして、その度に運航再開に漕ぎつけ、開削以来、406年途絶えることなく、
保津川に舟が流れる風景を守ってきた。
しかし、これは川を制し、川との戦いに勝利したのでは決してない。
もともと、自然との戦いに勝者も敗者もいない。
航路を確保したとしても、一時的に川を制したに過ぎず、また、いずれやってくる
自然の猛威の前に脆くも崩れ去ることを私たちは知っている。
結局、船頭たちは自然へ僅かの手を加えさせて貰っているに過ぎない。
自然が起こす現象を、まずは全て受け入れ、その後に先人から培ってきた伝統の知恵と技術で対応するだけだ。
そうして船頭たちは、何度も何度も川の工事、作業を繰り返し、今まで生きてきた。
自然のどんな姿もすべて受け入れ、生きるために手を加えていく。
自然の計らいで姿を自由自在に変える川と‘共生’する知恵の学びが保津川では展開されてきた。
川に生きる‘川人’たちは川があるから生きていくことができる。
その川に、少し人工の工夫を施すことで生きていくことを、期間限定付きで許されているだけだ。
自然から受ける恩恵はこの上なく大きい。
しかし、一番、恐ろしいのも自然である。
美しかった川が一転、牙を剥けば、川人の生活はたちまち窮し、最悪の場合、命すら脅かされる。
観念や想像ではなく、生活に直結する実体験として自然の恩恵と畏怖を味わい、
その両面を合わせ持つ保津川の本当の姿を一番知っているのは川人である船頭たちだろう。
だからこそ、川と人との関係性を、先人から受け継いだ知恵と技術、そして記憶の中から、
時代を超えて導きださねばならい。
独自の自然観を後世に伝えていく使命があると強く感じている。
今日から保津川下りの運航が再開する。
間違いなく今年は400年の歴史に残る年になったと思われる。
ぜひ、今回の記憶から得たものは何か?後世にしっかり伝えていかねばと思っている。