保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

命を賭ける仕事とその遺産

2019-09-16 16:21:03 | 保津川下りものがたり
「人生は50年ともいう。もう、いつ命が尽きてもおかしくない歳になった。


しかし・・・まだ、自分は人生で成すべき目的を果たしていない気がしてならない。

否、自分はその目的を果たすことができるのに、力を出し尽くしていない!」

朱印船貿易に成功し、商売、一家を潤わせたにもかかわらず、
50歳を前にした角倉了以は日々、自問していた。


「今ならできる。前人未到の大事業を!いや、今やらねば、死して後悔を残す。」


立ちはだかる断崖絶壁、行く手を遮る巨岩や奇岩、うねり落ちる滝。険しい大峡谷へ挑んだ了以以下角倉一党。

岩の除き、川底を掘り、川の流れを変え、新しい航路をつくり、天下人ですらなし得なかった巨大プロジェクトに成功し、
和船通行を可能にし、地域を潤わせ、国を潤わせた。

あれから413年、昨日も世界各国から2000人の観光客が、了以の作った川の路を下っていた。

前人未到の偉業・・・今も保津川の流れとともに。

"2億年の地層が迫る京都最大の峡谷・保津峡‘

2019-08-04 09:57:27 | 保津川下りものがたり
"2億年の地層が迫る京都最大の峡谷・保津峡‘’


三畳記からジュラ紀にかけて、海底で層状された
地層が隆起し、激流に侵食されて生まれた大深谷だ。



悠久の時を刻む地球の歴史と繋がる地層の壁岩に、
400年間、竹竿を差し続けた船頭たちが削った「棹の跡」


その深さは10cmにも満たない。

保津峡・・・それは・・・


地球の自然と人が織りなす、歴史・b景観に他ならない。


京都鉄道博物館で講演をしてきました!

2018-10-28 08:01:09 | 保津川下りものがたり
昨日は京都市の梅小路にある京都鉄道博物館で「保津峡のりもの物語」と題して講演会を行いました。

2億5千年前、浮遊微生物の化石が海底で積み重なった層が隆起して生まれた保津峡。
延暦3年(784)長岡京道営時から筏による木材輸送が始まり、平安京遷都道営事業により水運事業が活発になります。
412年前、慶長11年(1606)に角倉了以により舟運が開かれ、農産物や薪炭などの丹波産物が京の都へ供給されました。

明治32年(1899)に京都鉄道株式会社(現嵯峨野観光鉄道)開通し、京都~丹波~丹後間のひと・もの・情報の
流通や交流が盛んになりました。

そして現在、世界中から年間約150万人も人々が訪れる峡谷となっています。

「船が下り、鉄道が走る!」

京の峡谷・保津峡には全時代に渡り、人々の最先端の知恵と膨大な資金が投入されています。

そこまでしても、この峡谷の流通経路を整備しなくてはならない歴史こそ、
保津峡という自然の要害が繋ぐ京の都と丹波地域の関係性をあらわしています。

京の都と丹波という地の相互における重要性を知る事できます。

世界史に類をみない「千年の都・京都」を造り、支えた保津峡。
そしてその流通を担った「のりもの」たちに賭けた人々の夢と希望、そして強固な精神で
自然に挑んだ歴史物語に焦点を当て、お話をいたしました。

今後もその視点を大事にして、保津峡の日本史的価値を問ていきたいと思います。

川に挑む先人の知恵、航路の整備作業

2018-06-07 07:33:56 | 保津川下りものがたり
これは歴史を懐かしむイベントではありません。

現在も保津川で生きる為に日々当たり前の様に続けられている作業風景です。

1300年間、京の都と丹波を結ぶ物流ルートの大動脈だった保津川。

その中で最も難所と呼ばれたのが中流域の保津峡でした。

狭窄にして急峻、激流が大岩を噛む保津峡は、猛者の筏士ですら度々命を落とした自然の要害です。

筏しか流せなかったこの要害に、舟運を切り開いたのが京都の豪商・角倉了以。1606年のことでした。

以来、洪水により漂着した巨岩や堆積土砂が航路を塞ぐたびに、
船頭たちは昔ながらの手作業により復旧工事を施してきました。

その技術は重機の進入を許さない険しい峡谷の条件のもと、
当時のまま、今も保津川船頭に受け継がれています。

急流に身を投じ、川底を潜り、岩に綱を掛け、取り除くのです。

自然とともに生きることを宿命づけされた「川人」たち。

その激しい川との闘いの姿に、不撓不屈の意志で開削した角倉了以の技術と精神が、
息づき守られている「川と人」の物語が今この時も展開されています。

川とともに生きてきた丹波、嵐山の人々の知恵と技術、そして精神。

これこそが保津川流域特有の生活文化であり、希少な無形遺産だといえるのではないでしょうか?

<もうひとつの保津川水運・清滝川の筏流し>

2018-04-25 14:44:52 | 保津川下りものがたり
<もうひとつの保津川水運・清滝川の筏>
京の都をつくった保津川(桂川)の筏流しは有名ですが、
支流・清滝川にも筏流しがあったことをご存じでしょうか?

拾遺都名所図会にも紹介されている清滝川筏。
その図には大木の一本丸太に乗る筏士が紹介されていますが、
本流にも劣らない12連筏が流れていたことを知る人は少ないのです。

清滝出身の我が家では、曽祖父のノートに
「交通不便なりし往時は、伐採せし材木は筏に組んで流せしものなり。
遠く小野郷迄もで出掛けて筏流しをした。
清滝の筏士はその技術の点で他村の筏士を圧倒していたいわれた。」と書いてあります。

また、私が取材した清滝川最後の筏士・渡邉幸雄氏からも、
清滝川筏の歴史と操縦術を伺いました。

桟敷ヶ岳から小野郷→中川→高雄→清滝→保津川→嵐山へと
愛宕山系の水を寄せて流れた「もうひとつの筏流し」

いつか紹介できる時が来ることを願っています。

412年の継承。保津川船頭の操船術とは?

2018-04-07 17:22:52 | 保津川下りものがたり
412年間、途絶えることなく継承されている保津川船頭の操船術とは?

大蛇行の先行河川である保津川は大自然が築いた要害。
ここに川船を流すことは並大抵なことではありません。
古代より丸太を流していた筏流しでも、操縦する筏士が投げ出され、
度々、命を落とす難所で、河船を流すなど不可能だと、近世までは思われていたのです。

川は曲がりくねり、渦を巻く複雑な流れで、奔馬のごとし急流も多い。

この保津川に船を流すためには、強靭な肉体と強固な精神力が必須で、
その修行も当然厳しいものになります。

だから今でも、保津川船頭の採用年齢は30歳までとなっています。

身体能力が落ちていく30代からの習得は難しいのです。

血豆が出来、皮が破れることで、船頭の手をつくる「櫂ひき」、
舳先で竿を差しながら体力の限界まで走り尽くす「竿さし」
瞬時に水流の強さや風向きを読まねばならない「舵持ち」。
しかも、この3か所を担当する3人の船頭たちの息がぴったり合わねば、
安全に船は流せないのです。

強靭な肉体と水流の知識、そして独りよがりではない協調性を有しなければならない保津川下りの操船術。

これほど高度な川船の操船術は、世界に類を見ないものと自負しています。

そして、この技を継承し、今に伝えていることが、保津川船頭の誇りでもあります。

この保津川船頭の操船術、刮目して見ていただきたいです!

412年の伝統を受け継ぐ、新人船頭の奮闘記

2018-04-06 11:03:55 | 保津川下りものがたり
花薫る4月。入学式や入社式が各所で行われ、新たなスタートを切る人も多いのではないでしょうか?

弊社でも新たに新人船頭が2名入社し修行をスタートさせました。

その情報を素早くキャッチしたTV局が、早速「彼らの修行の模様を追っかけたい」
と取材のオファーが数社からありました。

保津川の船頭は櫂、竿、舵という3か所の仕事が出来てはじめ「船頭道の門」に立つことができます。

その間、2年。この2年で一定の基本的操船術が身に付かないと「船頭」になることは許されません。

3人1組で一艘の船を操船する保津川船頭の仕事。

新人には2人の師匠が2年間付き、412年続く操船技術を叩き込みます。

雨の日もあれば、風の日もあります。寒い日もあれば、炎天下の日もあります。

挫けず弱音を吐かず耐え抜き、腕を磨いた者だけに、保津峡という自然の要害に船を流すことが許される世界。

それが412年続く保津川船頭です。

伝統を受け継がんとする彼らの、汗と涙の奮闘記。

さて、どのような撮影になるか、今から楽しみです。


筏から川船、そして鉄道へ 保津峡、人と自然のものがたり。

2018-04-04 18:17:07 | 保津川下りものがたり
春の桜街道となっている京都・保津峡。嵯峨野トロッコ列車が走り、川船が保津川を下ります。

2億年前の地層が隆起して生まれた保津峡は自然の要害です。

そこに桓武天皇が筏を流し、角倉了以が船を通し、田中源太郎が鉄道を敷きました。

日本の歴史の全時代において、人は自然の要害に筏、船、鉄道という流通網を整備してきました。

当時の最先端の技術と莫大な資金を投入して。先人たちはなぜ、そこまでしてこの保津峡に強い流通網を構築したのか?

そこに、京都と丹波亀岡の歴史的関係性が見えてきます。

そして現在、その水運と鉄道という産業遺産は観光のコンテンツへ姿を変え、
全世界120ヵ国から訪れる観光客をもてなしています。

1200年の物語を綴りながら。

保津川下りの社屋の窓から。

2018-03-19 13:37:51 | 保津川下りものがたり
朝、保津川下り社屋の窓から、工事風景を見ながら思う。

球技場として建設が進む「京都スタジアム」生態系保全に配慮して、
当初の建設予定地から、私たち保津川遊船社屋の隣に建設変更されました。

今後はお隣さんとして永久にお付き合いする仲になるはずです。

京都市内から見て、亀岡市の入口に位置するこのエリア。

嵯峨野トロッコ列車がつなぎ、自然と生態系豊かな保津川がながれ、日本最古の舟下りが継承されているこの地は、
現在、年間延べ150万人もの人々が行きかう交差点です。

JR嵯峨野線を含めれば、市外の人々を200万人以上、大量移動させる力のあるエリアといえるでしょう。

この視点に目をむければ、この京都スタジアムの建設はさらに交流人口を引き込む強力なコンテンツになり得るばずです。
しかし、その場合、これらのコンテンツがただ近い場所にあるだけでバラバラに存在していては、発信力も分散されます。

トロッコ列車と駅、保津川流域、JR線、スタジアム、舟下りが集結するこのエリアを、
印象的に上手くまとめるような「コンセプト」「テーマ」が必要な気がしています。

スタジアム周辺に整備される商業エリアの開発も大事です。
このコンセプト・テーマのもとに、ホテルやアミューズメント、カフェグルメ等をまとめ、
すでにあるコンテンツともつなげて、「‘ここ’にしかない!」
テーマパーク的視点の整備ができれば、マーケットは広がっていく。

テーマはネイチャーでも、ポップカルチャーでも、ヒストリアでも構わないと思います。

アユモドキという超希少な生物が生息する地での開発という点も前向きに取り込み
「自然と共生する」斬新にして希少でありながら、訴求力のあるエリアに開発できれば、
地域間の経済波及効果は計り知れないはず。

勿論、やるなら中途半端ではなく、徹底的にクオリティの高さも追及していく。

今、工事が進められているこのエリアが、そんな「夢」が広がるエリアになっていく姿を社屋の窓から眺めていたい。


・・・・そんなことを空想しながら、今日一日を頑張ります!

こんな会社あったのか?~川本直水氏とは~

2018-02-28 15:48:11 | 保津川下りものがたり
戦後日本の復興を観光業に見出し、観光・保津川下りの基盤を築いた川本直水氏とはどの様な人物だったのか?

高知県出身で弱冠25歳の時、小さなタクシー会社から身を起こし、
京都のタクシー業界をまとめ京聯自動車設立後、観光バス会社を立ち上げ、
一大企業グループ・大都産業(株)を率いた実業家だ。

その中には東京のはとバスもあった。この大型貸切バス営業は「観光バス」として日本に定着することになる。

また比叡山や東山にドライブウェイを整備し「ドライブ」の有料レジャー化を生んだ。

一方、清水寺にバス駐車場、京都市の駐車場設置に取り組み、モータリゼーションの到来にも備えた。

日本最初の長距離バスとして発足した日本急行バス等も川本氏の構想によるものと云われている。

その事業手腕は日本国内に知れることとなり、政財界や文化・芸能界にまで幅広い人脈を持っていた。
時代に先駆け「観光立国」を提唱し続け、独創的な感覚と斬新な発想で
観光・輸送事業の先覚者的役割を果たした川本直水氏は、
日本の観光・レジャー発展史にその足跡を残している。

同郷の坂本龍馬に心酔していた川本氏は、私財を投じて京都円山公園に坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像を建立している。